幻影怪盗バイオレット


 ジャン、ジャジャン、ジャジャジャジャカジャーン

 月夜に響く軽快な音楽。
「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲。『アイネ・クライネ・ナハトムジー
ク』第一楽章。――来たわね」
 女刑事、秋元涼子が顔を上げた。
 複数の投光器に照らされて隣家の屋根に一つの影が浮かび上がる。
 タキシードに似た紫のスーツに紫のシルクハット、そして、紫のマスクに素顔を隠した
その人物の名は――
「怪盗、バイオレット」
 それは二ヶ月ほど前から巷を騒がせている大怪盗の名だ。
 盗みに入る前に必ず予告状を出し、その予告通りに品物を頂戴してゆく。それだけでも
行動が謎めいているが、更に不可解なことは、盗んだ品を数日のうちに持ち主の元へ返す
ことだ。
 品物が戻ってくるとはいえ警察が犯罪を黙認しているわけではない。窃盗を予告された
当日は五十人態勢で紫の怪盗を迎え撃つ。
 にも関わらず、この窃盗犯が捕まったことは未だかつてない。
 近頃はバイオレットの名を騙る便乗犯までが現れ始めているが、そのことごとくが窃盗
未遂等の容疑で速やかに逮捕されていることを考慮すれば、一部のマスコミが騒ぎ立てて
いるような警察の職務怠慢とは言い切れまい。

 ジャカジャカジャカジャカジャジャジャジャジャーン

 底抜けに明るくアレンジされた小夜曲をBGMに紫の影が宙を舞う。
「そっちに行ったぞっ!」
「今日こそは年貢の納め時です」
「警視総監賞はもらった!」
「……フッ」
 紫のマントをなびかせ屋根から舞い降りた怪盗は自らを包囲する警官隊を見回し、口元
に不敵な笑みを浮かべた。
 そして静かに疾駆する。一陣の風となって疾駆する。
 一人目の両腕をすり抜け、二人目の頭上を跳び越え、三人目の背中を踏み台にして、屋
敷の塀を乗り越えた。絶対防衛線を三秒で突破された警官隊は呆然と立ち尽くすのみだ。
「逆に考えれば袋のネズミよ。出口を固めて」
 彼らを励ますように手早く指示を出した秋元涼子は、屋敷を振り返り、中にいる誰かへ
呼び掛けるように呟く。
「捕まえるのは無理としても、中から追い立てるくらいはできるんでしょうね」

 一方、屋敷への侵入に成功したバイオレットは、薄暗い廊下を迷うことなく目的の部屋
へと辿り着いた。
 耳元の髪飾りから引き抜いた針金を鍵穴に差し込むと、何か操作したようには見えない
のだが、閉ざされていた扉は実にあっさりと怪盗の前に降伏する。
「フフッ」
 針金を髪飾りに戻したバイオレットは微かに笑みを浮かべて扉を開けた。
 狭い部屋の中央にある台座の上。怪盗が窃盗予告した品物が置かれている。
 それは翠の輝きを放つエメラルドの指輪だ。
 怪盗はそれを確認すると指輪の元へ歩み寄る。足音一つ立てずに歩み寄る。
 手を伸ばせば届くところまで近付いて――
「そこまでだ!」
 唐突に部屋の明かりが点き、横手の物陰から一人の少年が姿を見せた。
「フッ。またキミか、秋元武雄君」
「馴れ馴れしく話しかけるな、バイオレット」
 やれやれとでも言いたげな怪盗に真っ直ぐ指を突き付ける少年、秋元武雄。
 それと同時にバイオレットの背後にある扉を数人の警官が塞いだ。
「この部屋の出入口はそこの扉一つだけだ。もう逃げ場はないぞ」
「なるほど。流石はボクのライバルだ――と言いたいけれど、相変わらず詰めが甘いね」
「なんだって?」
「忘れたのかい? ボクは『バイオレット・ザ・ファントムシーフ』だよ」

 ユラリ

 セリフと同時に怪盗の姿がぼやけ、跡形もなく消え去った。
「立体映像かっ!?」
 神出鬼没かつ変幻自在なその行動から、バイオレットは立体映像の投影機を所持してい
ると考えられている。今のように分身を作ることはもちろん、己の姿を隠したり、幻を身
に纏って変装することさえ可能なのだ。
 故に、バイオレット・ザ・ファントムシーフ――幻影怪盗バイオレット。
「しまった! 早く扉を閉めて!」
 武雄は舌打ちするが、警官たちが彼の言葉を理解して行動に移るより早く、紫色のリボ
ンが彼らの頭上を越えて台上の指輪を絡め取った。
「今回もボクの勝ちのようだね、秋元武雄君。フフフフフ」
 リボンを手元に引き寄せた本物のバイオレットは、翠の宝石を掲げて低く抑えた忍び笑
いを浮かべると、部屋の唯一の出入口である扉を閉める。極めてゆっくりと、だが、決し
て武雄が間に合わないタイミングで。
「待て、バイオレッ――どわっ!」

 ゴンッ!

 閉じ込められまいとした秋元武雄が勢い余って扉に激突したようだが、その程度であれ
ば、むやみに人を傷付けないという怪盗のポリシーを破るものではないだろう。
 この隙に外から扉に鍵を掛けて逃走の時間を稼いだ幻影怪盗は、警官隊が待ち受けてい
るであろう玄関へは向かわず、二階への階段を駆け昇った。
 そして、廊下の突き当たりにある窓を大きく開け放ち、月明かりの中へと飛び出す。
「上だっ!」
「逃がしませんよ!」
「警視総監賞ぉ!」
 警官隊の一部が気付いてバイオレットの落下予想地点に集まってきたが、怪盗はそこへ
着地しなかった。
 マントの裏から一瞬で広がったハンググライダーが怪盗を空へと運んだのだ。
「それではアディオス、警察の皆さん」
 バイオレットは月夜の散歩を楽しむかのように上空で円を描くと、キザな投げキッスを
残して悠々と飛び去る。地上の警官隊には夜空を滑空する怪盗に手も足も出せない。
「ふぅ。やられたわね。――後はいつものように頼むわ」
 裏を掻かれた涼子は近くの部下に形式だけの緊急配備を命じると、自分は早くも上司へ
の報告に向かう。まだ完全に取り逃がしたわけではないが、今回もバイオレットが捕まら
ないであろうことを、彼女は既に予想していた。
「先に始末書を書いておいて良かったわ」
「ああっ! あいつ、空を……!」
 コッソリ呟いた涼子の後ろでは、ようやく屋敷から出てきた武雄が空を舞うバイオレッ
トの姿を目にして地団駄を踏む。
「覚えていろよ、バイオレット!」

 ジャン、ジャン、ジャンジャッジャジャーン

 嗚呼。秋元武雄の叫びも空しく、またしても紫の怪盗は、アイネ・クライネ・ナハトム
ジークの余韻が残る夜空へと消えてゆくのであった。


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