青森、津軽へ夏の旅
 
2003年8月、3泊4日で青森に旅してきました。
オオアマさまが旅行者のパンフレットを見て、イン
スピレーションで企画した旅。呉女にとって北東
北は「平泉以外は行ったことがない」という馴染
みの少ない地域。それだけに夏のすがすがしさ
とともに新鮮さいっぱいの旅でした。
八幡平
大湯環状列石
十和田湖
八甲田山
ねぶたの里
三内丸山遺跡
棟方志功と浅虫温泉
金木「斜陽館」
亀ヶ岡遺跡
十三湊
青森市外

八幡平 〜田村麻呂伝説を考える(?)〜 
 新幹線を盛岡で下車。「びゅうばす八幡平号」という観光バ
スに乗り換え北へ向かって1時間ほど。八幡平(はちまんた
い)の高原状の山地を走っています。右の写真は南の岩手県
側をバスの中から撮ったもの。濃い緑の中にところどころ沼
が見えたり、次から次へと温泉地があらわれたりします。下の
写真は標高1600m近く。秋田と岩手の県境。頂上に近い展
望台から撮った秋田県側です。この日は天気もよくなってきて
展望台の上もかなり暖かかったですが、風にあおられた猛々
しい木々を見ると冬の厳しさも思われます。
 本来ならここで自然観察でもすべきでしょうが、呉女は「八幡平」という名称に関する伝説を
考えたいと思います。バスガイドさんの説明では坂上田村麻呂が蝦夷征伐のときにここで戦
勝祈願をして八幡菩薩を祀ったことから、ということでした。他に前九年の役のとき八幡太郎と
いわれる源義家が登ったから、というのもあるそうです。いずれもあくまで伝説ですが。
田村麻呂は京都の清水寺を創建した人。京都にとっても守り神みたいな人です。八幡平をはじめ今回の旅のあちこちで「田村麻呂伝説」を耳にしました。いずれも伝説で本当は違うだろう、といわれつつではありますが、青森圏域には彼が足を踏み入れた記録はないにもかかわらず、です。
 でも田村麻呂はこの地を征服に来た人。被征服者側のヒーローであるアテルイが最近脚光を浴びていますが、そのほうが自然であって、なぜ田村麻呂が東北で英雄視されるのか、不思議だったんです。どうも田村麻呂伝説が流布したのは鎌
倉時代以降。つまり東北全体が中央支配下に入ってから。田村麻呂が創建したという神社が
多いのは津軽藩の宗教政策による、という話もチラと耳にしました。……ということは田村麻呂
伝説というのは上から作られたもの? そんなことを考えていたら夢がなくなるでしょうか。 ご
めんなさい。でも呉女は伝説が生まれる社会的、政治的背景に興味をもってしまうのです。


大湯環状列石 〜ミステリアス?!縄文後期の墓地〜
 八幡平からを秋田県に入って、十和田湖へ向かう
途中、鹿角(かづの)市にて昼食休憩。わっぱ飯や
稲庭うどんをいただきました。またバスで少し走った
ところで、思いがけないものが道の両脇に見えまし
た。大湯環状列石(ストーンサークル)です。 
 いったん山を下っているので、このあたりは標高
150m程度の台地だそうです。大湯環状列石は、北
海道や北東北に多く存在する環状列石の中でも代
表的な遺跡です。きれいな公園に整備されていて資
料館もあるようです。私たちは車窓から見ただけです

道の東側は野中堂遺跡というらしい。

上の写真の中央部拡大
が、見学者もかなりいたようです。 
 ストーンサークルといえば、私が子供のころには「宇宙人からのメッセージか」と騒がれていたものです。このあたりからUFOが見えるという噂もあったとか……。でも20年ほど前に石組の下を掘ってみたところ土壙が見つかり、その周囲から掘立柱建物の跡なども見つかったので、これは共同墓地でその周囲で祭祀なども行ったらしい、ということに今はだいたい落ち着いているようです。時代は文後期。翌日訪れる三内丸山遺跡が縄文前期から中期の遺跡ですから、それに続く後の時代になります。この平らな土地も人の手によって造成したものだそうです。そう考えるとかなり大規模な土木
工事だったことでしょう。そして円形に
組まれた石組がさらに輪になってい
るつくり。石には霊が宿ると信じて、
祖霊を祀り、それを頼りに厳しい自然
の中を生きていた人々がいたのです
ね。
 たばこの葉の畑などが広がる中を
走っていて、突然現れた別世界。バ
スの中からチラりと見ただけなのに、
強烈な印象を残す風景でした。

