溺れる金貨
#3



彼が僕の部屋に越してきた頃、彼は「音速の壁」と"異次元"についてすごい勢いで調べ 上げようとしていた。
引越しの後片付けもそこそこに、2週間ほどぶっ通しで、ものを 書いたり何度も専門家に意見を聞きに行ったりしていたのだが、彼は突然そのテーマに 興味を失った。

僕が出先から帰ってくると、彼は関連の書籍や論文を破り、床に叩き付けていると ころだった。
驚いて理由を聞く僕に、「おれの目的には関係のない話だった」と、彼は吐き捨てた。
果ては部屋の中でその紙束を焼こうとしたので、僕は彼と彼の紙束に頭から水をぶっか け、こんこんと説教した。

水をかぶったあと1,2日、彼はベッドから起きてこなかった。そのあいだに、引越し から一ヶ月近く経つのにいまだに整理できていない彼の衣類や義手義足を、見かねて僕 が彼の部屋に整理してしまった。

彼の目的。自分の世界に戻るのが彼の目的だという。
いみじくも僕自身が言った通り、彼にとっての現実はそこにしかない。
つまり、この僕は彼にとっては現実ではない。
僕にとっては、この精神不安定な同居人こそが、僕の頭を痛める現実であるというのに。


そして沈み込むのも突然なら、浮上するのも突然だった。
僕たちが大学でロケット理論のミーティングをしていると、その日の朝までベッドの中 で死んでたエドワードさんがつかつかとやってきて、よかったらおれも混ぜてくれない か、といった。
僕たちは面食らい、オーベルト先生の顔を見上げたが、先生はにっこり笑って「 じゃあ説明を聞いて、君の意見を聞かせてくれ」と言った。
そうして彼は僕たちのチームの一員となり、しかもすぐに先生の右腕になった。理論を 設計に移す際、熱や圧力で材質がどう変化するかをだれよりも的確に予想できたのは彼 だった。構造設計についてはむしろ僕のほうが専門だったのだが、僕が担当した部品の 設計に対して彼はいくつか厳しい批判をし、議論の末、僕はアクチュエータの根本的な 構造を修正しなければならなかった。
結局最終的な設計に関してはあらゆるところで彼のアイディアが結論となった。

ある日チームリーダーのヨゼフが「なあ、彼はひょっとして静電気で点火することを考 えているのかな」と話しかけてきた。話題の主語が抜けているがもちろんロケットの推 進機関の点火装置のことについてであり、彼と言うのはもちろんエドワードさんのこと である。

「静電気? 何のメリットが?」
「いや、本人に聞いたわけではないから知らないが」
「じゃあなぜ、彼がそう考えていると?」
「だって最近彼はそういう本を持っているから」

彼の部屋の本棚の隅や床の上に、ロケットやエンジンに関するもの以外の書籍がたくさ ん積み上げられているのを僕はそういえば見たことがあった。そのときは気にも留めな かったのだが、そういわれてあらためて彼の自室を見てみれば、静電気の専門 書が小さな山をなしており、そのほかにも 、気体化学や電磁気学など、いまのプロジェクトにどう関連するのかあまりよく分から ない専門書や論文集がたくさん積まれていた。積まれているだけじゃなく丹念に読まれ 書き込みがされていることも、紙の磨耗の具合から分かる。
プロジェクトそのものだけでもこんなに忙しいのに、彼は家に帰った後たぶん独自に別 の研究をも行っているのだ。

僕はなんだか腹が立った。
彼は自分の割り当てをサボっているわけではまったくなかったし、それどころか僕を含 む他のメンバーのテーマにもぐいぐいと食い込んできて、ミーティングでも常に議論の 中心にいた。だから彼がプロジェクトの仕事以外に何をしていようと責められることは 何一つないのだが、僕には気に食わなかった。
あんなに精力的な活動をこなしてなお、別の研究をするような余力があるなんて。どう して彼だけがそんなにいろんなことができる暇があるんだろう。僕なんか2日に5時間 しか寝てないのに。
わかっている。それは彼の天才に対する嫉妬だった。

