午前二時。草木も眠る丑三つ時。 方角で言えば丑寅(鬼門)に当たるこの時刻は、地球自体から発せられている微弱な波 動が最も安定し、死霊の霊体場が維持され易くなる。孝司は人間の雑念が霊の輪郭をぼや けさせると説明していたが、雑念を出しているのは人間だけとは限らない。 地球も、霊的力場を持つ一個の生物なのだ。 ――さて。 朔也、孝司、茜の三人が工事現場へ到着すると、健吾と聖美は昼間に設置した監視カメ ラの映像を見ていた。若い男女が深夜に二人きりでいたのだが、色っぽい展開など何一つ なかったらしい。当然のことだが。 「おっ。やっと起きたな、寝坊助が」 ヘルメットに安全シューズ、ポケットに使い捨てカイロという完全装備になった健吾が 振り返って朔也に呼び掛ける。 「ああ。――何か視えたか?」 朔也は無愛想な顔のまま応えて、モニタを覗いている聖美に訊ねた。 「いいえ。弱い雑霊はいくつか〈霊視〉できましたが、それらしい霊は何処にも」 「そうか。中へ入って霊を刺激してみるか……? あまり危険はないと思うが……」 「あ、あの、朔也さん……」 「黙っていろ」 冷たくあしらわれてしまった茜は、朔也から一定の距離を取って離れた。 普段の彼女からは考えられない行動だ。 「また朔也が何か言ったのか?」 茜の様子に気が付いた健吾が孝司に訊ねる。 「ちょっとね。雨降って、地固まるか、地崩れるかの瀬戸際だよ」 「なんだそりゃ?」 「孝司。建物の見取り図は何処だ」 健吾の問いを遮るように、有無を言わさぬ朔也の声が飛んだ。 「はいはい。ここだよ」 呼ばれた孝司は一枚の方眼紙を朔也に渡す。昼間のうちに調べておいた建物の内部を簡 単な図面に描き起こしたものだ。 「まず、奧の部屋から調べていくか」 「そうだね。この中だったら、方角から考えてそこにいる確率が高いかな」 ――と、四人が図面を見ながら検討している一方で。 「あたしの、バカ」 車に寄り掛かって幽霊屋敷を眺めながら、茜はぽつりと呟いた。 朔也に死に別れた恋人がいても関係ない。いつものように朔也に抱きつけばいい。 ……と思うのだが、今の茜にはその勇気が出なかった。 朔也が茜を振り払うのは照れているだけで本当は両想いなのだと信じていたのに、朔也 の心が今は亡き恋人に向いていたことが、茜には大きな衝撃だったのだ。 「――あれ?」 そのとき、茜は自分の内側に異質な存在を感じた。 「あれ、あれ……?」 茜の心に侵入してきた違和感は、ラジオのチューニングを合わせるかのように、徐々に 茜の精神に同調していく。霊波計を身に付けていれば電子音が鳴り響いて朔也たちに発見 されたのだろうけれど、茜は持っていなかった。 「あ……」 亡霊に憑依された茜は屋敷へ向かって歩き出した。
「……茜はどうした?」 健吾と同じ完全装備になった朔也が、茜の姿が見えないことに、一番最初に気が付いた。 「茜ちゃん? ……あれあれ? 何処へ行ったのかな?」 孝司も周囲を見回すが、やはり茜は見当たらない。 「朔也が冷たくするから拗ねて宿に帰ったのかな?」 「いいえ。工事現場からは出ていないはずです。出入口は閉まっていましたから」 聖美が孝司の楽観的な意見を否定する。 「んじゃ……勝手に屋敷の中に入っちまったのか!?」 「チッ。世話を焼かせる。――行くぞ、健吾」 「おう」 朔也と健吾は建物へ向かって走り出した。
