京都で縁結び!

 京都というと神社・仏閣がたくさんありますから、日頃決して信心深くない人でもついつい手を
合わせていろいろお願いごとをしまくったりするもんですよね。呉女もそういう一人なんです。今
ではひたすら家内安全・健康祈願・旅行安全をお願いしていますが、昔は必死に縁結びをお願
いしていたこともありました……。
 そんなわけで、京都の「縁結び」どころはいろいろありますが、効き目がありそうな(?)ところ
をご紹介しますので、これからの方は参考に……なるかしら……?

 地主神社 
 呉女がご紹介しなくても、京都の縁結びの名所で一番メジャーなのはここでしょう。かなり商売っけたっぷりの神社でもあり、京都駅や大阪駅にも看板が出ていたり、旅行雑誌にも広告が出ていたりするので行ったことがなくてもご存じの方も多いと思います。何しろ一日に出るおみくじの数が日本一とか言われているし、呉女が2003年3月に訪ねたときも、写真のようにスゴイ人でした。狭い境内にいろいろな神様が祀られている上、人が多いから、有名な「恋占いの石」(目をつぶって10mくらい離れた二つの石の間を歩けたら恋が成就するといわれて
いる)だって、下を向いて歩いていないと気がつかないくらいです。恋占いの
石に挑戦したい方はすいている日を狙いましょう。
 呉女の身近に、親に無理やりここに連れて来られてお参りし、良縁祈願
のお守りを買い与えられたおかげで結婚できたという方がおります。その
方いわく「相手は見つりますが質は保証されません。結婚後相手を連れて
報告に行き、神様が自信をなくして営業をやめるかと思ったのですが、まだ
派手に営業しているようです」とのこと(オ○○マさまという方ですけど)。実
社殿の前にはずらずらっと「良縁御礼」のお札が。ちなみにこの社殿
は徳川家光の建立で拝殿の天井には狩野元信の絵があるとか。そんな由
緒があるように見えないから損しているかもしれません。祈願は郵送やホームページでも受け付けているとのことです。
……この紹介でホントにご利益がある、と思う方がいるかしら? 神社から「営業妨害」って訴えられたらどーしよー。

 セセコマシイ境内ですが、見ものがあるとすれば、奥の恋占←いの石の左にある「地主桜」。3月半ばではまだ咲いていなくて残念ですが、八重と一重が同時に咲く珍種なんだそうです。嵯峨天皇(平安遷都をした桓武天皇の皇子)が行幸し、あまりの美しさに御車を返したという故事から謡曲などによく登場する桜なのだそうです。

 ところで、この地主神社がどこにあるかと申しますと、清水寺です。清水寺の鎮守社なので
す。神社自体は奈良時代の創建ともいわれ、嵯峨天皇が来ても不思議はありません。
 そこでついでに清水寺
 清水寺といえば、あまりにメジャーな観光地なので、かえっ
てその歴史を忘れてしまったりしますが、京都では数少ない、
古代を感じられる史跡でもあります。ここは平安京に都が遷っ
たのと同じ8世紀の末、桓武天皇の新任を得て征夷大将軍と
して活躍し、古代律令国家の勢力を広げた坂上田村麻呂
創建しました。桓武天皇は平城京の寺院勢力と決別したくて
遷都したわけですから、当初平安京には寺を移転することも
新設することも禁じられ、官寺の東寺・西寺しかありませんで
した。そんなころに寺院として公認された(805年)のですから、
タイヘンな特別扱いです。桓武天皇は武人である田村麻呂
の寺に都を鎮護してもらおうと考えたのでしょうか。 