道の西側は万座遺跡。いずれもバスの中から撮りました。


十和田湖 〜琅かんの玉をとかしていまだたらず〜
 バスは少し標高を上げて、十和田湖の南の展望台、発荷峠(秋田県)へ。曇り。十和田湖の

発荷峠から。ほぼ円形の湖に中山半
島(手前)と御倉半島が突き出てい
ます。中山半島の付け根が休屋。近
年温泉を掘り当てて、温泉地に。
外輪山がかろうじて見えるところまで雲が落ちていました。
 青森県に入って、十和田湖畔の宿や店が集中する休屋(やすみや)が観光バスの終点。到着予定時刻が3時半。最終の遊覧船の出航時刻も3時半。予定時刻3分前くらいにバスを飛び降りて、遊覧船のキップ売り場に飛びこみ「まだ大丈夫ですか?」と叫ぶ。普段はノホホンとした呉女も、こういうときだけは必死。ですというのも、十和田湖へ来たら遊覧船に乗らなきゃ。行ってからわかったことですが、十和田湖のウリは湖水の美しさなのです。これを堪能するには船から見なきゃ。
 「山は富士 湖水は十和田 広い世界にただひとつ」と詠んだのは、十和田や奥入瀬(おいらせ)をこよなく愛した明治の文学者、大月桂月。今やここが第一級の観光地であるのは多分に彼が宣伝したお蔭のようです。
琅かんの玉をとかしていまだたらず 何秘めたるや この湖(うみ)のいろ
 これもバスや遊覧船で聞いて覚えた歌。あまりに気に入った
もので、帰ってからこの歌の作者、九条武子について調べて
みたりしました。1時間の遊覧の間ずっと甲板にいて、涼しい
風と琅(ろう)かんの湖水を満喫しました。
 休屋のホテルにチェックインした後はのんびり湖畔散策。数
分歩いたら高村光太郎作の「乙女の像」(1952年)。
 乙女の像から少し森へ入ると、十和田神社があります。こ
こも田村麻呂の創建伝説があり、祭神の一人がなぜか日本
武尊なのですが、もともとは修験者たちの霊場だったようで
す。地名の「休屋」も元来は修験者たちが籠る「籠屋」だった
のを明治になって休屋に改めたと聞きました。

遊覧船から。湖水の色がかなり実物に近く写った写真。晴れていれば、もっときれいだったかも。


乙女の像。湖にこんなに
マッチした彫刻は初めて
見ました。

  緑の杜の中の十和田神社はいい感じ。
  かなり立派な社殿です。いつごろの建築か
  はよくわからないのですが……。

翌日の朝。ホテルから休屋のバス停へ向かう。バス停裏の細い杉並木は十和田神社の参堂なんですって。

渓流は14kmにおよびます。途中の
石ヶ戸で休憩。雨でも遊歩道にはか
なりの人がいました。旅行中、傘を使
ったのはここだけでした。

 翌朝。今度は「びゅうばす八甲田号」に乗り、休屋を出発。
 十和田湖の水がきれいなのは、湖に流れ込む大河がなく、湖水のほとんどが湧き出てくるものだからなのだそうです。反対に湖から流れ出る唯一の流れが奥入瀬渓流。湖の東、子ノ口(ねのくち)が出発点で、渓流沿いに遊歩道を歩くのがいいのですが、私たちはその横の道をバスで走ります。
 渓流はほとんど道の北側に見えるので左側の席を取りましたが、観光写真に必ず出てくる「阿修羅の流れ」だけは右側で見落としました……。あの写真のイメージから急流の渓谷なのかと思っていたら、ほとんどは優しい流れ。雨でちょっと濁り気味だったのは残念。今度は是非歩いてみたいです。


