1 翌朝。午前八時。 小太郎は自分の部屋の前で深雪が出て来るのを待っていた。 どうして? もちろん偶然を装って深雪と一緒に登校するため。 昨夜の深雪との遭遇は催眠術ですっかり忘れていた。 「早く出てこないかなぁ、有賀さん」 ドキドキ。 ワクワク。 でも、残念ながら、深雪は十分も前に部屋を出た後。小太郎と違って深雪は早起きなの だ。 そんなわけで、いくら待っても深雪が現れることはないのだよ。 結局、小太郎は二十分ほど待ち続け、彼の連続遅刻記録は三十七回を記録した。 祝・校内タイ記録。
で、四時限目。 二年C組は隣のD組と合同で、男女に分かれて体育の授業。 男子は校庭で持久走。 直射日光の下で走るなんてヤダなぁ。 女子はプールで水泳。 水の中は気持ち良さそうでイイなぁ。 そんなわけで物語の舞台はプールへ移動。 「これが、プールでございますか」 初夏の太陽が輝く中、色気の全くないスクール水着でプールサイドに現れた深雪。 初のプールで浮かれている。 忍びの里にいたときは近くの沢で忍者装束を着たまま泳ぎの練習をしていたけれど、プ ールのように比較的安全な場所で、しかも水着で泳ぐのは初めてなのだ。 あ、そうそう。 深雪はムダ毛処理済みだよ。忍者は自分の臭いを消す必要があるから少しでも体臭が残 らないように気を使っているのだ。 忍者はとっても綺麗好き。 「プールなんてそんなに珍しくないでしょ、ミユポン」 その深雪に同じくスクール水着の佐和子が話し掛けた。 「申し訳ございません。世間知らずなもので」 「プールが珍しいのは世間知らず以前の問題だと思うけど、まぁいいわ。それより、音楽 室のピアノが燃やされた話、知ってる?」 「まぁ。本当でございますか?」 しらばっくれる深雪。 忍者は真の感情を内に秘め、決して表に出さぬもの。 でもそれは、感情が稀薄って意味じゃないんだよ。 「それが本当なのよ。音楽室を覗いて焦げたピアノを見てきたから間違いないわ。小指の 呪いが怖くてしばらく音楽室に置いておくみたいだから、ミユポンも見てくれば?」 「はい。しかし、心無い方がいるのですね。ピアノを燃やしてしまうなんて」 「それそれ、それよ。今朝の職員会議で先生たちが犯人当て推理合戦を繰り広げていたけ ど、あたしの予想じゃ犯人なんて捕まるはずないわ。ピアノと言えば七不思議でしょ」 「と、言いますと?」 ちょっと真剣な表情になって訊ねる深雪。 踊るピアノは生きていたけれど、悪い妖怪を捜さなくてはいけないことに変わりない。 そのためにも情報収集は大切。 でも、佐和子の情報は役に立つときと立たないときがある。 「あたしが思うに、あのピアノはファイアダンスを踊ろうとして失敗したのよ。それで、 持っていた火が自分の体に引火して床を転げ回った挙げ句、燃え尽きちゃったのね」 その推理には無理がございませんか? と答えたかったけれど、何を言っても佐和子は聞く耳を持ちそうにないので、深雪は素 直に同意する。 「そうかも知れませんね」 「その通り。ピアノがファイアダンスを踊ろうとしていたのなら、それは即ち、七不思議 が実在するという証拠よ。他の七不思議現象にも警戒しておく必要がありそうね」 三本松高校七不思議の真相究明に闘志を燃やす佐和子。 「はぁ。そうですね」 あいまいに応える深雪。 「ほらほら。サワちゃんもミユポンちゃんも早く並んでねー。準備体操始めるわよん」 美奈子先生の声が飛んだ。 「はーい」 「申し訳ございません」 謝る二人。そそくさとプールサイドに並んで準備運動を始める。 一方、プールサイドの隅にある木陰では様々な理由で見学中の女子十数人が涼んでいる。 超研の諜報員一号である霧島才瑚は留学生のフローレンスさんの手相を見ていた。 