 田村麻呂夫妻の像を祀る開山堂は拝観料(300円)を払う所の真ん前
 田村麻呂関係で、新しいものなんですけど、ちょっと面白いものが境内にあります。清水の舞台の下のほうの「アテルイ・モレの碑」です。アテルイは田村麻呂に投降した蝦夷の首長。部下のモレと田村麻呂と共に上京しましたが、802年、田村麻呂の助命嘆願も空しくアテルイとモレは処刑されてしまいました。清水寺には、こういった戦いで死んでいった人たちへの鎮魂も込められているのかもしれません。この碑は1994年に二人を顕彰して建てられました。平安遷都1200年記念というより、大河ドラマ「炎立つ」の影響かな?と。「炎立つ」のファーストシーンはこの二人の処刑のシーンでしたから。
 とはいえ、清水寺といえば本堂、いわゆる清水の舞台です。崖に造ら
れた「懸崖(けんがい)造り」というそうです。この写真は奥の院の前から撮
ったものです。
 清水寺は後に興福寺に属したので、延暦寺などと抗争し、たびたび兵火
にあったそうです。だから当時のものが残っているわけではないけれど、本
堂は平安時代以来の様式を伝えた江戸初期の建築の傑作です。
 2003年の現在、奥の院の本尊千手観音が本堂に移されて、243年ぶりに
ご開帳されています(12月7日まで)。鎌倉初期頃の傑作なのだそうですが、
ものすごーい行列だったのでこの時は諦めました。

 和服姿の呉女
 ちょうどこの日2001年に本堂のご本尊をご開帳した時に創始された「青龍会(せいりゅうえ)」が行われていました。清水寺は平安京の東、青龍の位置にあり、境内にある音羽の滝に観音さまの化身の龍が夜ごと水を飲みにくるとの言い伝えがあるそうです。その龍の誕生を表した法要らしいのですが、青龍が境内を練り歩いたあと、本堂の舞台の上で舞います。青龍の頭などは経文の書かれた和紙でできていて、なかなかの迫力でした(デザインはワタ・エミさん)。青龍会は春のほかに秋(9月半ば)にも行われるそうです。



話を縁結びに戻しましょう。
次は縁結びどころとしてはマイナーですけど、ご利益は絶大!?です。


泉涌寺・楊貴妃観音

 泉涌寺(せんにゅうじ)へは、清水寺からなら東大路通りを下るバスにのればすぐ着いてしま
います(ただし泉涌寺道バス停から参道をかなり歩きます)。でも清水寺に行ったのと同じ日の
朝、かなり雨が降っていたので、和服を着る前に京都の駅前からちょっとゼイタクしてタクシー
で。京都駅の南東わりとすぐの場所ですから、参道の奥の大門まででタクシー料金は800円くら
いでした。
 大門のところで拝観料(300円)を払って、仏殿のほうではなくて、すぐ左に入っていくと「楊貴
妃観音堂」というあまり大きくはないお堂があります。中に祀ら
れている楊貴妃観音は泉涌寺の2世、湛海が1255年に宋か
ら持ち帰ったもの。玄宗皇帝が楊貴妃の姿を写して彫らせた
ものとの伝説がありますが、玄宗、楊貴妃は8世紀の人。実
際は11世紀より後に彫られたものだろういうことですが、そん
な伝説が出てきても不思議はないくらいの穏やかな美しさ。し
かも長い間秘仏だったということで、保存状態がとても良好。
そんなわけで、この観音さまは「美人祈願」で知られていま
す。で、美人になれれば縁もある、ということなのでしょうか。
良縁祈願にもよいということになっているわけです。 

 楊貴妃観音堂
 上記の方が地主神社にお参りした一月ほど後、呉女はそのころ仕事の休みをとっては一人
さびしく京都や奈良を歩いていたのですが、その日も何気なくここへ来て楊貴妃観音を拝み、
ふと目の前にあった「良縁祈願」のお守り(袋に入っていない小さな紙のお札みたいなもの。今
でも売っています)に目がとまりました。そのとき呉女は「今年中に結婚相手を探す!」を目標
にしていましたから、すがる気持ちでそれを求め、以来肌身離さず持ち歩いた……かどうかは
覚えていませんが。それから次から次へと見合いの回数は重ねたけれど、結婚には至らず。
半年以上過ぎてようやくこの辺りの縁結びを統括する神様(そんなんいるんか?)が思い出して
くれたらしく、地主神社のお守りをもっていた人とカップリングされた、というわけ。それでこの日
は「お蔭さまで10年もちましたー」というお礼に伺ったのです。後ろで「焼き討ちじゃ〜」と叫ぶオ
オアマさまの声が聞こえたような……。ちなみにこの観音さま、呉女の「美人祈願」のほうは見
事に無視してくださいました(笑)


