幻影怪盗バイオレット


 深夜零時まであと二十分。
「姉さん! どーしてバイオレットから予告状が来たのを教えてくれなかったんだよ!」
 秋元涼子が警備の指揮を執っているデパートの正面口に肩を怒らせてやってきたのは、
ほんの一時間前に予告状の存在を知った秋元武雄。
「弟だからって捜査上の秘密を教えてもらえると思ったら大間違いよ。――と、その前
に」
 歳の離れた弟からの謂れのない非難を正論で突っぱねた涼子は、そのまま武雄の頬をつ
ねり上げた。
「ねえしゃん! にゃにすりゅんだにょ!」
「バイオレットの変装じゃないみたいね」
 武雄本人であることを確かめると涼子は指を離す。
「もう少し痛くない確かめ方でもいいじゃないか。――それで、バイオレットの今度のタ
ーゲットは?」
「六階に展示している真珠よ」
「真珠っていうと、まさか、あの大粒真珠のイヤリングのこと?」
 昼間に立ち寄った『世界の真珠展』を思い出して武雄が尋ねると涼子は意外そうな顔で
弟を見る。
「そうよ。良く知っているわね」
「うん。まぁ。今日、ちょっと見てきたから」
「そんな暇があるのなら菫ちゃんをデートにでも誘いなさいよ」
「うっ……」
 誘ったのに失敗したとは口が裂けても言えない武雄は姉に片手を挙げて姉の横を通り過
ぎる。
「じゃ、じゃあ、オレは展示会場に行ってるよ」
「あ、待ちなさい。今夜の合言葉は『たこ焼き食べたい』よ」
「うん。解った」
 武雄は涼子から聞いた合言葉で警官たちの警備を抜けてデパートの六階へ向かった。警
官たちとは既に顔見知りだけれど、涼子の絶対命令により、合言葉を知らない者は警視総
監でも内閣総理大臣でも国連事務総長でも通してはいけないことになっているのだ。
「それにしても、オレたちが今日見たばかりのイヤリングをバイオレットが狙ってくるな
んてなぁ……。って、待てよ。これはまさか――」
 警官たちに挨拶を返しながらデパートの通路を進んでいた武雄はハッとして顔を上げる
と、
「スゴい偶然だなぁ」
 あっさり納得して疑問を投げ捨てた。
 そりゃまぁ、ここで偶然を怪しむような洞察力があるのなら、とっくにバイオレットの
正体にも勘付いているだろう。

 と、そんな洞察力皆無の武雄の様子を隣にあるビルの屋上から双眼鏡で眺めている一対
の目。
「武雄、今夜も来たんだ」
 ディムナから借りた魔法の双眼鏡から菫が顔を上げた。何故か声が嬉しそう。
 武雄がなかなか現れないので菫は不満だったのだよ。
(もしかして……ボクは武雄が来るのを楽しみにしていたのかな?)
 なーんて幼なじみとの恋の芽生えにドギマギするような菫ではない。
(そんなわけないか)
 あっさり忘れて隣のウサギもどきを振り返る。
「それじゃ、行ってくるよ」
「気を付けるっスよ、姉御」
「うん。解ったからキミはあっちを向いていてよね」
「どうせ恥ずかしがるような体じゃないっスよ」
 そう言いながらも菫に背を向けるディムナ。
 それを確認すると、菫はブレスレットをはめた右腕を頭上に掲げ、バイオレットに変身
するための呪文を唱える。
「メルン・ポプルン・ポムピュルン」
 うわっ。なんて恥ずかしい呪文なんだ。
 小学生ならともかく高校生にもなってそんな呪文を唱えるなんて並の精神力じゃないね。
 ま、それはともかく。
 ブレスレットの宝石から溢れ出た紫の輝きは菫の全身を包み込んだ。
 菫が身に付けていた衣服は光の中で溶けるように消え去り(だからディムナに後ろを向
かせたのだよ)、それに代わって、タキシードを動きやすくしたような怪盗のコスチュー
ムが形成される。
 そして、クルリと一回転しながら背中のマントをバサリと広げ、変身完了の決めゼリフ。
「バイオレット・ザ・ファントムシーフ、ここに見参」
 変身(コスプレ)すると性格も変わるのだよ。
 わざわざ高い場所に登って周囲の注目を集めたり、武雄に一方的なライバル宣言を行っ
たり、聞くも恥ずかしいキザなセリフを連発する幻影怪盗。
 変身後も菫の意識は残っているので、菫は怪盗の行動を思い出す度に赤面するほど恥ず
かしがっているのだけれど、バイオレットとしての意識はノリノリである。
「ディムナ、ミュージック・スタートだ」
「了解っス」

 闇夜に響く『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。
 この曲がどこから聴こえてくるのかを考えてはいけない。過去に一度、警察がバイオレ
ットそっちのけで音源を探したのに発見できなかった。
 今では単なるBGMとして聞き流すことにしている。
「今日はどこから来るのかしら、幻影怪盗さん?」
 デパートの正面入り口で腕を組んで待ち構える涼子。
 その頭上をバイオレットのハンググライダーが通り過ぎたことには気付いた様子もない。
 秋元涼子二十九歳(独身)。今夜も怪盗を捕り逃してしまうのか?

