三井美唄の歩み-その1
 三井美唄の歴史、昭和の前半は、光と影に満ちた華やかな歴史、後半はただひたすら衰退の歴史です。
 そして平成に入ると年表にはほとんど記入するような出来事はありません。まるで歴史は消えたかのようです。
 しかしほとんど廃墟となった三菱美唄地区と違って、三井美唄のかつての炭住街には、まだかなりの人が居住しており、 当時の炭住はしだいに少なくなっていますが、改築されながらも残っています。当時の炭鉱マンの方も生活しているはずです。
 三井美唄の歴史はまだ続いているのです。他の炭鉱とともに、 その歴史をいかに後世に伝えていくかという課題が残されています。
  三井美唄の主な歩み

昭和3年7月   光珠炭鉱の経営が三井鉱山鰍ノうつる
昭和4年10月  美唄駅と三井美唄間の鉄道工事着手
昭和5年11月  三井美唄小学校創立
昭和6年12月  石炭輸送専用の南美唄駅設置
昭和7年11月  三井美唄炭鉱病院設立
昭和8年12月  南美唄郵便局設置
昭和12年8月  私立三井美唄青年学校開校
昭和14年10月 この頃美唄と三井美唄間に木炭バス
          運行始まる
昭和14年10月 朝鮮人労働者が200人移入され、その
          後その数は増加する
昭和16年    小学校が国民学校と改称される
昭和18年    美唄駅前に中央バス営業所開設。三井            美唄線を運行
昭和19年1月  南美唄駅が旅客取り扱いを開始
昭和19年7月  20年1月にかけて大量の中国人が労働
          者として連行されてくる。
昭和20年1月  三井美唄小学校火災、校舎2棟焼失
昭和20年11月 三井美唄従業員組合を結成
昭和20年11月 中国人434人が退山
昭和20年12月 三井美唄鉱は生産管理を決定、組合
          生産管理戦略の幕開けとなる
昭和21年6月  三井美唄文化連盟結成
昭和22年5月  三井美唄中学校設置
昭和22年7月  美唄町役場三井美唄出張所設置
昭和23年    従業員数4400人と戦後最高となる
昭和23年6月  三井美唄鉱業学校開校
昭和24年    選炭場で火災発生
昭和25年7月  全道に先がけてカッペ採炭採用
昭和26年    三井新美唄鉱は三井美唄鉱と合併
昭和27年1月  三井線中央バス旧美唄橋から転落
          (死者1、負傷28)
昭和27年3月  高松宮三井美唄鉱視察
昭和27年5月  私立三井美唄保育所開設
昭和27年9月  第1抗で落盤(死者6人)
昭和28年8月  合理化反対闘争始まる
昭和28年12月 南美唄市街火災で41戸全焼
昭和29年9月  15号台風被害甚大
昭和29年12月 南美唄市街火災で28戸焼失
昭和30年10月 三井新橋が竣工
昭和31年4月  三井美唄幼稚園設置
昭和31年5月  中央バス、7丁目まで路線延長
昭和31年11月 NHKTVが受信可能になる
昭和32年4月  三井南小学校創立
昭和33年7月  私立三井南幼稚園設置
昭和33年    南美唄線ディーゼル化される
昭和35年6月  配給所が分離され三美商事設立
昭和36年5月  第1回南米移住壮行会
昭和36年10月 三井美唄鉱の合理化協定成立
昭和37年1月  南美唄駅の一般貨物取り扱い廃止
昭和37年1月  三美鉱業且O美炭鉱設立
昭和37年4月  三美運輸、三美製作所、三美建設発足
昭和37年7月  石炭調査団が三井美唄鉱調査
昭和38年1月  美唄市長非常事態宣言
昭和38年7月  三井美唄鉱閉山35年の歴史を閉じる
          労組解散
昭和38年11月 カナリア団地誕生
昭和38年10月 三井美唄青雲寮全焼
昭和39年4月  市立三井美唄診療所開設
昭和39年6月  北海山田号工場全焼
昭和39年7月  三井小など中心に集団赤痢発生
昭和39年12月 南美唄生活館開館
昭和46年    南美唄旅客輸送廃止
昭和48年2月  南美唄商工業振興会結成
昭和48年3月  三美炭鉱閉山
昭和48年9月  美唄-南美唄石炭輸送廃止
昭和49年10月 三井美唄中学校全焼
昭和51年8月  誘致企業1号の泉製作所火災
昭和53年8月  三井美唄ふるさと祭り開かれる
昭和54年3月  三井美唄小学校閉校式
昭和62年8月  三井美唄保育所が半焼
 
 

三井美唄鉱の形成

新装されたばかりの三井美唄鉱業所選炭
積込場の全景。鉄道は昭和6年に開通。
選炭などの動力は蒸気から電気に切り替え
られ、坑内外の施設も整備された。
昭和3年から昭和6年までにこれらの施設に投入された資金は当時の金額で220万円。昭和5年の美唄町の年間予算が22万円だから、およそ10倍にあたる。











坑内電車  三井美唄鉱業所の坑内電車が石炭を満載して坑口に出てきたところ。それまでエンドレスに頼っていた石炭搬出は電車で地表へ搬出されるようになった。










南美唄駅
昭和6年開設当時の写真です。

炭住街の形成

昭和8年頃から、職・住の拠点は、落合の沢上流の山上から、一の沢から7号の沢に及ぶ南部丘陵地の
広大な高台に移転。この大移動により三井美唄の広大な炭鉱住宅街が形成されたのです。

昭和10年
現在の場所に移転されたばかりの炭住
昭和11年頃、形成されたばかりの南美唄商店街。
右手前は郵便局その先は滝川商店か。

炭住の形成に伴い、病院、映画館などの施設も相次いで建設されました。

映画館です。
昭和16年頃。
いかにも三井鉱山らしい風格ある建物。後に隣に鉄筋の映画館が建設されます。

(美唄100年史より)
炭鉱病院。昭和7年頃。後に増築を重ねていきます。 厚生館。昭和16年頃。映画館の隣にありました。この建物は現存しています。
  昭和16年頃の炭住。
きれいに整備されたばかりの大通りの様子がよくよくわかります。 
  これも昭和16年頃と思われます。炭鉱病院の付近から撮影した選炭所の風景です

 


これは昭和20年代と思われます。山の手町の方向から見た選炭所です。→

 
 


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