彼女がバイトを始めた理由


 非常階段を使ったので、研究所を出るまで他の研究員とは出会わなかった。
 プラティさんの仲間が起こした陽動の爆発は研究所を挟んだ反対側で起こったから、こ
ちらには誰もいない。
 研究所の表を見てみると、プラティさんやコリドラスさんはいなくなっていた。警備の
人も、電撃を飛ばす女の人もいない。
 それなら、これ以上余計なことに巻き込まれる前に逃げてしまおう。
 僕はそう思って、塀に沿って敷地の外へ向かった。
 雨はやんでいたけれど霧は残っている。僕は前を向いたまま言った。
「藍さん、はぐれないように気をつけてね」
「それじゃあ、手をつないでもいいですか?」
「えっ?」
 僕は、そこで初めて振り返った。
 藍さんは恥ずかしそうに顔を赤らめて、でも、まるでピクニックでもしているように、
楽しげに微笑んでいた。
「藍さん……。僕のこと、超能力のこと、驚かないの?」
「驚きましたよ。超能力なんてテレビ以外で初めて見ました。びっくりです」
「それなら……僕のこと怖くないの?」
「えっ? どうしてですか?」
 僕が尋ねると、藍さんは本当に不思議そうに首をかしげる。
「だって、僕は超能力者なんだよ」
「だって、彼方さんはわたしを助けに来てくれましたから」
 そう言った藍さんの顔は、まるで聖母のように見えた。
 超能力者かどうかなんて関係ない。大切なのは、その人が何をするか、なんだね。
「そうだよね。ごめん、藍さん。変なこと聞いちゃって」
「変なことだったんですか?」
「あ、ううん。えっと、そんなことはないんだけどさ。ははは」
 僕は照れ隠しに笑いながら手を差し出す。
 藍さんはその手を取って、二人で霧の中を歩き出した。
「そうだ、藍さん。僕の超能力のこと秘密にしてもらってもいいかな? テレビとかで取
り上げられちゃうと困るから」
「もちろんいいですよ。二人だけの秘密なんて、ちょっとドキドキしますね」
「ドキドキする?」
「はい。ドキドキです。妹たちにも涼子さんにも隠し事なんて初めてですから」
「うーん……まぁいいんだけれど」
 やっぱりどこかズレているんだよなぁ、藍さんって。
「あっ。でも、姉さんと涼子さんは僕の超能力のことを知っているから隠さなくても大丈
夫だよ」
「えっ? そうなんですか。それはちょっと残念です」
「どうして?」
「だって、二人だけの秘密じゃなくなっちゃいました。ドキドキじゃなくなっちゃいまし
た」
 そう言ってはにかむ藍さんが可愛くて、僕は思わず抱きしめてしまいそうになった。
 そのとき話し声が近付いてこなければ、本当に抱きしめちゃって藍さんに嫌われていた
かも知れない。
「プラティ。この霧、うっとうしいぜ。早く消してくれ」
「もうやってるさ。おれの能力はタイムラグが大きいんだ」
 やってきたのはプラティさんとコリドラスさんだった。
「あっ、プラティさんにコリドラスさん」
「ああ、彼方か。どうやら無事に助け出せたみたいだな」
「彼女を大切にしろよ」
「彼女だなんて……。ぽっ」
 コリドラスさんの言葉に文字通りぽっと頬を染める藍さん。僕の後ろに半分だけ隠れた。
「後始末は『同盟』がやってくれるさ。お前たちは面倒なことになる前にさっさと帰った
方がいい。もちろん、ここで見聞きしたことは他言無用だぞ」
「どうせなら、オレたちのことなんてさっさと忘れちまった方がいいぜ」
「うん。解ったよ」
「あ、あの。あなたたちは?」
 僕の後ろから顔を出して藍さんが言った。プラティさんはちょっとだけ考えて、答える。
「ん? そうだな……正義の味方のようなものさ」
「良く言うぜ」
 軽口を言い合いながら二人は霧の中に消えていった。
 藍さんは不思議そうな顔で二人を見送る。
「藍さん、あの人たちのことは僕たちだけの秘密にしてもいいかな? あの人たちと『同
盟』のことは姉さんにも涼子さんにも話せないから」
 すると、藍さんは急に嬉しそうにはしゃいで言った。
「それじゃあ、今度こそ二人だけの秘密ですね。ドキドキですね」
「藍さーん。これはドキドキで済む問題じゃないんだよ。『同盟』のことを言い触らした
ら僕たちが危ない目に遭うかも知れないんだよ」
「きっと大丈夫ですよ。『正義の味方』って言ってましたから」
