溺れる金貨
#4



ぼくは早々に慰労会を辞した。
自宅のドアを開けると真っ暗だった。何も聞こえないが、気配だけは ある。暗いリビングを抜けてエドワードさんの部屋をノックすると、 ややあって、小さな物音がした。僕はドアを開けた。
暗くてよく様子が見えない。窓のカーテンすら閉め切っているらしい。
緑色のカーテンからほのかに漏れる街灯の灯りに目が慣れると、彼が カーペットもしいていない床に直に座りこんでいることがわかった。彼 は小柄な身体をさらに丸めてこちらに背を向け、手元でしきりに何かを 動かしていた。この暗い中で、何を。

「何してるんですか、灯りもつけずに…」

手探りで灯りを探そうとすると、「付けるな!」と突然彼はすごい剣幕 で怒鳴った。
びくりと手を引っ込める。短い沈黙。

振り向いて、彼はぼくを認め、ふっと表情を和ませた。

「なんだ、アルフォンスか…。ちょうどよかった、やっと、うまく行き そうなんだ」

さっきの剣幕は一瞬で消え去り、エドワードさんは静かな熱っぽさで、 暗い中、白い顔だけをこちらに向けてにこやかに話しかけてきた。ぼく は喉がからからになっているのを感じた。

「これから、実験なんだ。よかったら、見ていってくれ」
「実験って、なんの…」

ぼくはやっと唾液を飲み込んで、声を発した。しかしそんなかすれた声 は、エドワードさんの耳には入っていなかった。

「ドア、閉めてくれ…灯りが入るから…」







数日前。
「…エドワードさん」
朝出かける前に彼の部屋をノックしたが、返答がなかった。
「エドワードさん、ぼく、今夜からプレゼンの日まで向こうに泊まりま すので」
ドア越しに声をかけたが、反応がない。黙って行くのも居心地が悪い気 がしてドアを開けると、彼は机に向かってノートに何か書き付けていた。
昨晩遅く帰ったときに見たのと同じ姿勢のままだ。筆圧の高い鉛筆の音 が部屋に響いていた。

背後まで近づいて声をかけてはじめて、彼はぼくの存在に気付いた。
「アル…フォンスか」

振り向いて、彼は一瞬何かを発見したような目をした。そして見間違い だったというかのように少し首を傾げて微笑んだ。顔色は白く、目は真 っ赤だった。

こんな顔をするエドワードさんを、ぼくは何度も見てきた。おそらくは 彼はぼくが急に現れると、弟に見えてしまうのだ。もう慣れたとはいえ 、ぼくはそのたびに胸に風が通り抜けるような気持ちになる。

「エドワードさん、ぼく、今夜から…」
もう一度言いかけようとして、ぼくは彼のノートに目がとまった。彼は 大きめのノートに、黒い鉛筆で、いくつもいくつも同じパターンを書き 付けているのだ。
「…それ何です? トカゲ?」
「今夜から、なに? 大学泊まる?」
こっちの質問をきれいにスルーして、彼はこちらに気遣いの目を向けた。 なんだ、聞こえていたんじゃないか。
「咳、まだ出るんだろ。無理するなよ」
彼は優しすぎる口調で言った。まるでぼくを、ほかならぬぼくのことを心 から心配しているように聞こえて、ぼくは少しイライラした。
余計なお世話です、という言葉と、このときちょうど出そうになった咳を のどの奥で噛み殺して、口に出しては、はい、とだけ答えた。

ぼくはノートを覗きこんで、これは? と目で問いかけた。
「ああ、これ?」
彼は少し言葉を濁した。
「…うん、まあ、トカゲ…火トカゲだよ。…こういう具象的なものは描く の苦手で」
ぱらぱらとノートをめくってみせる。Sの字にくねった、抽象化された黒 いトカゲの意匠が、何ページにもわたってかかれている。何ページも、何 ページも。絵は全部同じように見えたが、実はひとつひとつ、足や頭や尻 尾のかたちが微妙に違って描いてあった。何か一つのかたち、正解を探し てうろついているようでもあった。
「どうしてこんなに?」
聞くと、彼はふと僕を見てから、ぼんやりと遠くを見る目つきをした。彼 の言う「別世界」のことを語るとき、いつもこんな目を、彼はした。