それで、ここでもついでながら泉涌寺の話。
 このお寺はなんと天皇家の菩提寺。それで「御寺(みてら)」と呼ばれます。そういえば天皇
家で何かあると、この寺での祈祷の様子がテレビで流れていたりします。
 ガイドブックやパンフレットにはたいてい9世紀に「空海が創建した法輪時が始まり」と書いて
ありますが、異説もあってその始まりは実はよくわかっていないらしいのです。一時荒れていた
らしいこの寺をに再興し(1218年)、泉涌寺と名づけたのは、鎌倉時代初期の僧、俊じょうです。
  この俊じょうさんについてまで、ここで書いているとまた長くなってもナンなので、「呉女の京都歴史コラム」とい
うページを別に設けましたので、そちらをお読みください。。

仏殿。屋根の勾配が急な唐様建築
 普通、お寺は石段をのぼっていったり、高くなったところにあることのほうが多い気がするのに、ここは大門のあたりが一番高くて、そこから下がっていったところに仏殿がある。境内は広いのですが「すり鉢」の底にあるような感じで、独特の静けさがあります。当初の建物は応仁の乱などの戦乱でほとんど焼け落ち、その後江戸初期ころまでに復興したようです。
 この日はお釈迦さまが亡くなられた「涅槃会(ねはんえ)」の日で、仏殿の中には江戸中期に描かれた巨大な涅槃像(絵)が掲げられ、ちょうど法要が始まったところでした。3月14日ら3日間は、隣の東福寺(歩いたらけっこうありますが)でも同じように巨大涅槃図を公開しており、これらを見に訪れる方も多いよう
です。普段は鎌倉期の運慶作と伝えられる(実際はもっと新しいと思われ
る)三尊仏が本尊として安置されています。
 古代史好きが気になるもの、といえば、仏殿を前に見て右側にある清→
少納言の歌碑でしょう。百人一首にとられた「夜をこめて……」の歌が彫
られていますが、なぜここに清少納言の歌碑があるかというと……清水寺
の南あたりからこのあたりまでの東山山麓の地域は、「鳥辺(戸)野(とり
べの)と呼ばれた葬送の地で、多くの墓が営まれた地域です。泉涌寺の
北に清少納言が仕えた中宮定子の御陵もあり、清少納言はそのそばに
隠棲して晩年を過ごした、という伝説があるのだそうです。

 御座所の庭から見た霊明殿
 
 そんな場所にある泉涌寺が天皇家の菩提寺になったのは、俊じょうが後鳥羽上皇などから信任を受けるようになり、四条天皇がここに葬られたのが始め四条天皇については「呉女の京都歴史コラム」にて。南北朝のころから天皇の火葬所になり、江戸期に入ってからは御陵が営まれるようになりました。(縁結びの話だったのにお墓の話が続くのもナンなので「歴史コラム」の「天皇陵の話」をお読みください。)
 仏殿の奥右手に霊明殿という建物があります。現在の建物は明治天皇が再建したものだそうで、入ることはできませんが、天智天皇以下の位牌が祀られているのだそうです。……
が大海人さま(天武)から称徳天皇までの、つまり「天武系」天皇の位牌はないのだそうです
(つまり、さららのもない)。そりゃ、現在の天皇の血統は「天智系」ですから、中大兄さま(天智)
を祖と考えると天武系は血がつながっていないことになるのでしょうが、そんなカンジンのところ
の天皇を邪険にすることないでしょうがっ!もーっ!
 ……というわけで、お礼に伺ったのに、怒っている呉女ですが、霊明殿のとなりに御座所とい
う皇室のお休みどころがあります。霊明殿の再建時に御所の「御里御殿」を移築してきた建物
だそうです。拝観料は別にかかりますが(300円)、ちょっと雅な気分になれるところですので、ぜ
ひ入ってみてください。
 それから、この時は訪れませんでしたが、泉涌寺周辺には大石蔵之助ゆかりの茶室(来迎
院)とか、那須与一の墓(異説あり)とか(即成院)、新撰組の伊藤甲子太郎の墓(総門の手前)と
か、見所はいろいろあるのです。



