彼女がバイトを始めた理由


 ――数日後。
「涼子ったら、ようやく納得したそうよ」
 漫画雑誌を片手にグビグビとコーヒーを飲みながら、姉さんが唐突に言った。
「あ、そうなんだ」
 藍さんが誘拐された事件のことは、結局、秋元さんには話していない。『同盟』のこと
は秋元さんに秘密だし、藍さんが超能力を持っていることも、藍さんが心の整理を付ける
まで話すわけにはいかないからね。
 自分が超能力者だったことに藍さんはずいぶんショックを受けていたから、その様子を
見た秋元さんはずっと不審に思っていたんだ。
 藍さん……もう立ち直っていたらいいんだけれど……。今夜辺り電話してみようかな?
「でも、姉さん、どうやって秋元さんを説得したの? 前に会ったときは絶対に信用して
いなかったのに」
 僕は新聞を流し読みしながら姉さんに尋ねる。
「あたしも詳しく知らないわ。新しく来るバイトの子が涼子を言いくるめたのよ。涼子を
納得させたら合格っていう採用試験で」
「えっ? バイト雇うの?」
「ええ。時給二百五十五円で構わないって言うから事務所の掃除でもしてもらおうかと思
って。――あ、お代わり」
 姉さんは空になったコーヒーカップをデスクに置く。
「そんな薄給でいいなんて珍しい人だね」
 僕はコーヒーの入ったガラスポットを傾けて姉さんのカップに注ぐ。テレキネシスで。
「その子にも色々と事情があるのよ。色々と」
「事情って?」
「女の過去をあれこれ詮索する男は嫌われるわよ」
「ううっ。そう言われると余計に気になるよ。女の人なの?」
「そのうち判るわよ。それより、コーヒーもう一杯」
 早くもコーヒーを飲み干した姉さんが再びカップを置いた。
「はいはい」
 と言っても、ポットのコーヒーも空になっている。新しく作ろうとコーヒーメーカーの
準備を始めると、姉さんが、
「――あ、三人分ね」
「三人分?」
 僕が聞き返すと同時に事務所の扉が開いた。
「こんにちは。遥、彼方くん」
 ノックもせずに扉を開けて現れたのは例の如く秋元さん。
「何しに来たのよ、涼子? あの子に説明してもらったでしょ」
「解っているわ。もう聞かないから安心して。今日はたまたま近くに来たついでに寄った
だけよ。彼方くんのコーヒーも飲めるし」
 と言いつつ、秋元さんは勝手にソファーに座る。
「ここは喫茶店じゃないんだけれど……」
「彼方くん。わたしはカプチーノ」
 だから喫茶店じゃないんだってば。
 でも、逆らえないから黙ってコーヒーメーカーの目盛りを『濃』に設定し直す。もちろ
んテレキネシスで。
 すると、それを見ていた秋元さんが、
「本当に便利ね、彼方くんって」
「そう? 貸してあげてもいいわよ」
「レンタル料は?」
「ヘルマンのスカーフで手を打つわ」
「姉さん、せめて現金収入を――ぐはっ!」
 商談に口を挟もうとした僕の顔面にブランドバッグが投げられた。
 当たり所が悪くてテーブルに突っ伏す僕。
 いいんだいいんだ。姉というものは本能的に弟をいぢめる生き物なんだから。弟にとっ
て史上最強の生物は姉なんだよ。
「毎日大変ね、彼方くん」
「生まれたときから――じゃなかった、生まれる前からずっと一緒の双子の姉さんだから、
もう慣れているけれどね」
「ふふっ。お母さんのお腹の中でも足蹴にされていたんでしょうね」
 きっとそうだ。そうに違いない。
「その苦労も今日からは半分ね。新しくバイトを雇うんでしょう?」
「そう。もうすぐ来るはずだけど――あ、来たわ」
 秋元さんが姉さんに話を振ると、姉さんはうなずいて、そのまま扉に顔を向ける。
 同時にコンコンとノックの音。
「入ってちょうだい」
「はい」
 可愛らしい女性の声。
 この声は、もしかして……?
「超能力の訓練を兼ねてこちらで働かせてもらえることになりました、藤宮藍です。よろ
しくお願いします」

【彼女がバイトを始めた理由 完】


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