「自分で自分を正義の味方なんていう人を信じちゃ駄目だよ。言葉だけなら、あの冷酷非
道な姉さんだって『心優しいお姉さん』とかでまかせ言えるんだから」
「誰が冷酷非道よ」
「あっ。遥さん」
 次に霧の向こうから現れたのは、僕の姉さんだった。
「藍ちゃんを見つけたのね。何があったの?」
「え、えーと……それは……」
 姉さんに問われて口ごもる僕。
 冷酷非道な姉さんには決して逆らえないけれど、プラティさんには他言無用って言われ
ているし、藍さんと二人だけの秘密でドキドキだし……。
 そんなことを考えて迷っていたら、姉さんが言った。
「心配しなくてもいいわよ。あたしも『同盟』のことは知ってるから」
「えっ……? ええっ!?」
 思わず大きな声を上げる僕。
「どうして姉さんが知っているの?」
「だって、あたしも『同盟』のメンバーだもの」
 予想外の答えに僕は声も出ない。姉さんはそんな僕の反応に満足したみたいだ。
「『同盟』があたしのESPに目をつけてスカウトにきたことがあるのよ。断ったけど、
『同盟』の名簿には名前が載ってるはずよ。超能力者の日常生活支援者として」
「えっ? それじゃ、遥さんも超能力者だったんですか?」
「『も』ということは、彼方のテレキネシスも知ってるみたいね」
「あっ」
 藍さん、やっぱり隠し事が下手みたいだなぁ……。
「別にいいわよ。あたしたちの能力のことは誰に話しても。あたしのESPはこの筋じゃ
有名だし、彼方なんて、合コンで『手品』とか言って女の子に見せびらかしているんだか
ら」
「彼方さん……そんなことしていたんですか……?」
「あ、いや、あのね。話のタネに、ちょっとね。手品って言っておけば納得してくれるし」
 藍さんの声に非難の響きを感じた僕はとっさに言い訳っぽいことを言ったけれど、藍さ
んは厳しい顔で、
「合コンだなんて不謹慎です」
 えっ? そっちの非難なの? というか、合コンを不謹慎なんて、藍さんって箱入り娘?
「それは誤解だって。いつも合コンしているわけじゃないんだよ。友達に誘われて何度か
行ったことがあるだけなんだから」
「本当ですか? 涼子さんも知っているそうですけど」
「僕は秋元さんと合コンに行ったことなんてないよ。昔、秋元さんが担当した事件に僕た
ちが居合わせて――」
 と、こんな言い訳ばかりしていても仕方がない。僕は姉さんに向き直って話題を戻した。
「そんなことより『同盟』のことだよ。姉さんが『同盟』にスカウトされたことがあるな
んて、僕は全然聞いてなかったよ。どうして教えてくれなかったの?」
「あんたを『同盟』に関わらせたくなかったからよ。責める前に感謝してほしいわね」
 そう言って、姉さんは僕の頭を指ではじく。
 僕は額をさすりながら、
「『同盟』のメンバーだったら、藍さんが狙われていることも知っていたんじゃないの? 
それとなく僕に警戒するように言ってくれても良かったと思うよ」
「それは筋違い。あたしは『同盟』の中でも下っ端の更に下よ。藍ちゃんが狙われていた
理由も、『同盟』で藍ちゃんの周囲を見張っていたことも、知らなかったわ」
「それじゃ、『同盟』が関わっていることを知っていたのはどうして?」
「あんたの服の袖に付いていた髪の毛をESPで調べて判ったのよ。涼子に連絡する前に
判って良かったわ」
 姉さんは茶色い髪の毛を僕に見せた。僕の髪の毛とは違うし、姉さんとも藍さんとも違
う。
 この髪の毛って……あっ。これはプラティさんの髪の毛だ。デパートの駐車場でもみ合
ったときに、僕の服に付いたんだね。
「『同盟』が関わっていることを注意するように伝えようと思ったけど、電波が届かなく
てあんたの携帯につながらないから、わざわざここまでやってきたのよ。どうやら全部終
わった後みたいだけど」
 姉さんは研究所のある方に目を向ける。霧の向こうだから見えないけれど。
「ふぅん。この霧、エアロキネシスね」
 うわっ。何のことだか知らないけれど何か解っちゃってるよ、うちの姉さん。
「まぁいいわ。彼方も藍ちゃんも『同盟』のことは忘れることね。基本的に『同盟』は放
任主義者だから、こっちが余計なことを言わなければあっちも文句を言ってこないわ。超