八甲田山  〜意外にやさしかった夏の山〜
 雨の奥入瀬に別れをつげて、白い雲の中を走る。次は八甲田ロープウェイに乗る予定だけ
れどこんな天気では……と思った矢先にパーッと晴れてきた! 「ラッキーだったね〜」と言う
と、オオアマさまが「違うよ。あれは太平洋側から日本海側に出たから天気が変化したんだ
よ」。それで地図をよく見直してみると、なるほどバスは奥羽山脈の先端、北八甲田と南八甲
田の間(八甲田山は一つの山ではなく連峰)を東から西へ抜けていたのでした。北八甲田の
田茂萢 (たもやち)岳にロープウェイがあります。晴天の下、ロープウェイからの眺めに感動!

緑のジュウタン! 遠くにうっすら日本海。
雲の間に津軽富士、岩木山も少し見えていました。

 北を見ると陸奥湾と津軽半島。そして青森市街が一望!   こんなに町が近いとは!
 山頂駅で許された時間は30分。山頂駅を起点に八の字型
遊歩道があって、一つの輪を回ると30分。全部回ると60
分。私たちは30分コースを歩きました。緑の中の遊歩道。コー
スの分岐点ですぐ駅のほうに戻らず、少し先へ歩くと湿原の
展望台があったらしいのですが、それを見逃したのは残念で
したが、早足だったから20分で駅に戻れてしまいました。でも
バスの乗客でこういう無謀なことをしたのは私たちだけかも。
 八甲田山というと、新田次郎の小説と、その映画化で有名
になった、明治35年の悲劇が思い出されます。日露戦争を想
定した耐寒訓練で210名の将兵のうち199名が遭難して亡くな

遊歩道にて。
ったのです。私も昔小説を読んだので「八甲田」と聞いただけで身も凍るような厳しさを感じて
いました。ところが実際に接した八甲田は標高も1500mほどでものすごく高いわけでもなく、な
だらかでやさしい山々。これが冬になると厳しくなるのですねえ……、きっと。


ねぶたの里   〜「ラッセラ〜、ラッセラ〜!」〜
 八甲田の山をおり、青森市街に入る少し手前にで、バスは「ねぶたの里」に立ち寄りました。
青森といえば8月初旬のねぶた祭りが有名ですが、祭りで使われた本物のねぶたを数体展
示しています。昼食休憩も含めて60分という短い時間でしたし、施設自体ははなはだ簡素の施
設(失礼こて!?)なのですけれども、本物のねぶたの迫力と美しさに呉女は圧倒されました。
←義経を題材
にしたねぶた
 鬼の「飛び
蹴り」が迫力
←題材は忘れたけど、すごくきれいだった!
ねぶた祭りの起源には、また「田村麻呂伝説」もあるのですけれども、実際のところはよくわか
っていないようです。おそらく津軽弁で「眠い」を意味する「ネプたい」を語源とし、労働の妨げに
なる睡魔を払う「眠り流し」の民間行事で、少なくとも300年くらい前から行われていた記録が
あるとか。現在のような盛り上がりを見せるようになったのは戦後のことだそうです。
 いわば「ハリボテ」でこれだけの芸術品をつくるのですから、スゴイ! 見るまではあまり興味
なかったのですけど、ねぶたの周りで跳ね踊る「ハネト」として一度お祭りに参加してみたくなり
ました。「ラッセラ〜! ラッセラ〜!」って。ちなみにこの「ねぶたの里」では時間によっては

