溺れる金貨
#2



オーベルト先生は彼――エドワードさんをかなり気に入ったらしかった。
確かに彼が博学であるのは疑いようがなく、物理学から工学、化学、果ては解剖学に 至るまでの広範な知識を持っていた。
とくに熱力学、材料工学に関しては一家言を持っており、研究室で2時間ほど話す間 に先生をうならせるような独自の発想をいくつか披露した。
そのうちのいくつかはおそらく、オーベルト先生でなければ笑い出してしまうような 型破りなものだったが、それもたとえば生物学の視点から工学に意見するような、い わゆる学際的きわまりない示唆であり、先生の興味を大いにひくものだった。

たちまち先生の研究室に入り浸るようになったエドワードさんは、いきおい僕を含む 研究メンバーとも議論をぶつけることになった。
彼の発想はいつでも僕たちを驚かせたが、それ以上に驚いたのは、彼がときおりまる で基礎的な物理学知識についてあっけらかんと質問してくることだった。
よくよく聞いてみると、彼は大学はもちろんギムナジウムでもきちんと学んだことが なく、しかも彼の知識は「こちらに来てからの1年間」に主に書籍を読み漁って身に つけたものだという。
彼の知識がまだら状で、深く理解しているところがある一方ですっぽりと欠落してい るところがあるのは、誰かに師事して体系立てて学んだわけではないからなのだった。
しかし、彼の基礎的な質問に答えると、うんうんとうなずきしばらく考えた後、それ を吸収した上でとんでもなく高度な質問で切り返してくることがなんどもあった。
一を聞いて十を知るとはこういうことなのかと僕たちは舌を巻き、ますます彼との議論 を楽しみにするようになった。

議論の場での快活さとうってかわって、僕と二人になったときの彼の言動は扱いにく いことこの上なかった。
うきうきと話していたかと思えば不機嫌になる。
研究がうまく行かないとあちこちに当たり散らす。
冗談を言われたと思って笑いかけると泣きそうな顔をする。

彼と付き合うのが難しそうだ、というのは、はじめて会った日にわかっていた。
あの日の晩、彼は食事の手を止めて、でたらめでなければ三文小説の筋だとしか思えないこと を、この上なく静かな口調で語った。
自分は異世界から来た、というようなことを。

「おれの世界には、お前とそっくりな弟がいる。弟の名も、アルフォンスと言うんだ」

たとえば詐欺師が荒唐無稽なでたらめをまことしやかにならべて裕福な相手に近づき、 信頼させて金を奪い取るといった事件を僕は新聞で読んだことがあった。
しかし僕は彼がそう口にしたとき、そして最後に、ためらいがちに「信じられないかも しれないけど」と付け足したとき、どうしても彼が嘘を言っているとは思えなかった。
彼ならもっと上手く嘘が付けるだろうし、僕なんかをだましても何の得もないだろうと 思ったのもあるが、なによりも、彼の横顔があまりにも真摯だったからだ。

そんな顔で時々、彼は別世界の話をした。ときにはぽつりぽつりと、ときには止められ ないほど饒舌に。
科学技術の代わりに錬金術が発展している世界で、自分は軍に所属する国家錬金術師と して、12歳のときから国中を旅して回っていた――。
おとぎ話にしては細部に至るまで真に迫りすぎていたが、そんな話をまともに信じる気 には、もちろんならなかった。しかしそんなことを真面目な顔で語る彼が、ぼくには気 になって仕方なかった。
話しながら彼は、全身でこちらの反応をうかがっていた。ぼくがちょっとでも笑い飛ば そうとしたり、この人は本当は精神を病んでいるのではないかと疑おうとすると、その 気配だけにでも敏感に反応する。
そして最後には、自分のほうから「うそ…うそだよ、本気にした?」と悲しく笑うのだった。

だからあるとき、とうとう僕は言った。

「僕にその話を信じるのは、難しいよ。僕は、科学者だから」

彼は一瞬蒼白になり、そして弱く微笑んだ。死刑宣告を受け、判決に納得した死刑囚の ようだった。
僕は急いで、しかし慎重に付け足した。

「でもエドワードさん、あなたはその話を嘘ではないと言うんでしょう。だったらそれは、 あなたにとっての現実だと思うほか、僕はできない」

彼は真っ白な顔ではっと僕を見つめた。そしてガラス玉のような大きな金色の目から、大粒 の涙をぼろぼろとこぼしはじめた。
今度は僕が蒼白になる番だった。まさか17にもなった男がこんな風に泣くとは思いもしな かった。僕は他人をこんな風に泣かせたことなんかなかった。かといってなだめることも今 言ったことをなかったことにすることもできないので、僕は彼の肩に置こうとした手をひっ こめるしかなかった。

「ありがとう」

大きな目をしばたたいて涙を巻き散らしながら、彼ははっきりした口調で言った。

「ありがとう、アルフォンス」

どうして礼を言われるのか、僕には分からなかった。
ただ、散っていく涙が惜しかった。この涙は僕のために流されているのではなく、おそらくは 弟、あるいは彼の「現実」に対して流れているのだと、僕は正確に理解していた。



出会って1ヵ月後、彼と同居していた父親がふらりといなくなった。

ほどなくして彼は僕のアパートの一室に住み着くようになった。




#2End


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エドを泣かせてしまいましたよ。すんません。

錬金術世界の学問ってきっとミュンヘン世界の人には新鮮に映るに違いない。というのを 「学際的」という評価に込めてみました。
もちろんエドのほうもミュンヘン世界の学問がすごく新鮮に映るだろう。元の世界に戻る という目的も持ちつつ、純粋にこの世界の研究が興味深かっただろうなと。



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