不摂生をするので咳はひどくなるばかりだった。エドワードさんはたまに僕の体を気遣 ってくれたが、僕は病院に行く暇なんかないと笑い飛ばした。いま必死の思いで実験を やり直しているのは、彼の批判を受けてのことだった。狭量だとは思うが、その彼に何 か言われるのはどうもいい気持ちがしない。一段落するまでは彼の顔をあまり見たくな かった。
仲間うちのプレゼンテーションの期日を控えていたため僕は何日か家に帰らなかった。 エドワードさんはいちおう毎晩家に帰っていたし、とにかく自分のことで精一杯だった ので、しばらく僕は彼のプライベートにかまけることを忘れていた。

プレゼンテーションの当日、彼は絶好調だった。
いつも以上に饒舌で、ありていに言えば上機嫌だった。歯に衣着せない調子で、それぞ れの発表に対して弱いところを突っついてきた。
彼の言うことはいちいちもっともだし、僕たちは彼の半ばけんか腰なものの言いかたに は慣れていたはずなのだが、それでも場の空気はいらだった。
オーベルト先生はほとんどなだめ役に回っているという感じだった。先生が彼に批判さ れて落ち込んだりささくれ立っているメンバーの研究の長所を指摘し、エドワードさん の批判と先生の称賛の間をとって各部分の設計の最終プランがまとまった。
こうしてやっとオーベルト先生が、ロケット各部分の設計を調整し、全体の整合に手を 付ける段取りが決まった。

その夜のささやかな慰労会に、いちおうというかもちろんというか、僕たちはエドワー ドさんにも声をかけたのだが、どうもそろそろ彼はおかしくなってきていた。足元がお ぼつかない。妙にどんよりした瞳で、あいまいな笑みを顔に貼り付かせたまま「おれは 行かない。家に帰る」と言った。
僕はその時点で、それじゃあ彼抜きでやろうとばかりにまわりに声をかけ、店に向けて きびすを返した。ヨゼフは彼が気になったらしく、もう一声かけていたのだが、結局彼 を連れて来ず、一人で店に入ってきた。

久しぶりに飲む黒ビールは喉をざらつかせる気がした。僕は何度も咳き込みながら2、 3杯ジョッキを重ねた。体の節々が痛く、背中が鉛のように重かった。具合が悪そうだ な、と声をかけられたので、さすがに疲れが出たよと笑いながら、仕事が一段落ついた のだから一度病院に行かなければならないなと思った。

「具合が悪いと言えば、エドワードもそうじゃないのか。あいつの顔色、見ただろ」
年長の一人がいい、誰かが同調した。
「でも昼間の調子なら、あいつの毒舌だけは健康そうだな」
一人がわざと意地悪い感じで言い、みんなの笑いを誘った。

「それならいいんだけど。…なあ、サラマンドラってなんだったっけ」
唐突にヨゼフが言った。

「なんだ、突然。えーと、神話に出てくるトカゲじゃなかったか?」
「そうだ、たしかそれだ。火の中のトカゲ。それがどうかしたのか」
「トカゲか。いや、エドワードがさっきさ」

ヨゼフは半分笑うような、半分戸惑うような表情で、帰り際の彼の台詞を繰り返した。


『帰るよ。うちでサラマンドラが待ってるから』


僕は戦慄した。何日か前に彼の部屋で見たものが脳裏にフラッシュバックした。






#3End


<BACK #2  NEXT #4>


オーベルト先生も被害者の様相を呈して来ました。
錬金術世界では、ほとんど研究仲間を持っていなかった彼ですから(あえて言えばアルだけど あまりにツーカーだからほとんど分身みたいなものだ)、相手の矜持を傷つけないように 議論をするとかってとても下手そうな気がする。自分が思ったことは曲げないしね。




BACK