結婚準備?呉女、結婚前にパリへ旅立つ

1992年、呉女は年齢のある区切りを間近に控え「一年以内に結婚相手を探し出す!」という目標を定
め、お見合いをしまくっていたのでありました。(そうでもしないと一生結婚しなさそうだったから)
……で、ふと考えた。「今のうちにパリへ行きたい!」 
だって、結婚してからパリに行けるような相手と結婚するかどうかわからないじゃないですか。つまり、パ
リにだけは行っておかないと、落ち着いて結婚相手を探せない。
「だから、これは結婚準備なの」とわけのわからぬことを言って、一週間のパリ旅行に旅立ったのでした。
一人でも行くつもりが、心強いことに同僚の友人が同行してくれることになり、二人旅になりました。
ここでは、番外編の番外編ということで(結婚前の旅だし、日本ではないし)歴史どうこうというより、
なつかしいパリでの思い出をピックアップしてご紹介します。

パリに着いて早速向かったのは、もちろんパリ近郊の町ベルサイユ

パリ市内の地下鉄はとってもわかりやすいシステムになっているのですが、近郊に出る線のほうはちょっとわかりに
くい。とりあえず飛び乗ったものの不安で路線図とにらめっこ。すると白髪の紳士が声をかけてきて「どこ行くの?」
「ベルサイユ」「これは行かない」。逆向きの線に乗っていたらしい。その紳士は次の駅で一緒に降りるとわざわざホ
ームまで連れて行ってくれて「VICKと書いた電車に乗るんだよ」と言って去っていきました。こうして私たちは、その紳
士のおかげで無事ベルサイユに到着したのでした。(ちなみに言葉のほうはダメなので、身振り手振りというか……)


 駅から少し歩くと通りの向こうにベルサイユ宮殿が見えてくるああ、とうとうやってきた、
憧れのベルサイユへ……!!
(車がジャマですが、しかたがないの、許して〜)
さすが絶対王政の宮殿というべきか、意外
なほど開放的な感じでした。

宮殿内部。有名な「鏡の間」。壁に鏡。天井にシャンデリアの行列。頭の中にあの(どの?でしょう。ヅカファンならわかるはず)舞踏曲がかけめぐる……。
この部屋のすぐ隣に王妃の寝室、なんてのがあったけれど、あれじゃあ落ち着いて眠れなかったでしょう。

宮殿の裏に広がる広大な庭園。地平線まで続いているのには驚かされました。                     


宮殿の中とその周囲だけで帰ってしまう人が多いらしいけれ
ど、ベルばらファンは庭園の奥へと向かいます。庭園の中の
離宮、プチ・トリアノン宮を見るためです。実際、プチ・トリア
ノン宮の周りは日本人の女の子ばかりだったような……。


プチ・トリアノン宮の中にあったマリー・アントワネットの肖
象画彼女は宮殿での王妃としての堅苦しい生活から逃げて、お気に入りの人たちだけを集めて、この離宮で暮らしたのです。本宮殿に比べればこじんまりした清楚な離宮です。本来的にアントワネットは「贅沢」が好きだったわけではないのかもしれません。


プチ・トリアノン宮の近くに、アントワネットは本物そっくりの農家をたて、本物の農民を住まわせて、田園風の庭園をつくりました。そこに莫大な税金が使われているとも意識せずに……。  
宝塚の舞台ではアントワネットとフェルゼン伯爵の逢引
に使われる「愛の神殿 こんなところで逢引きしたら
かえって目立つんじゃないかし
ら。ちょっとテレてしまう……。
奥にかすか〜〜に見えてる建
物がプチ・トリアノン宮です。

さて、パリ市内に戻って、そのほかのベルばらの舞台

まずは、何と言ってもパリのど真ん中。オペラ座の仮面舞踏会で主人公
3人(アントワネット、フェルゼン、オスカル)は出会いました。ただしこのオ
ペラ座はもう少しあとの時代にできたものらしいです。残念。        
パレ・ロワイヤル広場
話はすごーく飛んじゃうけど、革命前、カミーユ・
デムーラン(ベルばらではベルナール)が「武器
をとれ、シトワイヤン!」の演説をしたところ。黒
い騎士が逃げこんだ場所でもありますね。

はたまたわかりにくい写真しかないのが残念ですが、バスティーユ広場にある革
命記念塔。1789年7月14日。ここにあったバスティーユ牢獄の陥落からフランス
革命は始まりました。そして、ここでこの日にオスカルさまは革命に命を散らした
のです。もちろん物語の中の話ですが。つまりここはベルばらファンの聖地である
わけです。
ここはとっておき、という意味で旅のいちばん最後に行きました。旅の終わりのさ
びしさと、聖地にきた感激と、町の喧騒と……。
現在は牢獄の面影を残すようなものはないようで、新オペラ座があったりして新し
い街の中心地になっているようです。また、革命記念塔そのものは、1830年の7
月革命を記念したものです。

さて、こちらは旅の本当の最後に、復習のために乗ったセーヌ川遊覧船からみた
コンシェルジェリー牢獄↓。アントワネットが投獄されていたところです。もちろん
中にも入ってみましたが、ここはベルばらファンでない人にもけっこうお勧め。というのは、ノートルダム寺院と同じシテ島にあって、パリの中でもここだけ別世界なんですよ。アントワネットだけでなく多くの革命家たちもここから断頭台へと送られていった、その血なまぐささを今でも語り続けているのです。
入り口がわかりにくいのですが、セーヌ川沿いにフランス衛兵隊のおにいさんみたいな人(おい
おい……)が立っていて、声をかけるとえらく愛想よく通してくれました。まるで裏口のような扉を
ギーッと開くと、とたんに空気が冷たくて、まるで血の匂いがするような……。アントワネットの
独房を再現した部屋などもあります。

