八十年目の亡霊


「はぁ〜。極楽極楽」
 露天風呂に首まで浸かって、孝司が気の抜けるような声を上げた。
「『はぁ〜。極楽極楽』なんてオヤジっぽいぜ。――なぁ、朔也」
「ああ」
 小麦色の上半身を誇示するかのように胸を反らして健吾が言うと、頭にタオルを乗せて
湯に浸かっていた朔也も同意した。
「そうだよ。孝司さん、ジジくさ〜い」
 と言ったのは、女湯との仕切り壁の上から顔を覗かせた茜だ。
「――!?」
 男三人は一斉にぎょっとするが、ここの温泉は白濁しているので前を隠す必要はない。
「はしたないですよ、藤宮さん」
 朔也たちが口を開く前に聖美が茜を引き戻した、が――
「きゃっ。聖美さん、あたしの胸に触った〜。聖美さんのエッチ」
「えっ? そんなつもりは……」
「言い訳してもダ〜メ。お返しにあたしも触っちゃうから」
「やっ、ちょ、ちょっと、藤宮さん。待って――あん」
「聖美さん、お肌スベスベ〜」
 女湯では何やら凄いことになってしまったようだが、男湯の三人に聖美を助けることは
できない。彼らにできることは壁の向こうを想像することだけだ。
「おやおや、朔也。急に後ろを向いてどうしたんだい?」
 一人だけ知らないふりをしようとした朔也の前に孝司が回り込んだ。
「なっ……! 覗き込むな、孝司」
 朔也は孝司の顎を掴んで阻止しようとしたが、反対側からもう一人。
「ほほう。どれ」
「健吾、お前もか」
「男同士で恥ずかしがるなって」
「そうそう。見られて減る物じゃなし」
「ええい、寄るな、触るな。先に出るぞ」
 顔面どころか背中まで真っ赤になった朔也は早々と湯から上がってしまった。
「しっかり股間は隠しているよ」
「なんだかんだ言って朔也も男ってことだな」