弘前の扇ねぷたも一つだけ展示 
ねぶたを実際に運行したり、「ハネト」を体験できるショーも行われるのだそうです。
 また、ねぶた祭りというのは青森市だけでなく県内のいろいろなところで行われていて、それぞれに個性があるそうです。青森市のねぶたは「組ねぶた」といって、幅は9m、高さ5mですから「飛び蹴り」のような横に広いデザインになりますが、西にひと山越えた五所川原のねぶたは「立ねぶた」といって高さ22mにもなる縦長デザインなんですって。またその南、前では扇型に武者絵のねぶたでゆったり静かに練り歩くとか。青森は港町、弘前は城下町の違いでしょうか。


三内丸山遺跡 〜縄文のイメージを変えた大集落〜
 いよいよ三内丸山遺跡。青森市の西南の台地にありますが、昔はもっと海が近くに迫っていたところです。
縄文のイメージを塗りかえた縄文最大の遺跡ですが、本格的な発掘がされたのは1992年、野球場建設のための事前調査でした(だから図書館で借りる少し古い本などには出ていなかったりするんです)。
 遺跡の入口です。十字架のような形のシンボルは遺物の中でも有名な板状土偶です。「縄文時遊館」というかなり立派な体験型施設をタイムマシーンに乗るような気分で通抜け、ボランティアガイドさんの案内で広大な遺跡を回ります。

縄文時代前期中頃から中期末(B.C3500〜B.
C2000)年の時代へ。遺跡公園に入ると奥に巨
大柱や大型竪穴式住居の復元が見えます。 

遺跡の中で整備されているのはまだ半分くらい。左の方はまだ工事中で右が竪穴式住居が復元されている部分。前の道も縄文時代の道跡の復元だとか。向こうには青森の町が見えます。
 青森はもともと縄文遺跡が多い地で、この周辺も縄文遺跡は多いので、この地に縄文遺跡
があることは古くから知られていたのです。よく本に出ている発掘当時の写真に扇形の建物が
写っているのですが、それは建設中の球場のスタンドです。その野球場建設をやめ て遺跡保
存を決定させたのは巨大なクリの木
の掘立柱の跡でした。その掘立柱の
跡はカプセルのような覆屋に保存さ
れ、少し場所を変えて復元された柱
があります。この柱については物見
櫓、灯台、祭殿……など諸説あり、
屋根があったのか、柱だったのかわ
からないので、見る人の想像の余地
を残して復元したそうです。

↑これがその掘立柱跡。直径
1m。等間隔に並んで六つ。木
の根元は腐らないように焦が
してあったんですって。
復元柱。復元に使ったクリはロ
シア産。日本にこんな大きなク
リがあったら天然記念物モノ。
当時クリは栽培していたとか

↑復元柱の裏に見えていた楕円形の大型竪穴
式住居。長さ32m。柱といいこの建物といい道
路といい、当時の大規模工事を思わせます。
大型竪穴式住居の
内部。立派なもんで
しょう?!↓
 もともとは「原始的採取生活」をしていたと思われていた縄文時代。でも発掘や分析の技術が進んだことで「違うのでは?」と思われだしたころに三内丸山遺跡が発掘されたわけです。遺跡自体も建物も特別に大きく、しかも1500年もの間続いた集落。出土した遺物の量もとびっきりに多いのだそうです。遺物の中でいちばんメジャーかな、と思われる「縄文ポシッェト」は最終日、
「青森県立郷土館」で見ることができました。板状土偶やヒスイの大珠は敷地内の史料館で。

↑遺跡内にいくつかある「盛土遺構」
には土器などが捨ててある。ただの
「ごみ捨て場」というより、宗教施設だ
ったかも。これは遺構の横断面。
「盛土遺構」縦断面。捨てて、ならし
て、また捨ててを繰り返したらしい。
1500年間の厚みがここにあります。
1500年ですよ、 1500年!↓

