「藍さん、今日もご苦労様」 「いいえ。これがわたしのお仕事ですから」 ちりとりをロッカーに片付けながら、藍さんは僕に向かって屈託の無い笑顔を浮かべた。 ここは西條探偵事務所。藤宮藍さんは、とある事件をきっかけに、この探偵事務所で働くようになったんだ。 「それに、ただお掃除しているだけですから、お仕事をしているって感じがしないんです」 探偵事務所で働いていると言っても、アルバイトの藍さんがやっているのは事務所の清掃。 これがテレビの二時間ドラマだったら、事務所に出入りしているお手伝いさんが殺人事件に首を突っ込んで見事に事件を解決してしまうコメディ風味のミステリー物になりそうなものだけれど、他人を疑うことを知らない藍さんの性格では探偵稼業は務まらない。本当に清掃だけなんだよね。 「それなら、藍ちゃんのために制服を用意してあげようかしらね。私服より気分が出るでしょ」 言ったのは、僕の双子の姉、西條遥。この探偵事務所の所長。 姉さんは来客用の長ソファーに寝そべって雑誌を読んでいる。その雑誌からちょっとだけ顔を上げて、 「掃除するならエプロンドレスなんて良さそうね。ほら、メイドって流行っているそうじゃない」 「姉さん、コスプレじゃないんだからさ」 姉さんの冗談に、僕、西條彼方は呆れた声を上げた。 でも、純真無垢を絵に描いたような藍さんは本気にしてしまったみたいだ。 「メイド服なら持ってますよ。高校の文化祭でメイド喫茶をしたときの衣装が残っていますから。たぶん今でも着られると思います」 「それじゃ、藍ちゃんは来週からメイドね」 「はいっ。よろしくお願いします、御主人様」 「御主人様?」 聞き慣れない敬称に、さしもの姉さんも言葉を失った。
「すみません。メイドと言ったら御主人様ですから、つい」 「別に藍ちゃんが謝ることはないわよ。こっちとしても気分が良いんだし」 気恥ずかしさで恐縮してしまった藍さんに姉さんが微笑む。気分が良いというのはまんざら嘘でもなさそうだ。 「ま、メイドは冗談だから、本当に着て来なくていいわよ」 「えっ? メイド服、駄目なんですか?」 今度は落胆した様子の藍さん。 「藍さん? もしかして着てみたかったの?」 「そっ、そんなことないですよ〜」 声が上ずっている。視線も泳いでいる。藍さん、本当に着たかったんだ。 「駄目ってことはないから藍さんが着たい服を着てくればいいよ。それに、僕は見てみたいな。藍さんの可愛いメイド姿」 「ええっ!? 可愛いだなんて、あんまり期待しちゃ駄目ですよ」 僕の言葉に藍さんは大慌て。藍さんって、ちょっと褒めるとすぐに舞い上がっちゃうんだ。 そこがまた可愛いから、ついつい褒めたくなっちゃうんだよ。 「そ、それじゃ、わたし、帰りますね」 耳まで真っ赤になりながら帰り支度を始めた藍さん。 と、その途中で振り返って、 「あっ、あの、彼方さん」 「どうしたの? 家まで送っていく?」 「いいえ、そうじゃなくって……。もしお暇だったらでいいんですけど、来週の十四日、わたしの家に遊びに来ませんか?」 (よっしゃあぁぁぁっ!) 藍さんの言葉を聞いた僕は心の中で雄叫びをあげた。 僕が藍さんと知り合ってから早数ヶ月。僕は藍さんを幾度となく映画や食事に誘って積極的に親睦を深めてきた。 いくら藍さんが極度の天然系でも、僕が藍さんに好意を寄せていることは充分過ぎるほど伝わっている。そのはず。 そして、藍さんもまた僕を憎からず思ってくれていることを、僕は予感していた。僕には姉さんと違ってESPを持ってないけれど予感していた。 その藍さんが僕を自宅へ招待するという。まして、二月十四日と言えば恋のイベントとして定着したバレンタイン当日。 もしかするとチョコレートをもらえるかも。 という淡い期待はしていたけれど、バレンタインを機に天国への階段を一段抜かしで駆け上ることができるとは夢にも思っていなかったよ。 その階段を踏み外したら西條彼方一生の不覚だ。 「うん、大丈夫。何も予定は入ってないよ」 僕は努めて冷静に、そう答えた。 ここで焦ったら男子の本懐が遂げられない。男子の本懐とは何か、それは誰にも分からないけれど。 「あたしも暇よ」 と、横から口を挟んだのは姉さん。 「姉さん、二月十四日って何の日か知っているよね?」 「キリスト教の祭日」 「そうじゃなくて、ほら、人のなんとかを邪魔する奴は馬に蹴られるっていうか」 正直に言うと、これまでにも僕と藍さんは「良い雰囲気」になりかけたことが何度かある。 その度に邪魔をしてきたのが姉さんだ。どう考えても僕をからかっているんだよなぁ。とほほ。 「藍さんからも何か言ってやってよ」 僕では姉さんに逆らえないから藍さんに助けを求める。と、 「はい。もちろん遥さんも来て下さい。賑やかな方が妹たちもきっと喜びますから」 「……妹たち?」 「はい。わたしの家では毎年、二月十四日は家族全員が集まってパーティーをするんです」 「家族全員で?」 「はい。全員です」 満面の笑みを返す藍さん。 一方、僕は言いようのない敗北感に襲われた。 藍さんが言った「わたしの家」というのは、藍さんが一人暮らしをしているマンションのことじゃなくて、藍さんの実家のことだったんだ。 それじゃ男子の本懐は遂げられないじゃないか。がっくし。 いやいや、ちょっと待てよ。 家族のパーティーに僕を呼ぶってことは、むしろ脈があるってことじゃないのかな? 僕たち姉弟を紹介して家族ぐるみの付き合いを。そして行く行くは……。 そういうことなら僕も覚悟して藍さんのご両親に挨拶しないといけないよね。 まだ見ぬ義父さん義母さん、僕に藍さんを下さい! って、それは気が早いか。ははははは。 「分かったよ、藍さん。必ず行くよ。姉さんも行くよね?」 「ま、どうせ暇だし」 姉さんは投げ遣りにうなずく。こんな調子じゃ藍さんの御両親に会わせられないよ。あとでちゃんと言っておかなくちゃ。 「それにしても、バレンタインに家族でパーティーなんて珍しいわね」 「そんなことないですよ。だって、その日は――」
|