「…もやもやしているものって、気になって忘れられないだろ。だからは っきりさせたくて」

言葉の意味は解っても文脈の分かりづらいことを、いつも言う人だった。
目で意味を問い直しても、何も言ってくれはしなかった。

ため息をついて目線を落としたとたん、ぼくはぎくりとした。
ノートに描かれたトカゲが、一瞬手足を動かした気がしたのだ。







彼が装置のスイッチを入れたとたん、轟音と言ってもいい爆発音が響いた。
暗かったのもあって、一瞬目がくらむ。爆風とすごい熱気が来て、ぼくは 両手で顔をかばった。
「エドワードさん…!」
何がなんだかわからないながら僕は彼を守ろうと、床に引き倒した。

しかし、ものすごい光と熱は一瞬で消え去った。ひどい耳鳴りがする。お そるおそる目を開けると、部屋中に埃が舞っていた。天井からパラパラと 漆喰のかけらが落ちてくる。
部屋の床の中央に、洗濯に使っているタライがあった。その中に、金属片 とネジとエナメル線、そして液体の入った容器など、こまごましたもので できた小さな機械。それが鼻を刺す、焦げたような匂いを発している。い ったい、何の実験を。
――それより、

「エドワードさん! 無事ですか…?」

ぼくは自分の胸の下で微動だにしない彼の背中をゆすぶった。何度か呼ぶと、 彼は突然がばっと跳ね起きて、僕には目もくれず、実験装置に覆いかぶさっ た。

「よし…よし…うまくいった…。水素…水素はよく発生した…。うん…」

実験装置のあちこちを覗きこみながら、彼はぶつぶつとつぶやきはじめた。
「A液の減少を計量しよう、あとで…。あとは…点火…点火のコントロール …」

おかしい。前から奇行の多い人だったが、以前はこんな雰囲気ではなかった 。背中に近寄りがたい鬼気が感じられる。
ぼくがいなかったここ数日、彼は何をしてたのか。

カーテンが爆風でめくり上げられて、部屋に光が入っていた。部屋中の書類 だの金属片だのが、爆風に追いやられて隅にかたまってしまっているのが見 える。試薬や、なにかわからない薬品の瓶がいくつか割れて中身がこぼれて いる。
「エ――――」
彼を呼ぼうとしたが、彼の座っている床にあるものを見つけて、ぼくの声は かすれて消えた。

床に――いや、床だけではない、四方の壁にも、天井にも、何かの模様が発 光している。魔法陣。いや、錬成陣と彼は言ったか。
円と三角形と、そして火トカゲの組み合わせられたかたち。
彼は六方に火トカゲを配して、火をつくる実験をしたのだ。

ぼくは急激に、胸の痛みを感じた。
杭でも刺されたような、あるいは絞りあげられるような、あまりの痛みに、目 がくらむ。

壁伝いにずるずると倒れこみながら、ぼくは不気味に発光する魔法陣が、光を 強くしていくのを見ていた。
光っているというより、炎を発しているような激しいきらめきだ。
エドワードさんはこの異常な光に目もくれず、魔法陣の中央で無心に実験装置 をいじっている。

「…、ドワ…ド…さ……!」

詰まる息の下から、ぼくは彼の名を呼んだ。
するとその声が聞こえたのかどうか、彼はふと手を止めて、こちらに背を向け たまま顔を上げた。
彼の上半身が、なびく金髪が光に溶けていくように見える。
にせものの金貨が溶鉱炉の中で蒸発してしまうように。

「エ…! …ワードさ……!」
魔法陣が燃える。焔が部屋を舐めていく。
このまま行くつもりか。行かせるものか。

背中ごしに彼の横顔が見える。
その金の瞳は紛れもなく金の炎が点っていた。








そのとき、ドンドンドン! と激しくドアノックの音が聞こえた。
痛みに遠くなりかけた意識がはっと覚醒する。

「エドワードくん! アルフォンスくん! 何があったの!」

グレイシアさんだ。音を聞きつけてやって来たのだ。いけない。 痛む胸を押さえながら玄関に向かっていると、別の足音と男性の声が聞こえて きた。ドアを開けると、グレイシアさんとヒューズさんが部屋の中に飛び込ん できた。口々に先ほどの爆音について問いただされるが、ぼくはほとんど意味 のある受け答えができない状態だった。
それでも、ヒューズさんが奥の部屋のドアに歩み寄るのを、ぼくは必死で止め ようとした。あの部屋はもう炎でいっぱいだ。早く逃げて。そう言いたかった が、ぼくは声も出ないままヒューズさんの胸にすがりついた。ヒュー ズさんはぼくを振り払って部屋のドアを開けた。

しかし、暗い部屋に、あれほどまばゆく火を発していた魔法陣は、影も形もな かった。
そこには実験装置の残骸と、力なく座りこむ研究者の抜け殻がひとつ、あった だけだった。

僕の記憶はそこで一度途切れている。




#4End


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