↑いろいろな形の竪穴式住居復元。入口は意外と狭いです(縄文人はスリムだったかも)。子供たちが「各物件」を楽しそうに走り回っていました。
なぜこんな寒いところに……との疑問も持ちますが、当時は今より少しは暖かかったのだそう
です。集落の中でみんなで協力しあって生活していた、そんな活力のようなものが感じられる
遺跡でした。1500年も続いた集落にも衰えの時期はきました。このあと環状列石や翌日訪れ
る亀ヶ岡遺跡の時代になるのですが、イメージとして宗教色が強くなるような……。環境が厳し
く変化したのでしょうか?
最近は「縄文回帰」というか、日本人の原点として縄文時代を再評価する傾向があるのだそう
です。そのきっかけとなった三内丸山遺跡。なぜかホッコリした気分になりました。


棟方志功と浅虫温泉 〜「わだばゴッホになる」〜
 青森市の西部にある三内丸山遺跡からバスは東へ走り抜けて
市の東部、棟方志功記念館へ。三内丸山と並んで、今や青森が
生んだ国際的版画家、棟方志功(1903〜1975)は青森の誇りなの
であります。今年9月5日は志功の生誕からちょうど100年。そ
れで青森では記念展が開かれたりして、盛り上がっているのであ
ります。記念展のタイトルが「わだばゴッホになる」。「わだば」は
「私は」の意。若き日の志功はこう宣言して画家を志したのだそう
です。このセリフ、この旅で最も印象に残ったフレーズです。
 志功は途中で版画(本人は板画=いたが、と呼ぶ)に転向、「釈
迦十大弟子」など多くの作品を残しました。

校倉造りの棟方志功記念館
 記念館は本人の希望で少なめの作品をじっくり鑑賞できるようになっています。赤や青の色
の入った作品……裏から色を塗る技を使うそうですが、これは正にねぶたの色です。志功は
ねぶた祭りが大好きで、祭りには必ず帰郷して参加する「楽しいおじさん」だったようです。

 もう一ヶ所、志功が帰郷して必ず立ち寄った場所。それが、この日のバスの終点であり宿泊
地。青森市の東端、浅虫温泉です。今はJR浅虫温泉駅に近い海岸線に旅館が並んでいます
が、平安時代の開湯との伝説もある温泉は元は丘側が中心地。そこに今も残る「椿館」が志
功の常宿で、志功の作品も多く展示されているそうです。私たちが泊まったのは「椿館」の姉妹
館で駅に近い小さな宿「お宿つばき」でしたが、とても清潔感があって宿の人もあたたかくて、
いい宿でした。オオアマさまも「ここのお湯は合う!」とえらくお気に入りでした。  

浅虫温泉。夕方、海岸へお風呂あがりの
お散歩。静かで気持ちがいい……。

湾をはさんで向こうに青森市街とその後ろに津軽富士岩木山が浮かんで見えました。これは天気がよくなければ見られないそうです。
もう一つ、浅虫温泉でのお楽しみは、小さな「お宿つばき」の隣りの大きな旅館のロビーで毎晩行われるという←津軽三味線の演奏会。隣りからでも聞きにいっていいのです。無料です。ロビーはたくさんの観客でいっぱい! 津軽三味線なんて、もっと暗いイメージかと思いきや、この日の演奏者、高橋竹山の孫弟子の後藤竹春さん(女性です)は楽しいトークも交え、最後には踊りも披露してくださり、心に染み入る音色とともに、とても楽しい夜だったのであります。


金木「斜陽館」  〜太宰治の生家〜
 浅虫温泉で目覚めた日は、前日までの観光バスの旅と違って終日フリータイム。JRで青森
へ出て、レンタカーで津軽半島をまわります。 

