1 F県南東部にある平和で平穏で平凡な町、三本松町。 「あーあ。バイトがあるの、すっかり忘れてたよ」 暗い夜道を一人の男子学生が走っている。 「ずいぶん遅くなっちゃったなぁ。ふわぁ〜」 部活を終えたばかりの青年は走りながら眠そうに大きな口を開けた。 あくびをすると視界が狭まって前方不注意になる。
ゴンッ
電柱に正面衝突した。 「ぐはっ……ととと」 痛みに仰け反りバランスを崩して、
ガンッ
後頭部を塀に打ち付けた。 ドツボにはまってさぁ大変。 彼は道端にうずくまって頭を押さえる。 けれど、剣道部員で頭部への打撃に慣れている彼は七秒で復活して走り出した。 さて。 無精で伸ばした髪を色付き輪ゴムで留めた服飾美的感覚皆無の彼。 名を風間小太郎という。 風間小太郎と書いてカザマショウタロウと読む。 風魔忍群の頭領である風魔小太郎とはサッパリ関係がない。 それでもやっぱり、あだ名は『コタロー』。 三本松高等学校に通う十六歳。 防具が臭い剣道部所属。 その彼の前に墓地が出現した。 小太郎が住んでいるアパートへの近道だ。 だがしかし、夜の墓場は怖い怖い。 小太郎は墓地の入口で躊躇した。 「出そうだな」 何が出るってそりゃ幽霊。 小太郎は幽霊の存在を信じている。 信じているから怖いんだ。 「どうする?」 自問する小太郎。 選択肢は三つ。
(1)墓場を突っ切って幽霊にドッキリ (2)墓場を迂回してバイトに遅刻 (3)近くの公園でホームレス生活に初挑戦
まず、(2)ではバイト代がもらえない。 今月は生活費が苦しいので却下。 (3)も不可。 六月でも夜は冷える。 「どうやら(1)しかないようだな」 覚悟完了。 小太郎は背中の竹刀を右手に装備して墓地の中へと踏み込んだ。武器は装備しなければ 攻撃力が上がらないのだ。 「大丈夫。出てくる幽霊が悪霊とは限らないんだ」 自分に言い聞かせる小太郎。 でも急ぎ足になる。 人は何故に暗闇を怖れるのか? だって何か出そうだもん。 なーんて考えていると、
シュルシュル
背後で何やら良く判らない音がした。 「……風の音だよ」 小太郎は独りで勝手に納得した。
ヒタヒタヒタ
今度は不気味な足音が追いかけてきた。 「聞こえない聞こえない。僕には何も聞こえない」 小太郎は聞かなかったことにした。 「こっち向いてケロ〜」 耳元で何者かの決定的な呼び声が聞こえた。 「でも、僕には何も聞こえない」 小太郎は目を閉じ、耳を塞いで全力疾走。 目をつぶって走ると危ないよ。
ドンッ
やっぱりぶつかった。 小太郎はそのままひっくり返って気絶した。
「あらら。気絶しちゃったケロ〜」 立ち木に衝突して石畳の上で伸びている小太郎の顔を異形の怪物が覗き込んでいた。 ぷっくり膨れた白い腹。 黄緑色のヌメヌメした背中。 それは、直立二足歩行する巨大なカエルだった。 果たしてその正体は? 着ぐるみの中に人間が入っている。 なーんてことはない。 実は妖怪と呼ばれる謎の生命体なのだ。 何をバカなと思ったそこの君。世の中には科学で説明できないこともあるのだよ。 「ヒックリカエルのはまた今度にしてほしかったケロ〜」 未練がましく小太郎のほっぺを吸盤で突っつく巨大な化けガエル。 彼の名前は『ミカエル』。 ミカエル。 大天使のミカエル様とは全く関係がない。 漢字で書くと『見蛙』。あるいは『見返る』。 君は夜道を歩いているとき、急に後ろが気になって振り返った経験はないだろうか? それは、この妖怪ミカエルの仕業だったのだよ明智君。 えっ? 怖いって? 大丈夫。特別にミカエルを追い払うための呪文を教えるから。 もしミカエルに追いかけられたときは「レッドスネーク、カモ〜ン」と大声で呪文を唱 えるんだ。ミカエルはヘビが怖いからすぐに逃げ出すよ。 ちなみに、『ヒックリカエル』は別の妖怪だから、何もない道で転びそうになったとき の呪文は「イエロースネーク、カモ〜ン」。 ……ま、それはこっちに置いといて。 「誰も見てないから眠ってる間に食べちゃうケロケロ〜」 ほっぺをプニプニするのをやめたミカエルは、周囲に誰もいないことを確認すると、小 太郎を丸飲みにしようと大きな口を開けた。 危うし、風間小太郎。登場から五分で逝ってしまうのか? と、そんなピンチに正義の味方が駆け付けた。 「そこまでにするでござる」 どこからともなく声がする。 「ケロっ!?」 慌てて辺りを見回すミカエル。 しかし、小太郎が足元で気を失っているだけで誰の姿も見えない。 「何者ケロっ!?」 「永劫の闇に生きる者。世の理を影より見守る者。邪悪なる妖魔を討つ黒き疾風。姿無き 夜の暗殺者。人は我らをこう呼ぶ――忍びの者、と」 忍びの者。つまり忍者。 有賀の里よりやってきた女忍者深雪、只今参上。 長老に駄々をこねた挙げ句テレビに釣られて三本松町へやって来た非情の女忍者深雪は、 実は初の単独任務で張り切っていた。 その証拠に、今の決めゼリフは昨日一晩中考えた末の自信作。 「どこにいるケロっ!?」 「忍びは敵に姿を見せぬものでござるよ」 忍者独特の発声法は敵に居場所を悟らせない。 でも、君だけにこっそり教えよう。 深雪は小太郎が激突した木の上にいた。 恥ずかしがり屋なので隠身の術(かくれんぼ)は得意中の得意。 「夜道で人を驚かせるとは不届き千万」 木の上からミカエルに説教する深雪。 「心の臓を患っているご老人がビックリの拍子にポックリ逝ってしまわれたら、そなたは どう責任を取るつもりでござるか」 「そんなことはボクの知ったこっちゃないケロ〜」 しかし、ミカエルは悪びれもなく言ってのけた。 「それに、ボクは元々そ〜ゆ〜妖怪だから、夜道で人をビックリさせるのは当然なんだケ ロ〜」 「ならば、それについては何も申さぬ。しかし、カエルは虫を食すものでござろう。人を 喰らうのは感心せぬでござるよ」 「そ、それは……人間は虫よりもおいしいんだケロ〜」 「それは邪悪な妖魔の所業でござるよ。――覚悟」
ヒュンッ
先手必勝。風を切って飛ぶ八方手裏剣。
ザクッ
ミカエルの眉間にザックリと突き刺さった。 しかし、相手は仮にも妖怪。その程度では倒れない。 「そこケロっ!」 ミカエルは手裏剣が飛んできた木の上へ長い舌を伸ばした。
ガサッ
舌が届く前に木から飛び降りる深雪。 手に忍者刀。 何故かセーラー服。 水兵さんの服? ではなくて、それに似た女子の制服。 女子の制服なのでやっぱりスカート。 白い生足がチラリ。 でも、ミカエルはカエルだからホモサピエンスのメスに興味はなかった。 「喰らうケロっ!」
ブクブク
地面に降り立った深雪へ向けて口から白い泡を吐き出した。 妖術、バブル・ブレス。 超高圧の水泡が、深雪を包んで弾けて押しつぶす。 と思ったら、深雪の体はスーッと消えてしまった。 「ケロ?」 太くて短い首を右に六十度傾けるミカエル。
ブスリ
その首から忍者刀の切っ先が突き出た。 幽霊も切り裂く深雪の退魔忍者刀。 「ど、どうして後ろにいるケロ?」 「忍者は手の内を明かさぬものでござるよ」 深雪は答えず、手首を返してグリッとエグる。 「さらばだケロ〜」
ボムッ
ミカエルの体は破裂して煙のように消え去った。死体が残らず手間要らず。 「次に出会うときは人を喰らわぬ妖怪になっていることを願うでござるよ。そして、でき ればお年寄りを大切にして下され」 背中の鞘に忍者刀を収め、しばしの眠りに就いたミカエルに別れの言葉を送る深雪。 えっ? 刀でブッ刺したのにミカエルは死んでいないのかって? 妖怪は死んでもそのうち復活するのだよ。 ホッケーマスクのジェイソン君だって十三日の金曜日になれば甦ってくるじゃないか。 でも、カエル妖怪ミカエルの出番はこれで最後。