上記は個人的思い入れで書きましたが、ちょっと冷静になって、
他に京都の縁結びどころといえば……


野宮神社
 嵯峨野の天龍寺の北、渡月橋からも嵐山駅からも歩いて
数分くらい。竹林の美しいところに野宮神社はあります。ここ
は特に女性に人気があるようですね。呉女が訪ねたのは
1995年の冬でした。
 ここは伊勢神宮に仕える斎宮(天皇の未婚の親族から選
ばれる)が伊勢に向かう前に身を清める場所。近くの桂川が
禊ぎの場所だったようです。潔斎に使う野宮はその都度建設
されて、潔斎がすめば壊され、新しい斎宮のためにはまた造
る、といったものだったそうなので、嵯峨野に造ることは決ま
っていても、場所はその度に動いていたようだから、現在の

 野宮神社。前の人はオオアマさま
野宮神社があるところが、いつごろの野宮のあとなのかはわからないのだそうです。神社にな
ったのは1873年とのことだから、比較的新しいのですね。
 「源氏物語」の中で六条御息所が娘の斎宮とともに伊勢に下る決心をし、光源氏が野宮を訪
ねてくる有名なシーン「ものはかなげなる小柴垣を大垣にて……黒木の鳥居どもは、さすがに
神々しう見渡されて……」という描写を再現しています。……でも、このシーンって別れのシー
ンですよね? なのになぜ縁結び? ……また営業妨害になるといけないので、このへんでやめとこ。

 けど、懲りずにもうひとつ。
貴船神社
 京都の奥座敷とでも申しましょうか。叡山電鉄貴船駅から徒歩またはバスにて。夏になると
貴船川の上にが出て、涼味満点でご馳走を食べるのが風物詩の一つ。呉女とオオアマさま
も1999年の夏の盛りに訪ねてみたけれど、さんざん迷いつつ、経済的事情によりお食事は断
念しました。
 貴船神社は賀茂川の水源の水の神様。上賀茂神社、下鴨神社の奥社でもあるという京都
ではもっとも古い神社のひとつ(6世紀ごろの創建か)。東の山の上に鞍馬寺ができると(8世紀
末)その鎮守社にもなりました。縁結びの神様としての歴史は古いのか、和泉式部が夫との仲
を回復するために参詣した話が有名です。
 神社から奥社へ行く途中に結社という小さなお社があって、ここが縁結びの神様だということ
なので、呉女は友人と始めて訪ねた大学生のとき、必死にお参りをした記憶があります。もし
かしてその時のご利益もあったのかも、とお礼を言いました(そんな昔のことは神様も忘れてい
るんでしょうけど)。大学生の時は冬でしたので、あたりは一面雪景色。夏とは別世界の静けさ
でした。
 貴船神社は特に入口の石段がものすごく雰囲気のある神社ですが、適当な写真がないの
で、今回は写真を省略しました。
ついでにハイキング&温泉!
 川床での食事をあきらめた二人は、このあと鞍馬寺までハイキング。下りになる鞍馬から貴船へのコースを歩く人
のほうが多いかもしれません。神秘的な森や木の根道を歩くいいコースなんですが、登りは確かにキツかった〜(大
学生の時、雪道を下ったのも大変でしたけど……)。義経が修行をしたことで有名な鞍馬寺参詣のあと食事をし、その
後は鞍馬温泉で汗を流しました。…とはいえ、温泉に入ったのは呉女だけ。オオアマさまは「温泉グッズ(着替えとか
タオルとか)を持ってこなかったし、いい」って。自分の温泉グッズだけは持参していた呉女は「なんで〜? 鞍馬に行
ったら温泉に入るに決まってるじゃない!」と勝手に一人で露天風呂を楽しみ、オオアマさまは鞍馬駅の近くでお茶
を飲んで待っていました。

 



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