精霊の季節


秋――我が愛しき亡者へ贈る鎮魂曲(レクイエム)

「お兄ちゃん、ばいおりん。もっと、ばいおりん」
「しょうがないな、フェルマは。本当にこれで最後だよ」
「分かってるよー。早く寝るから、だから、ばいおりん」
「はいはい」
 ギーギュギィィィギギー
「あははは! ヘンな音ー!」
「し、仕方ないだろう。まだ習い始めたばかりなんだから」
「お兄ちゃん、もっと。もっとばいおりんー」

「ロジェりんって、お父さんとかお母さんはいないのぉ?」
 ドリアードの少女が、例のように無邪気な笑顔で訊ねてきた。
「いるよ。でも、今は離れて暮らしているんだ」
「どうしてですぅ?」
「……妹が、こっちにいるんだよ」
「ロジェりんの妹さんですかぁ?」
「そう。名前はフェルマール。僕はフェルマと呼んでいたけれど」
「それじゃあ、ドリりんはフェルるんって呼んでもいいですかぁ?」
「いいよ」
 彼女の申し出に僕は笑みを作って答えた。
 きっとフェルマも喜ぶだろう。妹は病弱で友達が少なかったから、そんな風に呼ばれた
ことは、一度もなかっただろう。
「ドリりん、フェルるんに会いたいですぅ」
「それは、できないんだ」
「どうしてですぅ?」
「……どうしても、できないんだよ」
 僕は彼女から目を逸らし、夕日に紅く染まった丘の下を眺めた。
 高台にあるこの公園からは、側にある墓地を見下ろすことができる。
 僕の妹はそこに眠っているのだ。

 妹は生まれ付き体が弱く、長く生きることは不可能だと医者に言われていた。
 遺伝子的な欠陥なので、当時の医療技術では神に祈って奇跡を起こしてもらわない限り
治る見込みはなかった。
 もちろん、そんな高徳の奇跡を神に願うことが許された神官は、国中探しても数える程
しかいない。
 高位神官の個人的な知り合いであるか、多額の寄付金を神殿に納めれば多少は優遇して
もらえるものの、神の施しは公平であることが原則であり、治療は順番待ちだった。
 しかし、当時幼い子供だった僕にその残酷な現実を理解できるはずもなく、両親が各地
の神殿へ治療を頼みに出掛けて留守の間、妹を誰より大切に可愛がっていた。
 バイオリンを始めたのも妹のためだ。
 僕は妹の子守歌代わりにしようとバイオリンを練習した。
 もっとも、妹はそれを聞いても一向に眠ろうとはせず、ずっと笑い転げていたのだけれ
ど。
 結局、妹は楽しみにしていた学校へ行くこともなく永遠の眠りに就いた。

「ロジェりん、いぢわるですぅ。プンプンですぅ」
 少女の怒り顔が僕の視界一杯に現れた。
「……そうだね。ごめんよ。意地悪しているわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうしてフェルるん会えないんですぅ?」
「フェルマは、もうこの世にいないんだよ」
 僕はできるだけ彼女の負担にならないようにさり気なく答えた。
「あっ……。そうだったんですかぁ……」
 僕が丘の下の墓地を見ていたことに気付いたのか、彼女は心底済まなそうな顔になって
謝る。
「ロジェりんのこと、いぢわるって言って、ごめんなさいですぅ」
「いいんだよ。明日、僕と一緒にフェルマの墓参りに行こう」
「本当ですかぁ?」
「本当だよ」
 僕の言葉に彼女はぱっと表情を明るくする。
 明日は妹の十度目の命日だ。
 一人より二人の方が妹も喜ぶだろう。

