「演奏会、ですか?」 「独奏の出場者が予定していたよりも少ないそうだ。お前さえ良ければ推薦してみるが、 どうする?」 来月、バイオリンの合同演奏会が開かれる。 学生によるバイオリン・コンサートとしては有名な演奏会だ。学生たちからはもちろん、 音楽関係者からも一目置かれていて、この演奏会で認められた出場者にはプロの楽団から 入団の誘いが来ると言われている。 ところが、その演奏会に出場する学生が例年に比べて少なかったので、急遽、追加の出 場者を募ることになったらしい。 先生は僕を推薦したいそうだ。 「僕のバイオリンじゃ笑われるだけですよ。遠慮させて下さい」 「そうか? 私は、そうは思わない。自分では気付いていないかも知れないが、最近の上 達は目覚ましいものがあるぞ」 「……そうでしょうか?」 「ま、ただの人数合わせだと思って気楽に出場してみろ。それで何か見付かることもある だろう」 「…………解りました」 先生の説得に負けて、僕は推薦を受けることにした。
「明日からしばらく来れなくなるから覚えておいて」 そろそろコートが必要になる十一月の終わり。 僕はバイオリンを片付けながら彼女に言った。 「ええぇっ? どうしてですぅ?」 「バイオリンの演奏会に出ることになったんだよ。僕のバイオリンが上達してきたから、 出てみないかって先生に言われてね」 先生の推薦を受けた結果、本当に出場が決まってしまった。 まさか選ばれるはずがないと思っていたのだけれど、こうなった以上、出場しないとは 言い出せない。 「自分ではそんなに上手くなったとは思えないんだけれどね。でも、腕試しのつもりで行 くことにしたんだ」 「そうなんですかぁ……」 「演奏会があるのは少し遠くの街だから、三日くらい留守にするよ」 「分かりましたぁ……。でもぉ……」 彼女は不安そうに僕を見上げる。 「早く、帰ってきてくださいですぅ……」 今にも泣き出しそうな顔。 純粋な霊体である精霊の外見は、意識して変化させなければ、現在の心情をそのまま映 し出す。 「そんなに心配しなくてもちゃんと帰ってくるよ」 「……はい……ですぅ」 彼女の返事は、やはり元気がない。 僕としばらく逢えないことがそんなに寂しいのだろうか? 彼女は本当に僕の恋人になったつもりなのかも知れない。 そう思うと、僕は嬉しくなった。
演奏会の会場。 その控え室。 本番まで、あと三十分だ。 僕以外の出場者は自分が演奏する曲を練習している。 この演奏会で認められればプロのバイオリニストになることも夢ではないのだから、彼 らが熱心になるのは理解できる。 けれど、僕はバイオリンの調弦さえしていなかった。 『早く、帰ってきてくださいですぅ……』 不安げな彼女の顔が脳裏に焼き付いて離れない。 僕は彼女に……恋をしたのだろうか? こんな思いをするくらいなら、彼女を会場に連れて来れば良かったな……。 優れた精霊使いは自然に宿っている精霊を精霊石に移し替えて共に旅をすると聞くけれ ど、僕は彼女が宿る百日草を鉢に植え替えて持ち歩くことに―― 「……百日草?」 その時になって僕は気が付いた。 彼女が宿る花を最後に見たのはいつのことだ? 僕が近寄ると彼女が恥ずかしがるものだから、ここ二ヶ月は見ていない。百日咲き続け ると言われる百日草でも花はとっくに散ってしまったはずだ。 そして、百日草は一年生草本。いわゆる一年草だ。 春に芽を出し、夏から秋にかけて花を咲かせ、そして冬には―― 「そうだったのか……!」 僕は椅子を蹴るようにして立ち上がると、迷惑そうな顔をする他の出場者や呼び止める 係員の脇を走り抜け、演奏会の会場を飛び出した。 彼女は自分の死期を悟っていた。 だから、僕に早く帰って来てほしかったのだ。 僕は彼女に逢わなければならない。 百日草が枯れる前に。
列車を降りた僕は彼女が待つ高台の公園へ再び走り出した。 日は沈み、星が瞬き始めている。 バイオリンは会場に来ていた先生に預けて――押し付けて――きたけれど、僕は元々体 力のある方じゃない。 走り続ければ息が切れるし、つまずいて転べば血も流れる。 偶然に通りがかった女性神官に治癒の奇跡を授けてもらわなかったら、今頃は地面を這 って進んでいたかも知れない。 それでも、僕は走り続けた。
足を引きずるようにして公園に辿り着いた僕の前には、枯れて茶色く変色した百日草が あった。 「そんな……」 生命力の感じられない、ただの有機物。 植物の死骸だ。 「遅かった……のか」 たとえ間に合ったとしても、精霊使いでもない僕に、彼女を助ける術はない。 それでも、少なくとも、彼女には妹と同じ寂しい思いだけはさせたくなかった。 それなのに……。 僕はその場に倒れ込んだ。
霊的エネルギーの場である精霊は固有の肉体を持たない。 それ故、精霊が知性を持つ一個の存在として活動するためには、霊体場の依り処となる 物理的な器が必要となるのだ。 ウンディーネの器は清らかな水。 シルフィードの器は吹き荒ぶ風。 そして、ドリアードの器は「生きた」植物。 枯れてしまっては器として不完全だ。 割れたカップからミルクがこぼれてゆくように、器を失った精霊は霊体場を保てず霧散 してしまう。
「ドリりん……」 彼女との思い出が甦る。 無邪気な微笑み。 上目遣いで僕を見つめる翠の瞳。 愛嬌のある怒り顔。 幼い容貌に不釣り合いな色っぽい口元。 照れ隠しにはしゃぐ姿。 そして、最後に浮かんだのは、寂しげな笑顔。 「ドリりん……!」 こぼれたミルクを嘆いても仕方がない。 それは解っていた。 けれど、僕は枯れた百日草へ手を伸ばし、呻くように彼女の名を呼び続けた。 そうせずには居られなかったのだ。 「ドリりん……っ!!」 すると―― 「ロジェ……りん……?」 枯れた草の根元から翠の輝きが溢れ、朧気に人の輪郭を形作る! 「ドリりん!?」 「ロジェりん……。ドリりんのこと、初めてドリりんって、呼んでくれました……」 霊体場が不安定なまま、彼女はにこりと微笑む。 「何度でも呼んであげるよ、ドリりん。だから……だから、死なないでくれ」 「だいじょうぶですぅ……。精霊は、死にません。バラバラになっても、いつかまた、別 の植物に宿るんですぅ」 「それは、今までの思い出を失って、全く別の精霊になることじゃないか!」 僕は彼女の足元で叫んだ。 世界にたゆとう普遍的な力――それこそが精霊の本質。女神の息吹と呼ばれる由縁だ。 しかし、純粋なエネルギーに還元されてしまえば、彼女がこれまで活動していた頃の記 憶は永遠に失われてしまう。 人間であれば転生と呼ばれる奇跡を祈り願うこともできるけれど、精霊である彼女にそ れは起こり得ない。 何故なら、精霊は魂を持っていないのだから。 「新たに芽吹いた植物には君の一部が宿るかも知れない。でも、僕の知っているドリりん は、今ここにいる君だけなんだ!」 「そんなこと……まだ分からないですぅ……」 彼女の、ただでさえぼやけた半透明の体が徐々に薄らいでいく。 「生まれ変わっても、ロジェりんのことを思い出せるかも知れません。だから……いつか また、どこかで、ロジェりんに……会え……る……」 そして、彼女は消えた。 残ったのは、枯れ果てた百日草と、数粒の種。
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