溺れる金貨
#1



だんだんに侵されていく身体を、自覚しはじめたころ、彼と出会った。



あれはたしか1922年の秋、ドイツ航空物理学会の年次会会場だったと記憶している。
その日の最後のシンポジウムでは、学会のトップ3人が議論を戦わせていた。彼らは物理に さほど明るくない大学生でも名前を知っているようなお偉い学者たちだった。2時間を越え る議論の末、3人の着眼点の意義とその限界、今後の課題がようやく見えてきたころ、プロ グラム上の予定時間がギリギリになった。
いちおう設けられていた一般質疑応答の時間だが、十分に時間をとって質疑をすることはで きそうになかった。司会が、それでは、今どうしてもというご質問だけどうぞ、と言い、真 っ先に手を上げたのは、最前列で聞いていた彼だった。

長い金髪に金の眼の男だった。
彼はもう17にはなっていたはずだったが、その割には小柄で、ギムナジウムを出ているとは とても思えないような少年だった。会場の誰も、彼を知らなかった。
「ではお名前とご所属、質問点をなるべくコンパクトにどうぞ」
司会が言うと、彼は学会名誉会長をほとんど睨むように見据えて(あとから思うと、彼は真 剣に議論をするときいつもそうだった。このときも特にこの相手を睨んだというわけではな かったのだろう)、きつい英語訛りのドイツ語で早口に喋った。

「おれはエドワード・エルリック、所属はありません。
**教授にお尋ねしたい、物体の速度が音の速さを超えると、もう一つの次元空間に移動する という説についてどう思われますか」

壇上の3人の研究者はおもわずお互いに顔を見合わせ、一人は困ったような顔をしてあいま いに笑い、一人は無表情に資料をまとめて帰り支度をはじめた。名指しされたベルリン大の 教授は今日の論点と関係がないことに関して質問しないようにと言い、司会は会場整理係に 小声でこの少年の保護者はどこだと言った。

「関係がないだって? そんなことはない。あなたは強力な推進機関と衝撃波を避ける構造 さえ開発できれば、音速を超えることが可能だと考えている。物体が超音速で飛行した時に 何が起こるか予測することは必要だと思われませんか」

彼の声を押しとどめて、司会が閉会を告げ、シンポジウムは終わった。
参加者は無作法な質問者に非難の視線を向け、そうでなくても不快そうな雰囲気で席を立ち はじめた。

続く懇親会は立食式のパーティだった。
会費がバカ高い上に、時節柄食事がたいしたことがないことがわかっていたので、学生の参 加者はほとんどいなかった。
僕はたまたま、この会場でオーストリア人の助教授に少し時間を割いて話を聞いてもらう約 束を取りつけていた。しかし、大枚をはたいて参加したはいいが、行ってみたら当の助教授 は体調不良とかで先にホテルに帰ったということだった。
がっくりしたら、胸が少し痛んだ。せめて少しでも元をとろうと飲み物を取りに行った時、 また彼の声が聞こえた。

彼は、シンポジウム参加者の教授にここでも再び突っかかっていた。
教授はほとんど彼の発言を取りあっていなかった。
彼の無作法なもののいい方と、まるでけんか腰のようなきつい表情が、教授を不快にさせて いるのが理解できた。
やがて、第一分科会のためにロシアから招かれたというエネルギー学の専門家が教授に話し かけ、通訳付きで会話が始まった。
彼は自然と押しのけられる格好になり、それでもまだ教授に声をかけようとしていたが、や がてあきらめて人の輪から外れていった。

彼がこちらに歩いてきたので、僕は何とはなしに彼を目で追いかけていた。すると彼がふと こちらを見、僕たちは目が合った。
その瞬間、彼は驚愕の表情を浮かべて凍りつき、次の瞬間大声で叫んだ。

「アル…! アル、まさか、アルなのか…!」

僕は仰天した。なぜ僕の名を知っているのか。しかもいきなり愛称で呼ばれなければならな いのか。会場の人々が一様に僕たちを振り返った。彼が大股に僕に走り寄ってきた。

「アル、アルフォンス、おまえこっちに…?!」

僕の両肩をつかみ、彼は顔を覗きこんできた。僕は必死に頭の中を検索して、昔の知り合い にこんな無遠慮な男がいたかどうか思い出そうとしたが、まったく心当たりがなかった。

「あの、失礼ですが、どこかでお会いしましたか…?」

ようようそう言うと、彼ははっとしたような表情になり、眉根をゆがめた。金色の目が悲し そうに細まり、僕はなぜか金貨が水の中に落ちていく様を連想した。僕の肩をつかんでいた 手が緩んだ。
はは、と彼は乾いた笑いを漏らした。

「そうだよな… こちらの世界にも、アルそっくりの奴がいるかもって、言ってたっけ、親 父…」

そのことばの意味を疑問に思う前に、えへん、と、まわりから咳払いが聞こえた。僕は回り の人々に注視されていることと、そのことに彼がまったく気がついていないことを悟って赤 面した。

僕は彼を連れて会場を出た。なぜこのとき自分一人でさっさと歩き去らなかったのか、いま だによく分からない。ともかくそのあといちおう食事を一緒にとって別れて、もう二度と会 うことはないと思っていたら、翌週彼は僕の所属する研究室にやってきた。オーベルト先生 に用があるような顔をして来たが、僕はなんとなく彼が僕に会いに来たのではないかと思っ た。
そして、その予想はどうも外れていなかったようだった。




#1End
NEXT #2>



続きます。

一度、研究者としてのエドを描きたかったのです。ハイデリヒは格好の狂言回しです。
ええと…物理学とかそういう知見からのツッコミは平に平にお許しください。人類が音速を超え たのは1947年のことだそうで、1922年のドイツにそんなことを考えていた人がいた かなんてまったく知りません。



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