三井美唄の歩み-その2


 戦時中の
 三井美唄


平和な時代も昭和13年以降は、日の丸の旗と、万歳の声一色に塗りつぶされ、大自然の奥深く
軍事ラッパは鳴り響いた。
強制軍事教練が希望が丘グランドで活発に行われる昭和13年頃。
落合沢には粗末な急造バラックが建てられ、第1回の独身朝鮮人が来山した。

毎日出征兵士は送り出されて行った。紅燈の灯は、南陽軒、みよしの、くろねこのネオン
あけぼの、ときわからは乱れた三味線の音が流れていた時代である。
昭和15年には山神社が現在地に移送され、貨物ばかり取り扱っていた南美唄駅も新しく構築され
旅客列車が運転され、この汽車に乗って第1回の華人労務者が入山してきたのが昭和19年である

     
 勤労動員 昭和20年  赤紙をもらって 見張り所前で出兵式  旅客扱いを始めた南美唄駅

戦争末期日毎に強労制動が続けられその反面若者は前線に狩り出された。
戦線が不況になればなるほど労働は強制された。内地の都市は毎夜爆撃に見舞われ、
終わりには室蘭も砲撃され、当初に於いてもサイレンが不吉を宣告したものである。
昭和20年1月30日三井美唄小学校が火災でその大半を焼失し、長崎、広島に原子爆弾が投じられて
終戦を迎えた。


炭鉱地の捕虜収容所

シンガポールなどから移送されてきた連合軍捕虜は昭和20年頃から炭鉱地へ収容された。
三井美唄の高台に急遽新設された建物には396人の捕虜が収容されたのである

美唄、歌志内、芦別など巨大な設備をもつ炭鉱施設が空襲を受けなかったのは
この捕虜収容所の存在があったことによる。

   
三井7丁目の高台にあった捕虜収容所と収容所への道。 (美唄100年史)