ハウスキーピング・オペレーション


第4話 エミーナ様ご入浴?

 エミーナ様は錬金術師です。
 いろんな物をお鍋で煮込んで別の物に変えてしまいます。
 この前はバラの香りの石鹸を作って下さいました。
 そんなものを作るんだったら毎日お風呂に入ってほしいんですけど、エミーナ様は、わたしが言わないとお風呂に入ろうとしません。
「お風呂に入らないくらいで死にはしないでしょう。毎日だなんて贅沢だわ」
 こんな言い訳を聞き入れるわけにはいきません。エミーナ様はお風呂に入るのが面倒なだけなんです。
 わたしはエミーナ様の美容と健康をお守りします!

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あら。エミーナ様」
 わたしと一緒にお掃除していたミズキちゃんが振り向きました。わたしも扉の方を向いて挨拶します。
「おはようございます、エミーナ様。こんな時間に珍しいですね」
 ここはエミーナ様のお部屋ですから、部屋の主のエミーナ様が現れるのは不思議でも何でもありません。珍しいのは、こんな朝早くにお部屋にお帰りになったことです。
 エミーナ様は昼間は眠っていて、夕方になると起き出し、徹夜で錬金術の研究をして、お昼になる前に眠ってしまいます。
 でも、今日は研究室から戻ってくるのがちょっと早いです。いつもはエミーナ様がお戻りになる前にお掃除を済ませてしまうのに、今朝はまだ半分も終わっていません。
「ちょっと研究に行き詰っているから、自分の中で考えをまとめようと思って早めに切り上げたのよ」
 エミーナ様はベッドに向かいながらわたしたちに言います。
「ここはもう掃除しなくていいわ。一眠りして頭をすっきりさせたいから」
「それなら、お風呂に入ってリフレッシュするのがいいですよ。今日こそはお風呂に入って下さいね」
「『今日こそは』なんて心外ね。まるで、わたしが何年も入浴していないみたいじゃない」
 エミーナ様はそこで大きなあくびをして、ベッドに入りながら続けて言いました。
「三日に一度は入っているわよ」
 入浴間隔が一日伸びています。以前は二日に一度だったのに。
 このままでは一週間に一度、一ヶ月に一度とエスカレートして、本当に何年もお風呂に入らないダメ人間になってしまいます。
「いけません。毎日入って下さい。ミズキちゃんも毎日お風呂に入っているから、こんなに綺麗な髪なんですよ」
 ルシーダ様の思いつきで屋敷にいる人は誰でもお風呂に入れることになっています。
 だから、お風呂が好きなミズキちゃんは毎日欠かさず入浴しています。おかげでミズキちゃんの自慢の黒髪はいつでもつやつやのさらさらです。
 ところが、お風呂が嫌いなエミーナ様の髪はぱさついています。枝毛もあります。これでは自慢になりません。
 こんなことでは密かにエミーナ様をお慕いしている庭師のマーリスさんもがっかりです。
「分かったわ、メリッサちゃん。でも、今は眠いから夕方ね」
「夕方ですね。約束ですよ」
「……考えておくわ」
「約束ですからね」
「…………」
 エミーナ様は寝たふりを始めてしまいました。
「しょうがないわね。エミーナ様も我が道を往く人だから」
 ミズキちゃんは諦めるのが早いです。
「お風呂の準備だけはしておきましょう。ルシーダ様もパーティに出かける前に入るでしょうし」
「そうですね」
「待って、メリッサちゃん。少し頼まれて貰えるかしら?」
 振り向くと、エミーナ様が寝たふりをやめて体を起こしていました。
「錬金術で使う材料を調達してほしいのよ。在庫が切れていたのをうっかり忘れていたわ」
「どんな材料ですか?」
「今、メモを書くわね。マレーネかエネミーに渡してもらえばいいわ」
 エミーナ様は眠そうな目をしながら、ベッドサイドの机でペンを走らせます。
 硫黄華。
 硝石。
 オリーブ油。
「それじゃ、お願いね」
「はい。分かりました。それじゃ、お休みなさい」
 わたしはメモを受け取って、(朝なのに)お休みのあいさつをしました。
「ええ、お休みなさい。……そうそう。オリーブ油はエクストラ・ヴァージンオイルよ。硫黄華も硝石も不純物が混じっているような安物は買わないように言ってちょうだいね」
「安物だとどうなるんですか?」
「不純物が多いと」
 エミーナ様はベッドから出した手をぱっと広げます。
「ドッカーン、よ」
「は、はい……」
 これは責任重大です。しっかりお伝えしなくてはいけません。
 わたしはメモを大切に持って、ミズキちゃんと一緒にエミーナ様の部屋を後にしました。


