「おはよう、武雄」 秋元武雄が自宅を出ると、玄関先で待っていた幼なじみの藤宮菫が片手を上げた。 「ああ、おはよう。ふわぁ〜」 あくびしながら菫に応える武雄の鼻にはバンソーコー。 「『ふわぁ〜』じゃないよ。急がないと遅刻するよ」 「悪い悪い」 武雄は菫に謝ると早足になって歩き出した。 実はこの二人、同い年で家が隣同士で小学校から高校までず〜っと同じクラスであるた め、陸上部員の菫に朝練がない日はこうして一緒に登校しているのだ。 ちなみに、藤宮菫は女の子。口調も体型も少年のようだけれど間違えてはいけないよ。 「ふわぁ〜」 しばらく進んだところで武雄が再び大きな口を開けた。 「本当に眠そうだね。またバイオレットを捕まえに行ったのかい?」 「そうだよ。アイツのせいで寝不足だ」 「それはキミの逆恨みだよ。夕方のうちに仮眠しておけばいいのに」 「あ、そっか。先に仮眠するという手があったか」 菫の言葉に武雄がポンと手を打った。 「もしかして、今まで思い付かなかったのかい?」 「自慢じゃないがその通り」 「本当に自慢にならないよ。バイオレットがキミをライバルと認めたなんて、とても信じ られないなー」 「ふっふっふっ。バイオレットの犯行予告を防いだ唯一の人間だからな、オレは」 「警備の指揮を執っていた涼子さんのところへ忘れ物を届けに行ったら偶然バイオレット と鉢合わせして大声を出しただけじゃないか。バイオレットが本当のことを知っていれば、 キミをライバルなんて言わなかったよ」 菫は肩をすくめるけれど、その件で警察から感謝状をもらった武雄は拳を固めて、 「いーや。あいつを捕まえられるのはオレだけだ! あの男、次こそ必ず捕まえてや る!」 「そのセリフ、もう何度目だい?」 決意を新たにした武雄に菫は冷ややかに告げる。 「それにバイオレットは男じゃないよ」 「は? どーして男じゃないんだ?」 「エッ……。そ、それは、なんとなく、そんな気がするから……」 武雄の質問に何故かしどろもどろになる菫。 「『なんとなく』で勝手に決め付けるなって」 「べ、別に、決め付けたわけじゃないよ」 「それにな、噂だとバイオレットは男、と言うか美少年らしいぞ」 「美少年?」 「ああ。警察で作ったモンタージュだと、目元は悪趣味な仮面で隠してるから解らないけ ど、口元だけは確かに美少年っぽく見えるから、あながち的外れな噂じゃないんだよな」 「そっか。美少年かー……エヘヘ」 「どーして菫が照れるんだ?」 「エッ……!? そ、それは……。ほ、ほら、アレだよ。仮面を取ったら実はハンサムな んてカッコイイじゃないか」 「菫も意外とそういうの好きだな。さすがは茜さんの妹だよ」 菫の二人いる姉の一人、茜の名を出して茶化す武雄。 「悪かったね。カッコイイ人が好きで」 菫はプイッと顔を背けるが、武雄は真面目な顔になって言葉を続ける。 「でもな、バイオレットが本当にハンサムとは限らないし、そもそもあいつは悪人なんだ ぞ。カッコイイからってバイオレットをひいきするのはやめろよな」 「別に、ひいきになんてしてないよ」 菫は苦笑しながら武雄の指摘を否定したけれど、彼女がしばしばバイオレットに肩入れ していることは疑いようのない事実だった。 だからこそ、武雄はバイオレットに敵愾心を燃やしているのである。 秋元武雄、十七歳。藤宮菫に片想い中。 男はつらいねぇ。 だがしかし、菫がバイオレットの肩を持っているのは武雄が心配しているような理由で はないのだよ。 (あーあ。バイオレットを捕まえようなんて早く諦めてくれないかなー。こんな調子じゃ いつバレるか判らないよ) 武雄と共に歩きながら菫が心の中で呟く。 (ボクがバイオレットの正体ってこと) 藤宮菫、遅生まれの十六歳。実は怪盗バイオレット。
時間は跳んで昼休み。 「一体どうしたんだい? こんなところに連れ出して」 校舎の屋上で焼きそばパンを食べ始めた菫が、隣でカレーパンを食べる武雄に尋ねた。 「人目のない場所でボクとキミの二人きり……ということは、まさか、ボクに決闘を申し 込むつもりかい?」 「んなことするか」 女子高生らしからぬ菫の推察を即座に切り捨てる武雄。 「それじゃ、なんだい?」 「ん……。実は――」 改めて菫に問われた武雄は、残っているカレーパンを二口で飲み込み、ある計画の第一 段階を実行するために呼吸を整える。 ところが、彼が本題に入ろうとした瞬間、 「菫お姉様〜!」
ガシッ