 女湯に茜と聖美を残して風呂を上がった男三人は宿の一室へ戻ってきた。早めに仮眠し
て夜中に除霊することは孝司が宿の若女将に伝えてあったので、部屋には既に三人分の布
団が敷かれている。
「それで、あの古宿について何か判ったのか? 街で一番の年寄りに会って詳しい話を聞
いてきたんだろう?」
 未だに顔を赤くしている浴衣姿の朔也が孝司に問い掛けた。
「ああ、そうそう。八十年くらい前まであの宿を営んでいた女将さんは、悪徳高利貸しに
騙されてお金を借りちゃって、借金を返せずに夜逃げしたんだってさ。可哀想に」
 孝司は三十分かけて聞き込んできた話を十五秒に要約して伝える。
「んで、その女将さんは帰ってきたのか?」
 風呂上がりの柔軟体操をしながら健吾が訊ねた。
「戻らなかったらしいよ。例の屋敷は高利貸しが差し押さえたみたいだから。今は、その
高利貸しもとっくに潰れて、建物の権利は巡り巡って黒原建設に渡ったらしいね」
「んじゃ、この幽霊騒ぎは、夜逃げしたその女がどっかで死んじまって、亡霊になって戻
ってきた――ってところか?」
「他に関わりのある者がいないのなら、まず間違いないだろう。建物そのものに未練があ
ったのか、高利貸しへの怨念か」
 体操の合間に振り返った健吾に朔也が同意する。
「どっちにしろ、黒原社長にゃ無関係のとばっちりだったな」
「そうだね。でもまぁ、未練にしても怨念にしても、ずいぶん昔のことだから感情が薄れ
て――霊体場が劣化して――いるだろうし、あっさり消せるんじゃないかな」
「ああ」
 と、朔也が応えたちょうどその時、部屋の扉が開いて浴衣姿の茜が飛び込んできた。
「朔也さ〜ん、混浴じゃなくて残念だったね(はぁと)」
「茜……!?」
 普段の溌剌さと湯上がりの色っぽさを兼ね備えて抱きついてきた茜を、朔也は真っ赤な
顔で振り解いた。少々のぼせ気味だった茜は聖美の胸にぽよんと受け止められる。
「聖美さんって意外と着痩せするタイプよね。あたしのお姉ちゃんとどっちが大きいか
な」
「あれ? 茜ちゃん、お姉さんがいるの?」
 聖美の胸に顔を埋めて茜が呟くと、孝司がすかさず問い掛けた。
「うん。F女子大の二年生」
 赤面する聖美に胸元から引き剥がされた茜が振り返って答える。
「へーえ。女子大生か。今度紹介してよ」
「孝司さんは女の人に見境なく声を掛けるからダメ。お姉ちゃん、男の人に免疫ないんだ
もん。好きな人ができたとか言ってたけど、孝司さんみたいな人じゃないか心配」
「えぇ〜? 僕ってそんなに信用ないかなぁ」
「そう言えば、藤宮さんはこちらに泊まることを家の人に説明してきたのですか?」
 さり気なく健吾の隣に座った聖美が茜に確認した。
「うん。でも、除霊について行くなんて言えないから、友達の家に泊まるって言ってきた
の。その友達にもアリバイ作りを頼んであるし、バレそうになってもカワイイ妹たちがご
まかしてくれるから大丈夫」
「アリバイなんて用意周到だね、茜ちゃん」
「だって、今夜は朔也さんとお泊まりだもん」
 茜は朔也の背に小さな胸を押し付けたが、そう何度も紅くなっている朔也ではない。
「お前は聖美と一緒に隣の部屋だ」
「朔也さんのいけず〜」
「いいから早く寝ろ」
「え〜? まだ七時前なのに」
「そうじゃないよ、茜ちゃん。一眠りしておかないと、除霊するときに眠くなるからね」
 茜が悪乗りする前に孝司が説明した。
「あっ、真夜中に除霊するんだっけ。――それじゃお休み、朔也さん」
 茜は朔也にだけ挨拶して隣の部屋へ向かう。
「では、私も」
 と言って腰を上げた聖美はちらりと健吾に目を向けたが、彼は目覚まし時計を設定して
いて視線に気付かない。聖美は小さな溜息を残して部屋を後にした。
「鈍いなぁ、健吾も」
「何が?」
 目覚まし時計を枕元に置いた健吾が孝司に問う。
「せっかくの温泉で少しは進展を期待していたんだろうな、と思って」
「誰が? 茜ちゃんか?」
「ま、そんなところだよ」
「それぐらいおれも気付いてるぜ。――少しは茜ちゃんの女心を解ってやれよ、朔也」
「お前にそれを言われたくないがな」
「は?」
「少なくとも俺は解っているつもりだ。解っているからこそ、応えられないことも――」
「きゃあっ!?」
 朔也の返答を掻き消すように、隣の部屋から聖美の悲鳴が聴こえた。
「良いではないか良いではないか〜」
 嬉々とした茜の声も聴こえる。
「え〜い、コマ回し〜」
「あーれー。お代官様、お許しをー」
 聖美も結構楽しんでいるようだ。
 健吾がいるこちらの部屋に声が筒抜けとは夢にも思うまい。
「……何をやって――いや、早く寝るぞ」
 朔也は途中まで言い掛けて、そのまま布団を被ってしまった。
「気になってる気になってる」
「やっぱしムッツリスケベだな」

「朔也さん」
 一人の女性が朔也の腕に抱きついた。
 今より少し髪の短い朔也は、まだ少女と呼べるその女性に不器用な笑顔で応える。
「今日は、孝司と一緒じゃないのか?」
「うん。だって、朔也さんに会いに来たんだもの」
「そうか」
 朔也は、無邪気な笑みを向ける彼女の髪を優しく撫でる。
「行こう、朔也さん」
「ああ。行こう、綾霞」
 朔也は彼女に手を引かれて歩き出した。
 ただ主観的な時間だけがゆっくりと流れる。
 やがて、彼女が振り返った。
 朔也の手には木刀が握られていた。
 戸惑う朔也に、彼女は生気のない顔を向け、全てを受け入れるかのように両腕を広げる。
 朔也は震える手で木刀を振り上げ、彼女の体を袈裟掛けに切り裂いた。
 虚空に消えようとする彼女の口が言葉を紡ごうとするが、朔也は何も聞き取れない。
 木刀を振り下ろしたまま、朔也はいつまでも立ち尽くしていた。