「エミーナ様の風呂嫌いも頑固よね。流石はルシーダ様の妹ね」
「そうですね。お風呂って気持ちがいいのに、どうして嫌いなんでしょう?」
「ほら、エミーナ様って男に興味がなさそうでしょう。だから外見に気を使わないのよ」
「だったら、エミーナ様に好きな人ができたらお風呂に入るようになるかも知れませんね」
「そっちの方が難しいと思うけれど」
 廊下を歩きながら、わたしとミズキちゃんは一緒に笑いました。
 エミーナ様は研究一筋ですから、自分の恋愛には本当に興味がないみたいなんです。
 少し前までは惚れ薬の研究をしていましたけど、それはエミーナ様が自分で使うための研究じゃなかったですし。
「それじゃ、わたし、エミーナ様のメモを渡してきちゃいますね」
「ええ。わたしは別の部屋の掃除を始めておくわ」
 エミーナ様の部屋から二つ離れた部屋の前でわたしたちは分かれました。
 すぐ隣の部屋はエミーナ様の睡眠妨害になるから、今は立ち入り禁止です。掃除するのはまた今度の機会にします。
 さて、どこに行きましょうか?
 メモを渡すのはマレーネさんでもエネミーさんでも構わないんですけど、お二人ともお忙しい人ですから、お屋敷のどこにいるか分かりません。
 マレーネさんはルシーダ様のお側にいることが多いんですけれど……今朝は違いますね。ルシーダ様は昨日もパーティーにお出かけしましたから、まだ眠っています。
 こうなったら、先にエルクさんを探しましょう。まだ執事見習いのエルクさんはエネミーさんやマレーネさんに雑用を頼まれることも多いですから、エルクさんに聞けば二人の居場所が分かるかも知れません。
 それに、エルクさんを探すのは簡単なんです。
「エルー。ちょっと待ってよ」
 ほら、聞こえてきました。コリーナちゃんです。
 コリーナちゃんはエルクさんに「ごめんなさい」されても、少しもめげずにアタックを続けているんです。
「離れなよ、コリーナ。エルクさんが迷惑してるじゃないか」
 こちらはアリサちゃんです。アリサちゃんはすっかり吹っ切れたみたいで、今はエルクさんの恋を応援をしているみたいです。エルクさんが誰を好きなのか分かりませんけど、わたしも陰ながら応援しています。
「エルクさん、おはようございます」
「あっ、メリッサさん。おはようございます」
「仕事はどうしたのよ、メリッサ」
 わたしがエルクさんに話しかけたらコリーナちゃんににらまれちゃいました。でも、その隙にアリサちゃんがコリーナちゃんの腕をつかんで引っ張って連れて行きます。
「コリーナだって調理場に戻らないとダメじゃないか。一緒に行くよ。アタシも食堂の掃除があるから」
「分かったわよ。――エル〜、またね〜」
 一度振られているのに、コリーナちゃんは打たれ強い女の子ですね。わたしも見習いたいです。
「こんなに一途に想われて、エルクさんもまんざらでもないんじゃないですか?」
「そんなことありませんよ。困っているんですから」
「本当ですか? コリーナちゃんに抱きつかれて鼻の下が伸びていましたよ」
「まっ、まさか! 僕は……」
 エルクさんは自分の顔をぺたぺた触って確認します。エルクさんは真面目だから、からかうと面白いです。
「冗談ですよ。それより、ちょっといいですか」
「はい……。どうかしたんですか?」
「マレーネさんかエネミーさんを探しているんですけど、どこにいるか分かりますか?」
「ええと……。マレーネさんは用事で外出しているはずですよ。父さんは中庭で庭師の方に指示を出していました」
「それじゃ、中庭に行ってみますね。ありがとうございます」
「あ……あの……」
 わたしが廊下を歩き出そうとしたら、エルクさんがちょっと言いにくそうにしました。
「なんですか?」
「あの、メリッサさん。僕も一緒に行こうか?」
「そこまで迷惑は掛けられませんよ。コリーナちゃんみたいにエルクさんを困らせちゃ悪いですから」
 わたしは一人で中庭へ向かいました。
 エルクさんは本当に親切でいい人ですね。


