溺れる金貨
#6





病院の出口へ足早に歩いていくと、驚いたような顔のグレイシアさんとすれ違った。
彼女がぼくを呼んだような気がしたが、今は誰とも口を聞きたくなくて、ぼくはうつ むいたまま、病院を出て街に向かった。
小走りに走りはじめていくらも経たないうちに、胸がきゅうきゅうと悲鳴を上げはじ めた。
うそだ。こんなのがぼくの身体だなんてうそだ。
こんなに走れない身体が自分だなんて信じたくなくて、ぼくはもつれる足で走りつづ けた。

結局、気が付いたらぼくは大学にいた。いつの間にか日は傾きつつある。週末だった ので人影はまばらだった。
ぼくは咳が止まらなくなって、少し血を吐いた。講義棟の洗面所で汚れをぞんざいに 洗い流し、ふたたび構内を歩く。
工房に行くと、慣れた匂いがした。鉄と錆と燃料の匂い。
オーベルト先生がアラインメント(調整)をとってくれたらしい。ロケットは最終の 組み立てを始めていた。
ぼくは自分が設計したアクチュエータを撫でた。機能美に満ちた曲線が、手の平に心 地よかった。




ぼくがあと3年生きられる可能性は20%なのだそうだ。

ぼくたちのロケットはきっと年内、遅くても来年の春には大気圏を飛ぶだろう。
それを、この目で見たい。ぼくたちの手で、こいつを飛ばしたい。
しかし、ぼくの残りの人生の大半をかけてこのロケットを飛ばす意味は、なんなのだ ろう。

機械が好きだった。ロケット理論の夢に魅せられ、夢中で勉強した。気がついたとき には、人と深い付き合いを交わすことより機械の美しさを一人眺めていることの方が 好きな人間になっていた。
友人たちは、ぼくを温和な、人付き合いのいい人間だと言ってくれる。しかしぼくは ただ、たまたま柔和な容貌に生まれついたのをいいことに、当たり障りのないじょう ずな付き合い方を知り、他人を深く知ることも、他人に己をさらけ出すこともしない だけだった。そのかわり、傷つけられたり傷つけたりすることもなかった。
それをそこはかとなく寂しく思わないこともなかったが、周りのみんなそうやって人 と付き合っているのだろうと思う。そんなものは、ぼくの心に空いたコイン一枚分の 穴でしかなかった。
ぼくはそうした空虚とも呼べない小さな穴を、学問で、長じてからは機械工学におけ る達成と周りからの称賛によって覆うことができた。
だから、自分の手でロケットの設計に関われることになったときは有頂天だった。
君たちの作るロケットが我がドイツの威光を世界に示すだろう、といわれたときは、 心から誇りに思った。それこそが、ぼくのやるべきことだと思った。

しかしじゃあぼくは、残りの命をドイツの威光のために捧げるというわけか?
そうなったら、なんとすばらしい生き方だと人に言われるだろうか。ぼくの墓前で、 ぼくのロケットへの功績が涙ながらに美談として語られる様子を思い浮かべて、ぼく はむなしく笑い、そして少し震えた。




突然人の気配がして、ドアがガチャリと開いた。
息を切らしたエドワードさんが、そこに立っていた。

「…アルフォンス」

ぼくは舌打ちをしたいような気分になった。彼は赤い顔にいっぱい汗をかいていて、 手に持った上着も着ているシャツもぐしゃぐしゃで、みるからに哀れっぽかった。
ぼくは彼から顔を背けた。もう二度とこの人の顔を見ることはないだろうと、ぼくは なぜかつい先刻まで信じていたようだ。
彼はぼくが思うよりぼくに執着していたらしい。そして、彼の姿を見るだけでそのこ とが苦しいような、甘いような、辛い思いになってぼくの胸をいじめはじめた。