小さな旅館の前に立つ若い男女。 ――どうしても、行かれるのですか。 女が男に問う。 ――済まない。これは僕の夢なんだ。 男は女に答える。 ――……解りました。もう引き止めはしません。 女は、男の決意が固いことを知っていた。 男は自分の夢を実現するため遠い外国へ旅立つのだ。男のことを誰より理解している女 には、その夢を阻むことなどできなかった。 ――ただ、必ず帰ってきて下さい。 女が男に告げる。 ――きっと一人前の男になって、君を迎えに来る。 男が女に応える。 ――いつまでも待っています。ここで、この場所で。 男を見送る女の目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「いつまでも待っています……――って、あれ?」 気が付くと、茜は暗闇の中で泣いていた。 そして、茜の前には、闇の中にぼんやりと浮かび上がる亡霊の姿があった。 「もしかして……幽霊さん?」 (確かに私は幽霊なのですが、少しばかり呼び方を工夫してはいただけないでしょうか) 「あっ、ごめんなさい」 茜はぺこりと頭を下げた。 なんとも緊張感のない女子高生だ。困り顔になる亡霊も珍しいが。 (それよりも、この宿を壊さないで下さい。ここは、あの人との約束の場所なのです) 「でも……それは八十年も前のことなんでしょ? その人はもう……」 先ほど見た過去の光景を思い出して、茜は決まり悪そうに言った。 (ええ。どんなに待っても、あの人が帰ってくることはないでしょう。幽霊となってまで 待ち続ける無意味さも、理解しているつもりです) 「それじゃ、どうして?」 (それでも、待たずにはいられないのです) 亡霊の行動は生前の感情に左右される。感情を司る霊体が死の直前の状態で固定されて しまったのだ。辛うじて理性的な行動ができても、本当の意味での理性は持ち得ない。 何故なら、亡霊とは魂の抜け殻に過ぎないのだから。 茜と会話が成立していること自体、驚くべきことなのだ。 (せめて五年――いえ、三年で構いません。ほんの少しだけ時間を下さい。そうすれば諦 めて消えることができると思います) 「そんなことあたしに言われても困るんだけど……。ここを壊したいのは黒原社長だか ら」 (そうですか……) 亡霊は茜の言葉にうつむく。 「あか……どこ……」 その時、遠くから朔也の声が届いた。 「あ、朔也さん」 朔也ならば亡霊の願いをどうにかしてくれるのではないかと思い付いた茜は、大声で朔 也を呼ぶ。 「あたしはここだよ、朔也さん!」
「ここも違う」 壊れかけた扉を安全靴で蹴破った朔也は、広間や厨房を抜け、客室の一つに踏み込んだ。 しかし、誰もいない。亡霊の姿もない。 「おい、朔也。そういう派手なアクションはおれの仕事だろ?」 『焦る気持ちも解るけど、少し落ち着いて』 「チッ」 止める二人に構わず朔也は次々と他の部屋を見て回るが、やはり誰の気配も感じない。 「茜! 何処だ!?」 堪えきれなくなった朔也は茜の名を叫び始めた。 「あた……ここ……よ、さく……」 すると、切れ切れに茜の声が返ってきた。 だが、声のする方を見ても、そこには昼間に雑霊を〈消去〉した押し入れがあるだけ。 ――いや。床板がずれている。 朔也は床板を外して後ろに放り投げた。 「うわっ」 慌てて床板を避けた健吾の声は朔也の耳に入らない。押し入れの床には地下へ続く深い 穴が口を開けていたのだ。 暗闇に閉ざされた穴の奧からは妙な硫黄の臭いが漂ってくる。 『地下室みたいだね。何に使われていたのかな?』 「事情は知らん。行くぞ、健吾」 「おう。――と言いたいけどな、この入口、おれの体には少し狭いぜ。先に行ってくれ」 『健吾のことなんて待っていないみたいだよ、朔也は』 孝司の言う通り、朔也は一人で地下に潜っていた。