 翌朝。
 僕は公園に寄ってドリアードの少女を誘ってから、高台の下にある墓地へ向かった。
 精霊である彼女は、自分が宿っている百日草から遠くに離れることはできないのだけれ
ど、これくらいの距離ならば構わないそうだ。
「良かったですぅ。これで、ドリりんをロジェりんの恋人って紹介できますぅ」
「えっ? 恋人?」
「恋人ですぅ」
「ははは」
「笑ってごまかしてもダメなんですぅ!」
「ははははは」
 ――などとやっているうちにフェルマの墓前に着いた。
 両親は三年ほど前に離婚して以来一度も訪れたことはないはずだから、ここに足を運ぶ
のは今では僕だけだ。
 今日はもう一人いるのだけれど、彼女は宙に浮いているのだから『足を運ぶ』と言わな
い。
「さてと」
「お掃除ですぅ」
 僕は持ってきたバイオリンケースを傍らに置くと、彼女と二人で妹の墓の掃除を始めた。
 夏の間に生い茂った雑草は、彼女が仲間の植物の精霊に“お願い”して、あっさりと他
の場所へ移してしまった。
 残った砂ぼこりを綺麗にするのも彼女の声援があれば楽しいものだ。
 去年の僕は、無感情な魔法人形のように、独りで黙々と掃除していたのだから。
「さてと」
「お墓参りですぅ」
 僕は妹の墓前で片膝を付き、彼女の冥福を祈る。
 昨年までは花を手向けていたのだけれど、今年はやめた。
「フェルるん、初めましてですぅ。ドリりんは、ロジェりんの恋人なんですぅ」
 その理由であるドリアードの少女は、妹の墓標に向かって本当に僕の恋人だと自己紹介
している。
 抗議しようかとも思ったのだけれど、僕と彼女は毎晩デートをしているようなものだ。
恋人と報告しても構わないだろう。
 そんな彼女の様子を横目に見ながら、僕はバイオリンの演奏を始めた。
 しばらく前に覚えたばかりの鎮魂曲――《鎮魂》の呪曲。
 この呪曲は物質世界と精神世界の壁を越えて作用する例外だ。《鎮魂》の旋律は霊界に
まで響き渡り、死者の魂に安寧をもたらす。
 少し難しい呪曲だけれど墓参りで弾くには最適の曲だろう。
 この曲が、僕がフェルマの臨終に間に合わなかったことへの償いになれば良いのだけれ
ど。

 僕が病院に駆け付けたとき、妹は既に息を引き取っていた。
 フェルマの病状が悪化したことを何故もっと早く知らせてくれなかったのかと、当時の
僕は泣きながら両親に詰め寄った。
 もちろん両親に罪はない。親として僕に心配を掛けさせたくなかったのだろう。
 僕が涙を流したのはこれが最後だった。
 それ以来、涙を流すほど泣いた覚えはない。

「ロジェりんはとっても元気ですぅ。心配しなくてもだいじょうぶですよぉ」
 僕がバイオリンを弾いている間も、ドリアードの少女は親しげに妹の墓と話している。
 まるで、フェルマがそこにいるかのように。
「えぇっ? フェルるん、もう行っちゃうのですかぁ?」
 まるで、フェルマがそこに……。
「分かりましたぁ。ちゃんとロジェりんに伝えておきますぅ。ドリりんに任せてくださ
い」
 ……おや?
「それじゃあ、もう戻ってきちゃダメですよぉ。さようならですぅ」
 彼女は明後日の方を向いて手を振り始めた。
 僕は鎮魂曲の演奏を中断してそちらに目を向けたけれど、やはり何も見えない。
「……何をしているんだい?」
 奇妙に思った僕は彼女に問いかけた。
 すると、彼女は実にあっさりと答える。
「ドリりん、フェルるんとお話してたんですぅ」
「何だって!?」
 僕は思わず大声を上げてしまった。
「本当ですぅ。そこにユーレイさんのフェルるんがいたんですぅ」
「嘘……じゃないんだね?」
「ドリりん、ウソはつかないですぅ」
 精霊は人間と違って肉体に縛られていない、ずっと霊的な存在だ。亡霊と会話できるこ
ともあるのだろう。
 だが、妹が亡霊になっていたなどと信じたくはない。
 信じたくはないけれど、この少女が面白半分に質の悪い冗談を言う性格じゃないことは
僕も知っている。
 フェルマの亡霊がいたのは事実なのだろう。
「それで、フェルマは? フェルマは、どうなったんだい?」
「お空の上に昇っていきましたぁ。ロジェりんのバイオリンを聞けて、とってもうれしそ
うでしたよぉ」
「それは、天に召された、ということかな?」
「ドリりんは天国とかのこと知りませんけどぉ、そうみたいですぅ」
 彼女はしばし首を傾げて、それから答えた。
「そうかい。それならいいんだ」
「あっ、それで、フェルるんに伝言を頼まれたんですぅ。『何度も来てくれてありがと
う』って、言っていましたぁ」
「ありがとう、か。――君もありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして、ですぅ」
 僕がフェルマの臨終に立ち会えなかったことを悔やんでいたように、フェルマもまた、
僕に看取られることなく死んでしまったことを心残りにしていたのだろうか? 死んでも
死にきれず、亡霊となってしまう程に。
 しかし、妹は満足して僕の元を去っていった。
 僕も、妹の死から卒業する時期が来たのだろうか。


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