 最上階。つまり六階。
 デパートとしては翌日の営業を休むことはできないので陳列されている商品はそのまま
になっている。一日でも休業すれば売り上げに響いてしまうのだ。
 警察もそのことは承知しているのでフロアの警備は最小限に抑えている。下手に人数を
増やして店内を荒らすことがあっては損害賠償を請求されかねない。ただでさえ「どうせ
戻ってくる宝石を守るために人手を割くのはバカらしい」と嫌味を言われているのだから
無駄な出費は抑えるに限る。バイオレット対策本部には予算が無いのだ。
 そして、店内で暴れたくないのは菫も同意見。無用な騒ぎで商品を傷物にしては心が痛
む。
 ハンググライダーを使って屋上に降り立ったバイオレットは魔法のマントを纏って自ら
の姿を消し、階段を使って六階へと降りてきた。
 フロアの要所要所は警官たちが見張っているが、怪盗は陳列棚の迷路を音もなく駆け抜
ける。床を滑る影のように駆け抜ける。
 やがて見えてきた世界の真珠展示会場。
 その中央に置かれた一組のイヤリング。
「フッ」
 バイオレットは纏っていたステルス・マントを解くと、頭上の監視カメラへ流し目を送
り、大粒真珠のイヤリングが入っているガラスケースへ歩み寄る。
 姿を消したまま盗んでしまえば良いではないか――と思ったかな?
 そんなコソコソしたカッコ悪い盗み方はバイオレットのプライドが許さないのだ(菫の
プライドではない)。
 とはいえ、目立ちたがり屋のバイオレットも警官が集まってくるまで待つつもりはない。
 二つ並んだ真珠を暗視機能付きのマスク越しに確認すると、髪飾りから取り出した魔法
の自在鍵でガラスケースの錠を開け、右側の一つを取って腰の四次元ポシェットに入れる。
 そのままきびすを返して走り出そうとしたら、
「待て、バイオレット!」
 男にしては甲高い声で待ったがかかった。
 イヤリングが展示されていた台の裏側から、まだ少年と呼ぶべき若い男が姿を見せる。
「やはり出てきたね、秋元武雄君。それでこそボクのライバルだ」
「そんなことはどうでもいい! どうして片方しか盗まないんだ!?」
 いつにも増して怒っている武雄。
「何を言っているんだい? ボクが予告したターゲットはこちらの真珠一つだけだよ」
 怪盗はポシェットから出した直径十九・五ミリの大粒真珠を指先で捧げ持つ。
 ディムナが魔力を感じたのは微妙に大きい右側の真珠だけだったのだ。
「……は?」
「おや? 予告状には書いていなかったのかな?」
「聞いてないぞ!」
「それは失礼」
 胸元に手を当てて優雅に一礼するバイオレット。
「しかし、ボクは余計な品物を盗まないことにしているのだよ」
「そう言わずに、ついでにこっちも盗んでいかないか?」
「警官の弟が犯罪教唆かな?」
「違う! いいからこっちにも触ってみろ」
「いやいや。遠慮しておこう」
「そこをなんとか」
「頼まれても困るな」
「指先をちょっと近付けるだけでいいから。――ほら、こうやって」
 武雄はバイオレットに見えるように台上のイヤリングに指を近付けた途端、

 ガシャン!

 と、台から飛び出してきた鉄製の手枷が武雄の腕を固定する。
「……な?」
 泣きそうな顔でバイオレットを振り返る秋元武雄。
「『な?』と言われても……」
 どんな顔をすれば良いか判らない幻影怪盗。
「……」
「……」
「悪かったな! 罠を仕掛ける時間が足りなかったんだ! 余裕があれば二つ仕掛けるつ
もりだったんだぞ!」
「そういうことにしておくよ、秋元武雄君。フッフフフッフフッ」
 心なしか普段より愉快な忍び笑いと共にバイオレットは武雄に背を向け走り出す。
「笑うな、バイオレット! 待て!」
「フッフフフッフフッフフフッ」
 待てと言われて待つ者はいない。バイオレットは集まってきた警官たちを手玉にとって
階段から屋上へ駆け上がった。
「――!?」
 ところが、ハンググライダーで再び空へ舞い上がろうとした怪盗は驚くべきものを目に
する。
 漁網のような広く大きい網が、まるで蚊帳のように、屋上全体を覆っていたのだ。これ
ではハンググライダーで飛び去ることはできない。
 そして背後からは六階フロア警備班と手枷を外した武雄がやってくる。
「……あれ? どうなってるの?」
『ふふっ。わざと屋上の警備を手薄にして罠を仕掛けておいたのよ。またハンググライダ
ーを使うことを見越してね』
 立ちすくむバイオレットを目にした武雄の疑問に答えるように、涼子の声が警官たちの
トランシーバーから流れた。屋上を覆っているネットは涼子が部下に命じて仕掛けさせた
トラップだったのだ。
 ちなみに、このネットは涼子自ら漁師さんと交渉して古い漁網を安く譲ってもらったリ
サイクル品。バイオレット対策本部には予算が無いのだ。
『階段・エスカレーター・非常階段の三ルートからそっちへ向かっているわ。本隊が到着
するまで逃がすんじゃないわよ』


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