 わたしが中庭に行くと、ちょうどエネミーさんと庭師さんの話が終わったところでした。
「おや、メリッサさん。どうかしましたか?」
「エミーナ様から頼まれたんです。錬金術の材料を買ってきて欲しいそうです」
 わたしはエネミーさんにメモを渡しました。エネミーさんはそれを受け取って目を通します。
「硫黄華、硝石、オリーブ油ですね。手配しておきます」
「あと、オリーブオイルは最高級のエクストラ・ヴァージンオイルにして下さいね。他の二つも安物は買っちゃ駄目ですよ。絶対ですよ」
「そんなに勢い込んで言わなくても承知していますよ。以前にも調達したことがありますから。貴女はどうしてそんなに落着きがないのですか」
 エネミーさんは呆れ顔ですけど、これは重要なことです引き下がるわけにはいきません。だって……。
「だって、不純物があると爆発しちゃうんですよ。安物は絶対に駄目なんです」
「爆発ですか? ……確かにそれは大変ですね。肝に銘じておきます」
 エネミーさんは真剣な顔になって少し考えてから応えました。分かってもらえて良かったです。
「それじゃ、わたしはお掃除に戻りますね」
「ええ。材料は今日中に用意させますよ」


 夕方になりました。
 エミーナ様がお目覚めになりました。
 お風呂に入らず研究室に入ってしまいました……。
「だって、こんなに早く材料を調達してもらったんだもの。早く使ってあげないと申し訳ないわ」
 そうです。エネミーさんは日が暮れる前に錬金術の材料を揃えてしまったんです。
 材料を受け取ったエミーナ様は嬉々として研究室に引きこもってしまいました。夕食の時間になっても出てきません。
 エミーナ様は研究に没頭すると寝るのも食べるのも忘れてしまうんです。
 仕方がないので、今夜もわたしが夕食を差し入れに行くことになりました。エミーナ様の研究室にお食事を運ぶのはわたしの役目なんです。
 前にエマイユちゃんが夕食を持っていったことがあるんですけど、そのときは研究室の手前でギブアップしてしまいました。
「エミーナ様、夕食をお持ちしました……うぷっ」
 研究室に入ると、もの凄い臭いが漂ってきました。エマイユちゃんがギブアップしたときよりひどい臭いです。
「この臭い、なんなんですか……」
「そう? そんなに臭いかしら?」
 エミーナ様は研究室の真ん中で火に掛けている鍋の蓋を開けました。
 わたしはエミーナ様の後ろから鍋の中身を見てみました。
 良く分からない緑色のネバネバしたものが鍋の中でぐつぐつ煮込まれています。
 エミーナ様は銀のスプーンでそれをかき混ぜました。臭いが更に強烈になりました。
「いい感じね」
 少しもいい感じじゃありません。
 まるでお料理をしているみたいですけど、色と臭いは人間の食べ物じゃありません。いいえ、これを食べ物に喩えたら、食べ物に失礼です。
 でも、エミーナ様はこの臭いを全く気にせず、わたしが持ってきた夕食を食べ始めました。信じられません。
「良く食べられますね」
「心配しなくても大丈夫よ。今の状態は安定しているから、少しくらい目を離していても構わないわ」
 違います。お鍋の中身を心配しているんじゃありません。わたしが心配しているのはエミーナ様のお鼻です。
 いくら目を離していても臭いは部屋中にいっぱいなんです。臭いが体にこびり付いちゃいます。
 ……あっ。
「そうです、エミーナ様。せっかくですから今のうちにお風呂に入りましょう」
「ど、どうして急にそんな話になるの?」
 エミーナ様は夕食の手を止めて顔を上げました。
「だって、目を離していても大丈夫なんですよね。それなら、今のうちに入りましょう」
「今夜は気分が乗っているから、わざわざお風呂に入ってリラックスしなくてもいいのよ。また今度にしましょう」
「リラックスの問題じゃありません。人間とダメ人間の分かれ道です」
 わたしはここぞとばかりにエミーナ様を説得します。
「お風呂に入るのは人間です。でも、入らないのはダメ人間なんです。人間とダメ人間の間には暗くて深い大きな溝が口を広げて待っているんですよ。ダメ人間になったら二度とこちら側には戻って来れません。エミーナ様はダメ人間になりたいんですか。なりたくないですよね。だったら決まりです。お風呂です。お風呂しかありません。お風呂に入りましょう」
「分かったわ、メリッサちゃん。食事が終わったら一緒に行きましょう」
「エミーナ様……!」
 説得成功です!
 天国のご主人様、メリッサはやりました。ご主人様の大切なお嬢様をダメ人間の道からお救いできましたよ。
「だって、そこまで言われて入らないわけにはいかないでしょう」