「ごめん、アルフォンス、おれ…」
「謝らないでください」
ぼくは反射的に叫んだ。

「アルフォンス…」
「出て行ってください」
彼の顔を見もせずにぼくは言った。言いつつ、彼が出て行かないだろうという気がし ていた。
そして、彼が自分を追って来てくれたことに、嫌悪感と同時に安堵を感じている自分 がいることに気付いて、焦燥を覚えた。
窓の外の夕闇が、工房の中に斜めにオレンジと紫の影を作っていた。

「…話を聞いてくれ」

彼が息を整えて、ひたとぼくを見据える。ぼくはうろたえた。彼は今まででいちばん 真剣にぼくに対峙しようとしている。

「聞きたくありません」

少しだけ左足を引きずるような彼の足音が聞こえた。思わず懐かしいと思った。
もう何年も聞いていなかったように錯覚する。そんなぼくの耳を心が叱咤して、警鐘 を鳴らす。

「…謝りたいんだ。アルフォンス・ハイデリヒ。
おれは今まで、お前のことを尊重しているつもりで、…ちっとも大事になんかしてい なかった」
「そんなこと、ぼくはあなたに望んでない」
ぼくは冷たく言い放った。何か言い返さなければ、肯定になってしまう気がした。
「お前の面影にいつも弟を重ねていた。お前自身を見ていなかった。お前はそれを分 かっていて、それでもおれを大事にしてくれていた。それがわかっていながら、おれ はお前に甘え続けていた」
「してない。ぼくはあなたを大事になんかしていない」
おうむ返しにぼくは否定した。彼の声を聞くのも数日ぶりで、ほんとうに懐かしい気 がして、そのことがぼくの頭をさらに混乱させた。語彙が貧困になっているのが、ぼ くの動揺を明確に示している。
「お前がおれの世界を、おれにとっての現実として受け入れると言ってくれたとき、 おれは思い知らなきゃいけなかったんだ。お前はお前で、アルじゃないって。ここは おれの世界じゃないって。お前がおれを受け入れたことが、どれほど奇跡的なことな のか」
「ちがいます」
言葉が単なる反射になる。何が違うといいたいのか、もう自分ではわからない。
軽々しくも彼の世界を受け入れると言ってしまった過去の自分を、ぼくは激しく呪った。

「でも今日昼間お前がおれを殴ったとき、やっと、おれはお前の目をはじめてまとも に見たんだ。
今まで毎日見ていたけど、見ていなかったのとおんなじだ」
「言わないでください」

「アルフォンス・ハイデリヒ、お前の目は水色だ。

…お前は、弟じゃない。そんなこと、今頃思い知るなんて――俺はなんて馬鹿だ」


心臓ががくがくと跳ねてどうしょうもない。胸が、背中が、ぎりぎり痛む。
今まで騙しおおせてきたことが全部暴かれてしまった気がした。
お前は、アルフォンス・ハイデリヒだ。
お前の心の穴は、水色だ。



「だから、ごめん。
ごめん、アルフォンス」

彼はじっとぼくを見据えてつぶやいたが、ぼくは彼を見ることができなかった。

「…謝らないで」

ぼくは、彼にぼくのことなんか、見てほしくなかった。
沈んだ金貨が水面の向こうに歪んだ地上を見るように、ぼくをすり抜けて彼の世界だ けを見ていればいいと思った。

「ごめん、アルフォンス」
「…謝らないで」

ぼくたちは繰り返した。
だって彼が地上を見ることをやめたら、金貨はぼくの世界に溺れてしまうのではない か?
そんなことはありえない。だってこの貨幣はこの国では価値を持たない。
しょせん彼は彼の世界にしか帰れないのだ。ぼくと同じ部屋ではなく。
彼は繰り返しぼくに謝る。彼はきっと謝ることでぼくの世界に許しを請いたいのだ。ぼ くの部屋に居てもいいという許しを。
ぼくはそれが怖いのだ。そうしたらぼくは、ぼくまでも、彼に引きずり込まれる。

「謝らないで」

お互いが言っていることがどんなに身勝手で残酷なことか、彼もぼくもたぶん正確に知っている。



#6End

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