青森名産のヒバを使った豪壮な館
 青森市の西のあまり高くはない山地の峠を越えると、今までの山と町の風景は一変して津軽平野の田園風景。五所川原市街から北へ田園の中の道をしばらく走ると金木の町。明治42年、ここの大地主、津島家の六男として生まれたのが、太宰治です。明治40年に落成した生家は、戦後旅館として営業していましたが、近年修復工事がなされ、太宰治記念館「斜陽館」になっています。二人とも文学に造詣が深いわけではないので、オオアマさまもこの津軽で最も有名な観光地にあまり興味を示さなかったのですが、突如「当時の大地主の家を見てみたい」と興味を示し、行ってみたら気に入ったらしく
ずいぶん長いことウロウロするわ、写真を取りjまくるわ……。
土間に積み上げられたという米俵、それが運びこまれた蔵。
一説には銀行として使われたという事務室では、そこで繰り広
げられたかもしれない地主と小作人の会話を一人芝居してく
れちゃうから呉女は笑いをこらえるのに必死!(笑いごとじゃ
ないのよね)。そして、この家に生まれてしまった太宰の苦悩
を思うのでした(こういう家に生まれてみたかった気もするが
……)。旅から帰って呉女は太宰作品を読みまくるつもりでし
たが「この人鋭すぎるわぁ……」と思いつつ、何となく気分が暗
くなるので、今のところ2作品でギブアップしています。

太宰治が生まれた部屋。太宰の苦悩はここから始まった……。
意外に和洋折衷。階段室など
お姫様気分になってしまう。

斜陽館2階から見た津軽平野
オオアマさまは、この外壁の高さが気になるというのです。何を恐れていたんだろうって……。


亀ヶ岡遺跡  〜遮光器土偶「しゃこちゃん」!〜
 金木を出て、津軽平野の真ん中、岩木川沿いを南に走っています。うっすらだけど正面に津軽富士、岩木山が見えています(肉眼ではかなりはっきり見えて迫力でした)。周囲には水田が広がっています。次の目的地、木造(ぎづくり)町の亀ヶ岡遺跡は金木からi西に走れば程なくの場所なのですが、呉女が「五能線の木造駅を見たい〜」とわがままを言ったところ、駅はかなり南にあることがわかって、かなりムダな走りをしたわけなんです。これが思いがけずキモチのいい道でした。
その木造駅というのが、これ→。亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(ゴ
ーグルをしているような目からこう呼ばれる)をかたどってあるのです。地元
での愛称はしゃこちゃん! 周囲の木や電信柱から大きさがわかると思い
ますが、電車が来ると目がピカピカ光るそうです。チト、コワイ〜?
 そのほかにも町を走っていると掲示板がしゃこちゃんの形をしていたり、温
泉施設の名前も「しゃこちゃん温泉」だったり、と町がこの土偶を誇りに思っ
て大切にしていることがわかります。それもそのはず、今でこそ「縄文といえ
ば三内丸山」になってしまっていますが、かつてはこの土偶に象徴される亀
ヶ岡遺跡こそ、この地方を代表する縄文遺跡だったのですから。

木造駅駅舎

駅のしゃこちゃん、ズームアップ!
縄文時代の晩期、東北から北海道南部にかけて広がり、高度な技術で土器や漆塗り製品などを生み出した縄文の到達した最高峰ともいうべき文化を、ここの遺跡の名をとって「亀ヶ岡文化」と呼ぶくらいです。遺跡は駅から海寄りの道をしばらく北へ走ったところにありました。このあたりは江戸時代から土器(甕)が出土することで知られ、それが地名の由来になったといわれています。それらの土器は芸術品としても優れたものだったので、かなりの量が売りさばかれ、中には海外に渡ったものまであったといいます。それらのうちのいくつかを翌日青森県立郷土館で見ることができましたが、洗練されたうっ

亀ヶ岡遺跡に立つしゃこちゃ
んは人間の等身大くらい。背
後は台地。前は水田地帯。
のどかなイイところです。
とりするような逸品ばかりでした。この「しゃこち
ゃん」は明治になって発掘されたそうです。よく
ぞそれまで掘り出されずに残っていてくれたも
のです。遮光器土偶は各地で出土しています
が、亀ヶ岡出土のしゃこちゃんは重要文化財で
最も有名。実物は東京国立博物館の平常展
の入口近くに展示されています。つい先日、感
激の対面をしてきました。高さ30cm。思ったよ
りも大きいです。写真から「しゃこちゃんってブ
キミ〜」と思う方も一度実物をご覧になれば、そ
の美しさに驚かれることでしょう。