出演回数が多いと大天使ミカエル様の イメージが崩れる。 「さて。こちらの男はどうしたものでござろうか」 深雪は倒れている小太郎を振り返った。 「小物妖怪に追いかけられて気絶するとは情けない。……とは言え、野垂れ死んで化けて 出られてはわたしの仕事が増えるだけでござるし」 仕方ないから起こしてやろうと近寄って、 「ん?」 小太郎の手から転がった竹刀を見付けた。 竹刀の柄に名前が書いてある。 『風間小太郎』 「ふ、風魔小太郎!?」 やっぱり間違えた。 「風魔と言えば忍者の主家筋。小太郎と言えば風魔忍群の頭領殿が代々襲名している名。 となれば、この方は我ら忍び総ての頭領とも言うべき方ではござらぬか」 風魔や伊賀は誰もが知っている忍者の主流派。 一方、有賀忍者は傍流の中の更に傍流。傍流すぎて古い文献にも各地の伝承にも名前が 出てこない。 「しかし、何故この様な場所に風魔の頭領殿が?」 改めて小太郎の寝顔を覗き込む深雪。 どこかしら気品が漂っている。 いやいや。それはただの思い込み。 輪ゴムで縛った髪が野性的。 いやいや。そいつはただの不精者。 でも、深雪はすっかりその気になっている。 「間違いない。風魔の小太郎殿でござる」 一度も会ったことがないのにどーして断言できる? 実は初仕事の直後でテンションが高くなっていた。 「と、こうしてはいられぬでござる。早く息を吹き返して差し上げねば」 忍者は冷徹なようで意外と義理堅い。ここで風魔忍者に恩を売っておけば後々役立つこ ともあるだろう。 闇に息づく忍者社会もコネは大切。 「ご免」
ドスッ
深雪は小太郎の体を起こして背中に一発。活を入れた。 「うっ、うーん……」 「しっかりなされ、風魔殿」 小太郎の前に回って呼びかける深雪。 「ん……あれ?」 目を見張る小太郎。 そこにあったのは女忍者の凛々しい顔。 瞳はまるで黒曜石。 髪は烏の濡れ羽色。 月明かりに照らされてちょっと神秘的。 「綺麗だ」 半分くらい寝ぼけたまま呟く小太郎。 「綺麗?」 その言葉に思考が停止する深雪。 でも、流石は女忍者。 停止時間はコンマ八秒。 「頭でも打ったのでござるか、風魔殿?」 「あ、それ違う。僕の名前は風の間に小さい太郎と書いてカザマショウタロウと読むんだ よ」 「かざましょうたろう?」 またもやフリーズ。 今度は再起動まで三秒が経過。 しかし、動き出した忍者は素早い。 セーラー服の胸ポケットから糸を結んだ寛永通宝を取り出した。 「これを見なされ、かざま殿」 「えっ?」 「そなたはだんだん眠くなる」 振り子のように揺れる寛永通宝。 まぶたがくっつく小太郎。 催眠術は忍者の必修科目。 「危ないところでござった」 深雪は寛永通宝をポケットに戻してホッと一息。 何が危ないって、もし忍者の正体を知られたら『あなたが死ぬかわたしが死ぬか』。 でも、さっきの会話には忍者の『に』の字も入っていなかったのでセーフ。 「しかし、念のため記憶を消しておくでござるか」 深雪は催眠状態の小太郎の耳元で囁く。 「ここで起こったことは忘れるでござるよ」
「……あれ?」 小太郎は目を覚ました。 目の前には誰もいなくなっていた。 「何をしていたんだっけ?」 思い出そうとする。 ところが、記憶の引き出しに鍵が掛かっている。 パスワードの提示が求められた。 そんなパスワード知らないよ。 「……変だな」 首を傾げる小太郎。 女の人がいたような気がするのに。 色白の綺麗な女の子だなぁ、と思ったはずなのに。 右を向いても左を見ても、カエルの子一匹姿が見えない。 「もしかして……幽霊?」 そう言えばここは墓場じゃないか。 背筋が絶対零度まで急速冷凍。 凍り付いたままバイトに遅刻。
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