 研究室を出ると、もう空には星が出ていました。
「もうすっかり夜ね。無理に私に付き合わなくてもいいのよ」
「いいえ。無理なんてしてないですよ。わたしもお風呂に入りたかったですし」
 ここで目を離したら、エミーナ様はお風呂から逃げてしまいます。そうはいきません。
「メリッサちゃんは明日の朝も早いのでしょう?」
「エミーナ様なんて毎晩徹夜しているじゃありませんか」
「私は、昼間は寝ているのよ。あなたは昼も夜も働き詰めじゃない」
「でも、お仕事をしていると楽しいですから」
「ふふっ。メリッサちゃんって、本当に変わっているわね」
「そんなこと言ったら、エミーナ様だって変わり者ですよ。夜中にお鍋をグツグツ煮込んでいるなんて魔女みたいです」
「それもそうね」
 わたしとエミーナ様は二人で笑いました。
 ふと見上げると白くて細い月が夜空に浮かんでいます。隣で瞬く星が砂金みたいで綺麗です。
 耳を澄ませば虫の音も聞こえてきます。
 わたしたちの後ろからはボンッという音がします。
「……ボンッ?」
「メリッサちゃん、伏せて!」
 後ろから聴こえた爆発音に振り返ろうとしたわたしをエミーナ様が押し倒しました。思わずドキドキしちゃうような格好です。
 でも、ドキドキしている暇はありませんでした。
 先程の数倍くらいある大爆発が起こったんです。
 さっきのはボンッでしたけど、今度のはドッカーンッです。
 研究室の壁や天井の破片がいくつか飛んできましたけど、伏せていたおかげで怪我はありませんでした。
 しばらくして顔を上げると――研究室が無くなっていました。
「……また、やっちゃったわね」
 エミーナ様が体を起こして呟きました。
 これまでも研究室が爆発したのは何回かあります。でも、研究室が跡形も無くなるほど大爆発したのは初めてです。
 ハウスメイド・チームもキッチンメイド・チームも、いつもは「廊下を走らない」と注意するマレーネさんまで、駆け足で屋敷から出てきました。エルクさんも早足でやってきて、その後ろからエネミーさんも歩いてきます。いないのはパーティに出かけているルシーダ様だけです。
「済みません、エミーナ様……。エミーナ様が研究室を離れていなければ、こんな事には……」
「いいのよ、メリッサちゃん。むしろ、お礼を言いたいくらいだわ。気付かずに研究室にいたら助からなかったもの。研究所を建て直したらメリッサちゃんに何か作ってあげるわね」
「そんな、いいですよ。それより、あとはマレーネさんにお任せしてお風呂に入りましょう。髪が埃まみれですよ」
 さっきの爆発で飛んできた土埃がエミーナ様に掛かってしまいました。それなのに、エミーナ様は聞いてくれません。髪を軽く払いながら研究室のあった場所を振り返ります。
「それにしても、あんなに危険な実験じゃなかったはずなのに、どうして爆発したのかしら? 不純物でも混じっていたのかしらね」
「話を逸らさないで下さい」
「どうやら、私もついにあの研究を始めるときが来たようね。あらゆる不純物を取り除くと言われる賢者の石、必ず手に入れなくては。もうお風呂だなんて言っていられないわ」
「エミーナ様……」


 結局、今夜もエミーナ様はお風呂に入りませんでした。


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