溺れる金貨
#5



次に目覚めたとき、ぼくは病院の簡易ベッドの上だった。
枕元にはグレイシアさんがいて、ぼくに水を飲ませてくれた。
エドワードさんは、同じ病棟の別の部屋で入院のための検査をしているとこ ろだった。ぼくはあのまま倒れてとりあえずエドワードさんと一緒に運ばれ、 貧血と診断されて、目覚めるまで寝かされていたらしい。
貧血であんな胸の痛みが起こるのかどうかちょっと不思議に思ったが、まず はグレイシアさんに重々礼を言った。
あなたもエドワードくんも自分の身体くらい自分でちゃんと管理しなさい―― 厳しい顔でぼくを叱ったあと、グレイシアさんは眉を曇らせた。

「エドワードくんね、薬物を使っていたらしいのだけど。あ なたは、知ってたの?」

医師の説明では、エドワードさんは全身の衰弱がひどく、入院の必要があ るということだった。薬物中毒である事は確かだが、実際なんの薬物を使 っていたのか医者には特定できないという。禁断症状がどれほど強いかも 推測できないので、少なくとも10日は厳重な観察が必要だと。
医者はしきりに首をひねり、コカインのようでもあるが症状が違うとつぶ やいていた。
しかし、ぼくにとっては薬物の種類なんてどうでもよかった。

彼に対して猛烈に怒りを覚えた。
あの異様なほどめざましい仕事ぶりが、薬物の力を借りたものだったのだ ということが、ひじょうに癪に障った。
仲間の提出した計画書を、生き生きと、情け容赦なく批判していた彼が思 い浮かんだ。研究室と自宅とで、複数の研究をしていたらしいことも思い 出した。
それがみんな薬の影響下にあってのことだと思うと、なぜだか、裏切られ たような気さえした。

そして激しく後悔した。
自分がもっと気を配っていれば、彼がおかしくなることをどこかで食い止め られたかもしれない。あの日あのとき顔色が悪かったのを気に留めていたの に、なぜ放っておいたのか、と悔やんだ。自分の研究に没頭して彼の姿を見 ないようにしていた自分に、彼を中毒に陥らせた責任の一端があるような気 がする、というところまでいって、はたと気がついた。

どうしてぼくが、赤の他人のぼくがそこまで彼の世話を焼かなければならな いのか。
まるで弟みたいに。
そんな思考回路しか働かない自分がつくづく嫌になる。頭を振って顔を上げ ると、医者が眉を上げてぼくに詰め寄ってきた。
「そんなことより、君。精密検査を受けなさい」





検査から数日後に、突然病院に呼ばれた。



病名は肺ガンだという。



誰か他の人のことか、何と聞き間違えたのかと思ったが、そうではなかった。 すぐにでも手術に踏み切らないと危ないなどと言われたが、手術料と入院費 を聞いたら(インフレのせいもあるが)天文学的な金額だった。とてもでは ないが一介の研究生が払えるものではない。ローンもあるから、今なら間に 合うかもしれないからと何度も言われたが、医者の声はぼくの耳をすり抜け るだけだった。
ただ、グレイシアさんやエドワードさんを含むぼくの知人にはそのことを言 わないよう口止めをして、ぼくは病院を出た。

診断を受けてから今日までをどこでどう過ごしたか、あまり覚えていない。 家には戻れなかった。昼間は街をうろつき、夜は大学で寝たような気がす る。
頭をめぐるのは、ぼくが死んだらどうなるのだろう、という取りとめもない 想像だった。

ぼくが死んだら研究仲間は泣くだろうか? ぼくが設計したアクチュエータ はぼくが居なくてもちゃんとロケットを飛ばすだろうか? ぼくが死んだら オーベルト先生は悲しむだろうか? ぼくが居なくてもだれかが毎週研究室のゴ ミ捨てをやるだろうか?


ぼくが死んだらエドワードさんは悲しむだろうか?
ぼくが居なくてもエドワードさんは平気だろうか?

気が付くとぼくは自分が死んだあとの彼のことばかり考えているのだった。





何日目かの夜に大学の控え室に戻ると、ドアに手紙が挟まっていた。
グレイシアさんが、エドワードさんの手紙をここに置きに来てくれたらしい。

ぼくは彼の手紙を読み、すっと頭が冷える気がした。
何日かぶりにのろのろと家に戻った。エドワードさんはまだ入院中で、グレイシ アさんはいなかった。
彼の部屋のドアを開けると、あのときの爆風で隅に寄せられた書類や薬品や、衣類 や金属片や紙くずが埃にまみれてまだそのままになっていた。

床にも天井にも壁にも、サラマンドラはいなかった。
彼の机の上で開きっぱなしになっているノートにだけは、鉛筆書きのサラマンドラ がいくつもいくつも書かれていた。あるものは尾を右へ振り、あるものは左へ振り、 あるものは舌を出し、あるものはぐしゃぐしゃと線で消されようとしていた。

ぼくは、グレイシアさんから託された彼の簡潔なメモをもう一度ポケットから出した。
メモは、彼の経過は良好で、2、3日中に退院できると報告したあと、こう結んであった。


会いたい。会って話がしたい。心配かけて、すまなかった。
それから、おれの仕事道具を持ってきてくれないか。


ぼくはそのメモとサラマンドラのノートを手に取り、しばらく見つめたあと両方をダ ストボックスに突っ込んだ。
そして彼の机の上にある他のものを紙袋に突っ込んで、彼の病室に向かって歩きはじめた。





「よう、アルフォンス…」

彼の第一声を最後まで言わせず、ぼくは彼を殴りつけた。
間髪いれずに、家から持ってきた彼のノートや書籍や図面の入った袋を彼のブランケッ トの上に投げつけた。

「ご所望の、あなたの仕事道具です」

息を整えて、どうにか震えずに声が出るようにと願いながら、ぼくは彼に言った。
「なにが、心配かけて、ですか」

すまなかったなんて、これっぽっちも、思っちゃいないくせに。
ぼくがあなたを心配して、心配して心配して自分の事よりも悲しく思っているなんてこ とを、これっぽっちも疑いやしないくせに。
そう思っているからあなたは、怪しげな薬を使ってまでロケットとサラマンドラとに身 も心も浸していられるんだ。
それもきっとあなたの弟が、あなたの世界の人々があなたをそのように愛していたから でしょう。

ぼくはポケットから家の鍵を出し、殴られた頬を呆然と押さえている彼を見ないように しながら、彼に鍵を突きつけた。

「ぼくはあの家を出ていきます。グレイシアさんにはあなたから説明してください」

彼がはじかれたように頭を上げた。ぼくはそれを小気味いいと思った。

「お大事に」




#5 END


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ハイデリヒ、細かい事によく気が付くし、放っておけなさそうなので、 研究室の掃除とかお茶汲みとかはかなり彼がやっているような気がする。
そしてまたエドもぜんぜんそういうことやらなさそうなので、気が付くと いつもぼく家事やってる気がするけどあれえ? って。
そんな彼はいいなあと思います。




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