お土産に買ってきたしゃこちゃんの置物。高さ10cm。出土したしゃこちゃんに片足はなかった。


十三湊(とさみなと) 〜落日の中世港湾都市〜
 地図で津軽半島を見ると西岸にけっこう広い潟湖があ
るのがわかるのですが、それが岩木川が流れ込む十三
湖(じゅうさんこ)です。亀ヶ岡遺跡の前の道を北へ走る
と、自然にその十三湖と日本海との間の砂州に導かれ
ます。今は静かなこの砂州が中世には日本を代表する
港町の一つだったのです。「十三湊遺跡」の看板で砂州
中央の南北直線道路に入ります。この道路は幅が拡張
されているものの、中世都市の中心道路にほぼ沿って
いるらしいのです。そして、その周辺は畑になっています
が、その畑の区画はほぼそのまま当時の商店などの
町屋の区画が残っているのだそうです。文献史料が少
ない謎の港町なのだそうですが、10年ほどの前からの発

後で行く福島城の看板の周辺地図。
左中央部分が十三湊遺跡。

十三湊遺跡の中心道路
北側には豪族の館が。

元は町屋が並んでいた畑。柵が
 あるのは風よけだと思います。
掘調査で、この砂州の地面には中世都市がそのまま眠っていることがわかり少しずつその実態が解明されつつあります。
 十三湊が出現したのは12世紀頃。鎌倉時代には豪族安東(安藤とも)氏の本拠として栄えました。安東氏は前九年の役で有名な安倍貞任の子孫を名のる中世武士団。鎌倉幕府によって「蝦夷管領」に任じられています。鎌倉末期の安東氏の内紛「津軽の乱」は「蝦夷の蜂起」と中央から認識されて、鎌倉幕府滅亡の一要因になっ
たともいわれています。一昔前までは1340年の大津波で十三湊は壊滅した、と言われていた
そうですが、実際には復興して、14世紀から15世紀にかけてが最盛期だったようです。
砂州の西にあった港には北陸や北海道との
交易の船のみならず、大陸からの船も行き
来していたかもしれません。全国各地の陶器
類が掘り出されるのだそうです。このころ成
立したと思われる「廻船式目」という文献には
日本を代表する港「三津七湊」の一つとして
十三湊の名があがっています。ところが15世
紀の半ばには、南部氏との争いで安東氏は
北海道へと追いやられ、十三湊の繁栄の時
代は終わってしまったのです。
 十三湊遺跡の北、十三湖大橋を渡った先

十三湖大橋を渡る。左は日本海。右には十三湖が広かっています。正面は小泊の権現崎。竜飛岬はあのまた先。

中の島へ渡る遊歩道橋(実は車でも
この橋は渡れる)。周辺はものすごく
風が強い! 正面が中の島。
に、十三湖に浮かぶ中の島があります。キャンプ場などの施設があるその中の島へ橋を渡り「市浦村歴史民俗資料館」へ。安東氏と十三湊についての展示がとても充実していて、結局閉館の4時半近くまでここにいました。本当はこの先の竜飛岬まで行ってみたかったんだけど、とてもとても無理でした。
  
 もうひとつ。この地には気になることがあります。「日本書紀」の斉明天皇4年(658)に阿倍比羅夫が「有間浜で渡島蝦夷らを集めて大饗を催した」という記事があるのですが、このあたりはその有間浜の有力候補だというのです。ホントかいね、と思ったけれど、実際比羅夫がこのあたりまで来た可能性は十分あるようですし、中の島には奈良時代の遺物が発掘
される遺跡があるのだそうですから、もしかして……。

←もう一度、遊歩道橋から見た、湖の向こうの
十三湊遺跡

車の中から、山王坊遺跡
湖の北へ回ります。丘の麓をだいぶ奥に入ったところにある日吉神社。ここは山王坊遺跡といわれるところ。十三湖遺跡周辺には寺など神仏習合の宗教施設跡がいくつも残されて、中世武士団の精神世界がうかがえるのだそうです。あまりに虫が多くて、とても車から降りられない、というような場所だったのですが、この山王鳥居周辺から漂う雰囲気……。それだけでなく、ここから北は平野でなく低い山地になるのですが、それが何か神秘的な山々に感じ……。