いつでも占っているの? 実はその通り。 「ところで、どうして美奈子先生が水泳の指導を行っているのでしょうか? 美奈子先生 の担当は英語のはずですが」 深雪は他の生徒の動きに合わせて準備体操しながら佐和子に訊ねた。 「ミナちゃん? あれでも昔は水泳部でインターハイまで行ったことがあるから、水泳の 授業だけ特別に教えることになってるのよ」 「そうでございましたか」 深雪は、インターハイが全国高等学校総合体育大会のこととは知らなかったけれど、言 葉のニュアンスで納得した。 「ほんとはミナちゃんが泳ぎたいだけなんだろうけど」 「はいはい、静かにー。見学してる人もこっちに注目ねー」 美奈子先生がパンパンと手を叩いた。 「今日はクイックターンを教えるわねー。クイックターンは水中で前転して壁を蹴り出す 回転式ターンのことで、水平式ターンよりも素早く反転できることから、この名前が付い たのよん」 プールの縁の一段高いところに立って本日の授業の説明を始めた美奈子先生。口調はと もかく内容は真面目。 だけど、真っ赤なビキニでダイナマイトボディを強調するのはどうにかならないの? 校庭で持久走をしている男子生徒が余所見して次々と玉突き衝突事故を起こしているん ですけれど。 「それじゃあ、実際にクイックターンしてみせるわよん。みんなはそこで見ててねー」 美奈子先生はスタスタと歩いていって、全部で七コースある二十五メートルプールの真 ん中、第四コースに上がる。 「あっ。考えてみればここも七不思議の一つだったのよね」 「そう言えば」 『第四コースを泳ぐプールの亡霊』 佐和子の言葉で深雪が思い出すと同時に、
チャプン
美奈子先生が華麗なポーズでプールに飛び込んだ。飛び込みが上手いと水音が小さい。 「ミナちゃん、カッコイイ」 周囲からパチパチと拍手が上がった。 クロールで泳ぐ美奈子先生は、速く、力強く、そして美しい。下一桁を四捨五入したら 三十歳とは思えない素晴らしい動きだ。 流石は元水泳部員。 流石は現水泳部顧問。 やがてプールの反対側に到達した美奈子先生は、そのボディを水に沈めたかと思うと、
クルッ
目にも留まらぬ早業で反転した。 「これがクイックターン……。一瞬で反転できるとは素晴らしい技術でござる」 思わずゴザル言葉で感嘆する深雪。彼女が学んだ忍者泳法にはクイックターンなんてな かったのだ。 そんな深雪を含めた女子一同が見ている中、美奈子先生は壁を蹴った惰性でしばらく進 むと、再びクロールで戻ってきてスタート地点の壁にタッチ。 タイムは二十九秒。 なかなかの好成績だ。 「ミナちゃん、カッコイイ」 再び拍手。 ところが、美奈子先生は無言でプールを上がると、水を滴らせながら真っ直ぐ深雪の前 にやってきた。 「美奈子先生……?」 先生の意図を計りかねて左十五度に首を傾げる深雪。 すると、彼女は深雪の細い両肩をガシッと捕まえて、 「有賀深雪、わたしと水泳で勝負しなさい」 「はいぃ?」 変な声を出す深雪。 そりゃまぁ、いきなりそんなこと言われたら忍者だって対応に困る。 「勝負するの? しないの?」 口調が違う。 目つきが違う。 何かがおかしい。 これは……憑依されているでござるか!? 憑依。 幽霊などが乗り移ること。憑かれた者は体の自由を奪われて好き勝手に操られてしまう。 つまり、今は美奈子先生を人質に取られているのと同じ。 どうするでござる? 自問する深雪。 選択肢は四つ。
(1)人質を見捨てて逃亡する (2)人質ごと犯人を刺殺する (3)交渉を長引かせて時間を稼ぐ (4)犯人の要求を呑む
個人的には(2)でござる。 ファイナルアンサー? 冗談でござるよ。 深雪は(4)を選択して顔を上げた。 「それでは勝負いたします」