で、最後はコンコルド広場。今は明るい広場で
すが、革命の時はここに断頭台が置かれていま
した。ルイ16世も、アントワネットも、そして多くの
革命家たちも、ここで処刑されたなんて…… →
歴史が進むためには、かくも多くの犠牲を必要と
したのでしょうか?
ところで、この写真の奥に↑見えるのはマドレーヌ寺院という
ギリシャ神殿風の寺院なのですが、この時修復工事中で、
実際に見えているのは工事のために被せたカバーに描かれたマドレーヌ寺院の
実物大の絵なのです。すごく素敵で、さすがはパリ!と思いました。




せっかくですから、
そのほかのお勧め……

ポンピドゥー・センター上から
見たパリ         →

オルセー美術館内部。
実は、この旅の目的のもう一つは、絵画と、その描かれた場所を見ること。日本人として月並みですが、印象派をはじめとするフランスの近代絵画が好きなんです。つまり、このオルセーはもう一つの聖地。滞在中に3回通いました。いちばんのお気に入りはヴュイヤールの「公園」で「この絵持って帰る〜〜」と泣きそうになりました。

モンマルトルの丘では、サクレ・クール寺院だけ行って帰る観光客
もいるようですが、その裏がいいのですよ。まるでユトリロの絵の中
に迷いこんだ感じです。ここはラパン・アジル。ピカソやモジリアニ
など多くの芸術家が通ったことで知られる酒場です。       

ほかに美術館ではマルモッタンとかオランジュリーとかピカソとかモ
ローとか……。(「カルト・ミュゼ・モニュマン」というパスを買うと、多く
の美術館やベルサイユ宮殿などの観光地がフリーパスになるので
とてもお得で便利です。移動には「パリ・ビジット」が便利でした)


パリ以外、パリ近郊では……

パリ郊外のポントワーズから、ローカル線みたいな電車に乗ってたどり着いた、オヴェール・シュル・オ←ワーズ。ゴッホ終焉の地です。ゴッホの描いた教会、ゴッホの描いた麦畑。そして、ゴッホはこの麦畑で自分の体にピストルの弾丸をうちこんだのです。
なんだかこの風景を見ていると、自殺するのも不思議はないと思うほど、ものさびしいのです。
この麦畑のすぐそばの墓地に、ゴッホとその弟テオが並んで眠っています。兄を慕い、兄を追うように
若くして死んでしまったテオ。彼の存在が私にとってのゴッホをよ
り魅力的にしているように思います。
ここは電車の本数が少ないので、それに合わせて行動するのが
ちょっとたいへんですが、同行した友人もいちばん印象に残った
場所と言っていました。パリから半日で十分行って帰ってこられ
ますので、絵画に興味のある方にはお勧めです。パリからバス
ツアーも出ていると思います。

パリ、サン・ラザール駅から特急電車でセーヌ川沿いを下ること1時間、ルーアンという街に行きました。その昔「ノルマンディー公国」の首都だったところで、私はモネが連作を描いたルーアン大聖堂がある街ということで憧れていたのですが、(大聖堂は残念ながら改装中でした)一般的には、ジャンヌ・ダルク終焉の地として知られています。意外に近代的なジャンヌ・ダルク教会の横に火刑前のダルク像たたずんでいます。涙が出そうなほど美しい像でした。そしてルーアンも美しい街でした。
そのルーアンの帰りに寄ったのが、ジヴェルニーモネが
晩年を過ごした家です。モネの絵に出てくる花いっぱいの
庭。ピンクの壁のラブリーな家の中には日本の浮世絵がい
っぱい飾られていました。モネは日本に憧れて、庭園を造
り、池を造り、太鼓橋を架け、睡蓮の連作を描きました。睡
蓮こそ咲いてはいませんでしたが、水に映る柳の風情は、
いかにもモネの世界でした(あたりまえか……)。モネも大好
きなんです。(この庭を小さくした感じのものが比叡山山頂のガーデンミ
ュージアムに再現されています。雰囲気だけは出ているかも。)

……ということで、パリとその周辺を十分満喫し、これだけ見まくれば後悔はない、と晴れ晴れとした心地で帰国できました。

興味がないのでブランドショップには近寄りもしなかったし、買い物は周囲の人へのお土産程度。それどころか、一度買ったものが不要とわかるとプランタンに返品に行ったり、食事はホテル近くのパン屋さん、スーパー、美術館のカフェのみですませたりという、かなり
リーズナブルな旅だったので、トラベラーズチェックは大量に残すし、体重は一週間で3キロ減るし……。ま、帰国後
のお見合いのしまくりで、フランス料理をやたらと食べたせいか、体重はすぐに戻ってしまいましたが。

この旅は結婚前ではありますが、今から思えば、出発前にガイドブックを数冊は読んだり、行く前の予習にかなりの時間をかけたという意味で、呉女のその後の旅行の原点になったのかもしれません。

ところで、「結婚準備」で行って、その後、どうなったか……。
半年後、呉女はオオアマさまとお見合いをし
この旅の本当にちょーど1年後には、結婚式を挙げていたのでした。
人間、なせばなるもんです。ハイ。

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