「茜! 無事か!?」 頭上から光が射して朔也が降りてきた。 「朔也さ〜ん(はぁと)」 茜は満面の笑みで朔也に抱きつく。先刻までの気まずさはすっかり忘れていた。 「下がっていろ」 しかし、亡霊に気付いた朔也は茜を下がらせ、霊験あらたかな木刀を構える。 「待って、朔也さん。〈消去〉しないで」 「……何?」 何を言われたのかすぐには理解できず、朔也は木刀を亡霊に向けたまま振り返った。 「この幽霊さんは悪い人じゃないよ。恋人さんを待ってるだけなの。消さないであげて」 茜は朔也の腕をつかんで止めるが、朔也はその手を振り払って告げる。 「良いも悪いもない。この亡霊は建物の取り壊しを妨害した。だから消す――それだけ だ」 「そんなこと言わずに助けてあげようよ。あたし、幽霊さんの話を聞いたの」 茜は重ねて朔也を止める。亡霊の過去を追体験した茜には、もはや他人事では済まなく なっているのだ。 『茜ちゃん。無理を言っちゃいけないよ』 沈黙する朔也に代わり、スピーカーから孝司の声が響いた。電波の状態が悪く雑音が混 じっているが、会話するには支障ない。 『亡霊はとっくに死んでいるはずの人、幻なんだよ。早く消してあげることも、その人を 救うことになるんじゃないかな?』 「だからって、ただ消せばいいなんてことないよ。幽霊さんが納得できるような方法で成 仏させてあげようよ」 「……全ての霊が納得する方法なんて、あるわけがないだろう」 「でも、この幽霊さんは、何年かしたら諦めるって言ってるんだよ」 「今回だけ見逃すのは、俺が消してきた他の霊に不公平だ」 「不公平って……そんな問題じゃないよ」 場違いな言葉を返された茜は、ある種の確信を持って朔也に告げる。 「朔也さんは、綾霞さんの幽霊を消しちゃったから、他の幽霊さんも消さなくちゃいけな いって思い込んでるだけだよ」 「なっ……!?」 茜の指摘は正しかった。 正しかったけれど、朔也には自分の言動を改めることなどできなかった。 今の朔也は、過去という足枷に囚われた亡霊と同じなのだ。 「……それがどうした」 朔也は動揺を押し殺した声て開き直る。 「霊の願いを叶えてやる義理も義務もない。たとえ、それが綾霞の霊だとしても」 しかし、茜は言った。 「綾霞さんは、きっと朔也さんに早く自分のことを吹っ切ってもらいたくて、朔也さんに 消されるために幽霊になったんだよ」 「何……?」 「だから、綾霞さんを消した朔也さんは、綾霞さんの願いを叶えてあげたんだよ」 「…………」 「あの人のお願いも聞いてあげようよ、朔也さん」 茜の言葉は、ただの詭弁だった。 だが、朔也は茜に反論することができなかった。 何故なら茜は―― 「……似ているな、本当に」 「えっ?」 「解った、と言ったんだ」 茜に背を向けた朔也は木刀を腰に戻す。 「じゃあ、〈消去〉しないの?」 「ああ。ただし、今回だけだ」 「うん。――良かったね、幽霊さん」 (はい……。ありがとうございます) 亡霊は茜に感謝の言葉を残し、鎮魂の眠りに就くため姿を消した。 すると―― 「さ、朔也さん、あれ」 そこには、死後数十年を過ぎたと思われる白骨死体が横たわっていた。天井から崩れ落 ちた土砂に半分ほど埋まっているが、人骨であることは確認できる。 「ああ。あの亡霊の遺体に間違いないだろうな」 「そっか……。夜逃げしたんじゃなかったんだね」 「ガスにやられたんだろう。どこからか硫黄の臭いが……ん?」 改めて地下室を見回した朔也は、女性と同じく白骨化した小動物の死骸の他に、色褪せ た封筒があるのを見付けた。 気になった朔也はその封筒を拾い上げ、中の書類に目を通す。 「……そうか。なるほど」 「なんなの、朔也さん?」 「取り壊しを防ぐ手段が見つかった」 「ええっ?」
|