ほぼ同時刻。 校庭の男子は持久走。 千五百メートル走りっぱなし。 みんな汗だくになって意識朦朧。 さっきまではプールサイドの美奈子先生が唯一の清涼剤(興奮剤?)だったけれど、今 はそれも見えない。 なのに一人だけ涼しい顔で先頭を走っている九尾葉平。まだまだ余裕がありそうだ。 「九ちゃん、マラソンでもやってたのかな?」 「ただ者じゃないのは確かだな」 小太郎も大介も運動部だから人並み以上に体力はあるけれど葉平には勝てそうもない。 ってゆーか、現役陸上部員も追い付けない。 「このタイムは何だ? 九尾より三十秒も遅いぞ」 体育の太田先生(男、三十一歳、陸上部顧問、独身、恋人募集中)が、ストップウォッ チを片手に二人の陸上部員へ檄を飛ばした。 「そんなに速く走れませんよ〜」 「あいつ人間じゃないって」 実は陸上部員Bの言う通りだったりする。 その葉平は只今トップでゴールイン。 「三分十七秒だ。すごいぞ、転校生」 ストップウォッチの表示を読み上げる太田先生。 それって世界新記録じゃないの? 「そうですか」 しかし、オリンピックで金メダルを目指していない葉平は興味なさ気に応えるだけ。 「まだ部活は決めてないんだろう? 陸上部で汗を流す気はないか?」 「ありません」 葉平は太田先生の汗くさい勧誘をすげなく断り、校庭の隅っこにある伝説の木の下へ向 かう。 一人で勝手に休憩するつもりらしい。 九ちゃんなのにイヤなヤツ。 「それにしても暑いなぁ」 「暑いって言うな、コタロー」 小太郎のぼやきをシャットアウトする大介。 現在の気温は摂氏三十度。 いわゆる真夏日。うだるような暑さ。 「なんでこんな日に限って持久走なんだ。今日だったら喜んでプールに入るぞ」 普段は文句なんか言わない大介もついついグチる。 「はぁ……プールかぁ」 そのグチを聞いた小太郎は溜息を吐き、校庭の脇にあるプールを眺める。 変なスケベ心じゃなくて純粋に深雪の水着姿が見たかった。 水着姿って時点でスケベ心なんだけれどね。 でも、スクール水着の女子は何人もいるから、どれが深雪なのか判別できない。 その代わり、真っ赤なビキニの美女が手招きしているのが判った。 言わずと知れた美奈子先生。 「ミナちゃんだ。どうしたんだろ?」 「そいつは知らんけど、これで持久走は中止だな」 「なんで?」 「ほれ、そこ」 大介が指す方へ首を向けると、タイムを記録していたはずの太田先生が脇目も振らずに 全力疾走していた。 「オータせんせ、ミナちゃんにゾッコンだからなぁ。ははははは」 そう言いながら、小太郎も深雪の水着姿を求めてコースアウト。 もちろん他の男子もプールへGO。持久走よりプールの方が面白いに決まっている。 あっ。一人だけプールへ行かない男もいた。 木陰で涼んでいる九尾葉平。 踊るピアノに踏まれた足の小指がまだちょっと痛い。 「ふん。誰もいなくなってしまうとは」 皮肉げに呟き、鋭い眼差しを無人になった校庭へと向けた。 プライドの高い葉平は女生徒の水着姿を拝みに行くなんて不粋で不埒な真似はできない のだよ。 「足の具合はいかがですかな、葉平様?」 そこへ突然湧いて出たセバスチャン。 「ふん。元々心配されるほどの傷ではない。腫れも引いた」 「しかし、先ほどの走りは本調子ではなかった様子。何か薬でも塗っておいては?」 「薬だと? そんな物がどこにある?」 「すぐ目の前にあるではございませんか」 セバスチャンが指で示したのは、三本松高校の保健室。 保健室だったら薬だって湿布だって置いてあるに違いない。 ついでに骨格標本と人体模型も置いてあるんだよね。
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