菫にガシッと音を立てて抱きついてきた三つ編みメガネっ娘は同級生の姫咲愛美。 突進に巻き込まれた武雄が落下防止用フェンスまで跳ね飛ばされたけれど、星が瞬く愛 美の瞳には菫の他に何も映っていない。 「お姉様が教室にいらっしゃらないので、愛美は男子トイレの中までお捜ししてしまいま したわ」 「いくらボクでも男子トイレには入らないよ。――と言うか、ボクを見る度に抱きついて くるのはやめてほしいんだけれど」 「いいえ。やめません、やめませんとも。愛美は菫お姉様をお慕い申し上げております」 困り顔の菫の腰を両腕でガッチリと万力のように挟み込み、今にも発火しそうな勢いで 頬を擦り寄せる愛美。 これでは、まるで二人がアブない関係にあるのではないかと勘ぐりたくなってくるけれ ど、今のところは健全なスキンシップのみに留まっているので心配無用。 ちなみに、菫と愛美は姉妹でも親戚でもない単なる同級生。『菫お姉様ぁ』と舌足らず な声で菫を呼ぶ実の妹は一人いるけれど、愛美から『菫お姉様〜!』と熱烈なタックルを 受ける謂れは何もない。ついでに言えば、二月生まれの菫より愛美の方が八ヶ月も年上で ある。 「それじゃ、せめてボクの胸に顔を押し付けるのはやめてもらえるかな? ちょっと苦し いんだけれど」 胸部に脂肪が足りないので頬ずりのダメージが心肺機能に直接響いてしまう菫。 「大丈夫です!」 それに対してキッパリ言い張る愛美のブラがDカップであることを菫は知っている。 「何故なら、愛美は菫お姉様のツルペタお胸を愛しているからです!」 「どの辺りが『大丈夫』なのか解らないけれど、それって褒められているのかな?」 「もちろんですわ」 「そうかなー」 菫自身は自分の少年のような体形を全く悩んでいないのだけれど、トランジスタグラマ ーな愛美を目の当たりにするとやっぱり少しは気になってしまう。 (ボクの体……このまま女らしくならないのかな?) なーんて思春期真っ盛りな不安を抱えてウジウジするような菫ではない。 (このままでも別にいいけれど) すんなり割り切って昼食を再開する。 「ヒーメーサーキー……!」 そこへ、すっかり忘れ去られていた武雄が顔面に金網模様を付けて戻ってきた。 「どなたかと思えば秋元武雄さんではありませんか。これはまたずいぶんと面白いお顔に なって、一体どうなさったのですか?」 全く悪びれた様子もない愛美は相変わらず菫に抱きついたまま。謝るどころか敵意のオ ーラを発している。 愛美にとって、武雄は自分と菫お姉様の仲を引き裂こうとする邪魔者でしかないのだよ。 そして、今の武雄にも愛美は邪魔者。 だから実力で排除する。 「姫咲はあっちに行っててくれよ。オレは菫に話があるんだから」 武雄は愛美の襟首を掴んで菫から引き剥がそうとした。 ところがその手が宙を切る。 「汚らわしい手で触らないで下さいませ」 消えた愛美は給水塔の上に現れた。 「おのれは忍者か!?」 「これも愛の力ですわ」 「愛、なのかなー……?」 愛美の言葉に少なからぬ疑問を感じる菫だけれど愛美が聞く耳を持たないことは半年近 くの付き合いで判り切っている。 「ともかく姫咲はそこから動くなよ。こんなことで昼休みが終わったら、菫に焼きそばパ ンをオゴって屋上に連れ出したオレの苦労と百三十円が水の泡だからな」 「まぁ。菫お姉様と何を話そうというのですか、愚民の分際で」 「愚民……?」 「その通りですわ。愚かな人類は優良種たる菫お姉様の手によって管理されなければなら ないのです!」 「ボクは一人でも優良『種』なのかい?」 と言っても、危険な選民思想を振りかざす愛美の耳には都合の悪いことを自動的に遮断 する言語フィルタが標準装備されている。 「仕方ないなー、愛美は」 「そ、それより、菫」 愛美の演説を無視して菫に向き直った武雄は、少し緊張気味に菫に告げる。 「今週の土曜日は部活も休みだったろ。何か予定とか入ってるか?」 「土曜日かい? ボクは別に何もないよ」 「それではわたくしとショッピングでも――」 「じゃなくて」 瞬間移動して割り込んできた愛美の予約を強制キャンセルして、武雄はポケットから映 画館の割引チケットを取り出した。 「暇だったらオレと一緒に映画でも見に行かないか?」 「エッ? ボクが行っていいのかい?」 「ああ。幼なじみのよしみってやつだからな」 照れ隠しに余計な理由を付け加えた武雄の心はドキドキめもりある。 「それじゃ、遠慮なく」 と、武雄の気持ちに気付かぬまま菫があっさり承諾しようとしたその途端、 「そんな……!? お姉様が……」 およよと泣き崩れる愛美。 「菫お姉様がわたくしを捨てて男の元へ走るなんて……!」 「別にデートとかするわけじゃないよ。武雄はただの幼なじみだし」 「そうでした。ただの、幼なじみでしたわね」 「ぐはぁっ」 菫の何気ない一言がザックリと武雄の心を切り裂き、愛美の悪意ある一言がその傷口に 塩化ナトリウムを塗り込める。 もちろん武雄はデートのつもりで菫を映画に誘ったのだよ。 それなのに、武雄は菫に『ただの幼なじみ』とキッパリと言い切られてしまった。 秋元武雄、大ショックである。 それでも武雄は、今度こそは『ただの幼なじみ』を卒業するのだと、決意を胸に立ち直 る。菫にどう思われていようとデート計画の第一段階(菫を映画に誘う)は成功したのだ から。 成功したのだ――と思えたのだが、 「あ、そうだ。愛美も行くかい? 映画を観てから買い物すればいいよ」 「はい! 是非ともご一緒させて下さいませ」 愛しの菫お姉様を武雄と二人きりにさせてなるものかと張り切る愛美。 一週間も前から入念に築き上げてきた武雄のデート計画が粉々に砕け散った瞬間だった。 |