 もう一つ、十三湖の北側に福島城跡という遺跡があります。少し古い本にはきまって「安東氏の居城だった」ように書かれていますが、最近
は発掘調査の結果、10世紀か11世紀、平安期のものである
今は言われています。とすると城柵……? 文献には出てこ
ない謎の城です。かなり広い遺跡だそうですが、行ってみると
入口に門の復元みたいなものはありましたが、草ボウボウで
あまり奥までは入れないし、展望台は閉鎖されているし……。

 十三湖高原の道の駅でコーヒーをいただき一服してから湖
の東へ出てきました。あまりに夕焼けがきれいなので車から
降りてみました。ここは汽水湖ですから、しじみが名産。手前
の浜ではしじみが採れるそうです。

福島城跡。こんなもんはあったけど。
湖の向こうに十三湊遺跡がかすかに見えます。
 私たちは今の感覚で、こんな場所に都市が栄えていたなんて……と思ってしまいがちですが、水運が中心だった時代のこと、しかも北の海産物というのは中央でも魅力的だったはずですから、大いなる富みがここにあったのです。「歴史のロマン」という言葉を安易に使うのはあまり好きではないのですが、ここではいろいろな意味でのロマンを感じてしまいました。

ちなみに現在の地名では「十三」は「じゅうさん」と読みますが、
中世までは「とさ」と読んでいたようです。


青森市街  〜りんごの香りの港町〜
 十三湖から東へ峠を越えて陸奥湾側へ出て、津軽半島の東
岸、外が浜と呼ばれるところを南下、そのまま青森市街に入って
一泊。翌日午前中、バスで青森県立郷土館へ行ってゆっくり見
学、その帰りはプラプラ散歩をしたり、青森県観光物産館アスパ
でお土産(りんごのお菓子ばっかり!)を買い込んだりして過ご
しました。
 青森駅にはこの前日に一度降り立っているわけですが、駅を出
た瞬間、二人が同時に感じたことは「りんごの香りがする〜!」。
駅前にりんご専門の果物屋さんがあったり、りんごパイを焼いて
売っている店があったりするせいだと思いますけど、りんご好きの

りんごの香りの?青森駅前

善知鳥神社
オオアマさまにとってこれはポイントが高かったのであります。 
 青森市の歴史というのは意外に新しく、江戸初期に津軽藩が弘前に城下町を建設すると同時にここに港町をつくったのに始まります。それより前、この地は「善知鳥村」と呼ばれていました。「善知鳥」、「うとう」と読みます。その名残ともいえる善知鳥神社が町中の「安方」というところに鎮座しています。5世紀ころに烏頭安方(うとうやすかた)という人が流罪になってここへ来て創建したとの伝説をもつ青森の鎮守。初詣などではたいへん賑わうそうです。
 ところで、この前日に訪れた十三湊は安東氏が去ってしまって都市が衰退したあとも、港としては残ったようです。ただ土砂がたまっ
て水深が浅くなり、日本海側では鯵ヶ沢に主要な港としての地
位を奪われていったようです。西廻りの海運に対応するこれら
日本海側の港に対し、江戸へ向かう東廻り航路の拠点として
建設され、発展したのが青森の港。町には北陸などからの移
住してきた人も多かったようです。幕末になって北の守りが重
要視されると青森の地位は高くなり、明治以降は県庁所在地と
なりました。とはいえ、青函連絡船が青函トンネルにとってかわ
られた今は青森市も難しいところにきているのかもしれませ
ん。

 正午、駅弁を買って函館発の特急「白鳥」にて八戸へ。新幹

観光物産館アスパムのすぐ裏の公園にて。潮風がキモチいい〜。
線「はやて」に乗り換えて帰ってきました。なぜか外国へ行ってきたような充実感にひたった北
東北の旅でした

(2003年8月〜9月記)

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