 朔也がまぶたを開ける。
「サ・ク・ヤ・さん」
 目の前には女性の顔があった。
 茜が朔也の布団に潜り込んでいたのだが、夢から醒めたばかりの朔也には、茜の顔に別
の女性の顔が重なって見えた。
「あ…………や……か……?」
 朔也は夢で見た女性を強く抱き締める。
「きゃっ。朔也さんったら大胆」
 茜は自分の名前通りの真っ赤な顔で、それでも、照れ隠しに余裕のある口振りで応えた。
「でも、でもね、朔也さん。あたし、そういうことするのは早すぎると思うの。出会って
からまだ二ヶ月だし。それに、これから除霊のお仕事が――」
「……済まない、綾霞」
「アヤカ?」
 茜はきょとんとして、朔也の口から漏れた女性の人名らしい言葉を繰り返した。
「朔也さん、あたしは茜よ。アカネ」
「……茜?」
 朔也はそこでやっと完全に覚醒した。
 枕元の時計は午前二時を指そうとしている。孝司と健吾の布団は既にもぬけの殻だ。
「チッ」
 自分の腕の中にいるのが茜だと気付いた朔也はその体を突き放す。
「痛〜い。せっかく起こしに来てあげたのに」
「勝手に布団に入ってくるな。着替えるから出て行け」
 朔也は茜の抗議を聞かずに部屋からつまみ出した。
「懲りないね、茜ちゃんは。ふわぁ〜」
 その茜に、部屋の外で待っていた孝司が欠伸しながらやってくる。
「先に工事現場の方に行かないかい? 健吾と聖美さんが二人きりで待ってるから、こっ
そり覗いてみよう」
「……孝司さん。アヤカさんって、誰?」
 しかし、茜は孝司の方を見ないまま、静かに、真剣な口調で訊ねた。
「え? ……それ、誰に聞いたんだい?」
 呑気な顔をしていた孝司は、一瞬笑みを消して、茜に問い返す。
「朔也さんが寝ぼけて言ったの。アヤカって」
「そっか……。こだわってるんだなぁ」
「誰が? 何に?」
「昔、朔也が僕の妹と付き合っていたのは知ってる?」
「え……ええっ!?」
 初めて知らされた事実に茜は大声を上げて振り返った。
 が、すぐに顔を伏せて呟く。
「そんなこと、朔也さん、一言も教えてくれない……」
「まぁ当然かな。正式に付き合っていたわけじゃないし」
 孝司は一人で納得し、言葉を続ける。
「僕の妹は、綾霞は、二年くらい前に病気でね」
「亡くなったの……?」
「そう。あっけなかったよ、肉体は」
「肉体は?」
「あっけなさ過ぎたんだ。綾霞が息を引き取った病院で、夜な夜な亡霊が現れるようにな
ったんだよ。そして、その除霊に呼ばれたのが、仕事を始めたばかりの僕たちだった」
「えっ? それじゃ、まさか」
「そう。朔也が〈消去〉した。それで、朔也は自分が綾霞を消したんだって、今でも時々
思い出しては自分を責めているんだよ」
「そんなことがあったんだ……」
 恋人の亡霊を自らの手で消し去った朔也の苦悩を慮って茜が呟く。
「何をしている」
 茜の後ろで扉が開き、浴衣から作業服に着替えた朔也が部屋を出てきた。
「あ、あのね、朔也さん、あたし……」
「行くぞ」
 しどろもどろになる茜に一方的に告げると、朔也は孝司の襟首をつかんで歩き出す。
「痛いって、朔也。もう少し優しくしてよ」
「……孝司、余計なことを話すな。茜には」
「あれ? 逆だよ。僕は、茜ちゃんだから話したのに」
 朔也は押し殺した声で釘を刺したが、孝司は軽く受け流す。
「理由は、僕より朔也の方が解っているんじゃないのかい?」
「……チッ」


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