能力はともかく『同盟』のことは涼子にも秘密よ」
「うん。了解」
「二人じゃなくて三人だけの秘密ですね。やっぱりドキドキします」
 藍さんって本当に緊張感がないんだよなぁ。ゆるゆるだよ。可愛いけれど。
「それにしても大変だったね。藍さんに超能力があるなんて誤解されて、こんな事件に巻
き込まれちゃって」
「そうですね。でも、楽しかったですよ。怖かったですけど」
 と、やっぱり緊張感のない答えを返した藍さんの後ろから姉さんが口を挟んだ。
「誤解じゃないわよ。何を言ってるのよ、あんたは」
「えっ……? 誤解じゃないってどういうこと?」
「言葉の通りよ。あんた、まだ気付いてなかったの? 藍ちゃんの能力に」
 僕が尋ねると姉さんは呆れた顔で言う。
「周囲の者に好感を持たせる能力。カリスマ能力の一種ね」
「カリスマ……?」
 呆然とした声で藍さんが呟いた。姉さんは淡々と説明を続ける。
「感染型テレパシー。送信型テレパシーの一形態で、無差別に発散される精神波が能力者
と関わった者の精神に継続的な影響を及ぼすもの。その能力のうち、能力者への畏怖・尊
敬・憧憬・友愛などの心理的影響を誘発するものを総称して俗にカリスマと呼ぶ」
「そ、それじゃ、藍さんが研究所に狙われたのは、その能力のせい?」
「ええ。テレキネシスやパイロキネシスみたいに物理的な能力は、個人ならともかく社会
的には無力に等しい。心を読んだり心を操るテレパシーも、相手が大統領や大富豪でなけ
れば影響力は小さいわ。でも、群衆を意のままに煽動できるカリスマ能力は、社会的影響
が最も大きくて危険なのよ。藍ちゃんのカリスマは熱狂的な支持を集める独裁者タイプや
教祖タイプじゃないけれど、研究したがるのは当然ね」
 姉さんは藍さんに視線を向けた。藍さんは今にも泣き出しそうなくらい困った顔で言う。
「そ……そんな力、わたし持ってません」
「自分で気付いてないだけね。藍ちゃんは無意識のうちに自分を守ってもらえるような波
動を出してるのよ。藍ちゃんって、初対面で他人に嫌われた経験なんてないでしょ? 不
思議と周りから好かれて、困っていればすぐに誰かが助けてくれたんじゃない?」
「あっ…………はい」
 心当たりがあったのか、藍さんはコクンとうなずいてそのまま顔を伏せた。
「わたし……ずっと周りの人たちを騙していたんですね……」
 そんな藍さんの姿を見たら、僕は思わず励ましたくなる――あ、そっか。これが藍さん
の能力なのか。
 プラティさんが藍さんの救出を僕に頼んだのも、もしかすると藍さんの能力が働いたせ
いだったのかな? それどころか、僕が必死になって藍さんを助けようとしたことも?
「わたし、どうすればいいんでしょうか?」
「どうもしなくていいわ」
 すがるような藍さんの言葉に、姉さんは突き放すように答える。
「どうもしなくていいのよ。藍ちゃんのカリスマに騙されたなんて感じる人はいないわ。
あたしはそういうのシールドできるから今は効かないけど――彼方。あんたは藍ちゃんの
カリスマ能力を知って、それで藍ちゃんのこと嫌いになった?」
「ううん。まさか」
 僕は正直に答えた。
 僕は今でも藍さんが好きだよ。これは間違いなく本当の気持ち。
 それに、藍さんはこれまで自分の能力を悪用したことがなかったんだと思う。周りから
ちやほやされてワガママな女の子に育っていても不思議じゃないのに、藍さんは他人を気
遣う優しい心を忘れていない。
 それは超能力とは関係ない、藍さん自身の性格なんだよ。
「『能力』という言葉が嫌だったら『体質』って言い換えてもいいわ。藍ちゃんのカリス
マ能力は藍ちゃんの個性を形成する一要素。藍ちゃんの一部になってるのよ。自分自身を
嫌悪してもいいことないわ。――そうでしょ、彼方?」
「うん。そうだよ。その能力も含めて今の藍さんがいるんだから」
「でも、わたしは……」
「それでも自分の能力に抵抗があるのなら、自分の能力を正しく認識した上で、自分の意
思で制御できるよう訓練することね。藍ちゃんの能力は、教師やカウンセラーにとって有
益な素質でもあるのよ」
「……はい」


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