精霊の季節


春――翠の瞳の純真(イノセンス)

「ロジェフ先輩……。わたし、先輩のことが……す、す、好き、です」
 ある日の夕方。
 僕は一人の女性から告白を受けた。
「わたしと……わたしとお付き合いして下さい」
 決死の覚悟で言ったのだろう。彼女の声は微かに震えていた。
 それが解ったから、僕は彼女の気持ちに応えられなかった。
「済まないけれど、僕は君と付き合えない」
「どうしてですか? 他に、好きな人がいるんですか?」
「…………」
 真っ直ぐな瞳で訴えかける彼女に、僕は黙って首を左右に振る。
 彼女は魅力的な女性だ。
 性格も申し分ないように思えた。
 同じ人間として好感が持てる。
 けれど、それは恋愛感情とは明らかに異なる種類の好意だ。
「それじゃ、どうして?」
「僕は、女性に余り興味がないんだ」
「そうですか……。やっぱり、噂は本当だったんですね」
 僕が答えると彼女は溜息交じりに呟いた。
「あっ、いや、誤解しないでくれ。男にも興味はないんだよ」
「知っています。ロジェフ先輩は、女嫌いじゃなくて人間嫌いだって」
「……そうか。でも、人間も嫌いじゃないよ。僕も人間だからね」
 僕はバイオリンケースを背負い直しながら言った。
「ただ、個人的に誰かと深く付き合おうという気が起きないだけなんだよ。友人としても、
恋人としても」
「……そうですか」
「それじゃ、さよなら」

 月の明るい良く晴れた晩は、家の近くにある高台の公園でバイオリンの練習をするのが
僕の日課だ。
 バイオリンを練習するために寂れた公園まで足を運ぶ理由は二つある。
 一つは、自宅に防音設備がないこと。
 もう一つは、公園の側にある墓地を見下ろせること。
「さて」
 僕はいつものベンチに腰掛け、使い慣れたバイオリンを取り出した。
 弓を取り、弦の具合を確かめながら、今夜は何の曲にしようかと考える。
 近くに人家がないとはいえ、こんな夜中に《憤怒》や《恐怖》なんて呪曲は弾けない。
「《愉快》、《安堵》、《冷静》、《感傷》……」
 幾つか思い浮かんだ中から、僕は《好奇》の呪曲に決めた。

 一口に魔術と言っても様々な種類がある。
 ルーンで記される呪文を詠唱し空間に満ちる魔力を操る印章魔術。
 神の似姿である人が持つ秘めたる理力を発現・強化した思念魔術。
 僕が習っている旋律魔術は、呪文の代わりに呪曲と呼ばれる旋律を奏でることで効果を
発揮する魔術だ。歌唱魔術や舞踊魔術と同時期に印章魔術から派生した魔術だと言われて
いる。
 曲を聴いた者に特定の感情を呼び起こす向精神魔術だけれど、殺伐とした現代では偽り
の感情でも心を潤すことができるらしく、一般的にはリラクゼーション・ミュージックと
して知られている。一流の呪曲奏者ともなれば、大ホールを埋め尽くすほどの聴衆全てに
歓喜の涙を流させることさえできるのだ。
 もっとも、僕は誰かの心を癒すために呪曲を練習しているわけじゃない。
 僕はきっとバイオリンが好きなのだろう。
 今ここにあるのは僕とバイオリンの二つだけ。他には何もない。
 煩わしい人間関係のように余計な気を使わなくて済む。
 だから、無心になって曲に集中できる。

「……ん?」
 僕は視線を感じて弓を下ろした。
 横手にある茂みの奥から、誰かがこちらを覗いているのだ。
 高台にあるこの公園は、近くに墓地があるためか、日が暮れると滅多に人が来ない。こ
んな場所を好むのは僕と同じ変わり者か、人目を避ける後ろめたい理由のある者だけだろ
う。
「そこに誰かいるのかい?」
 僕は一応身構えて、そちらへ呼び掛けた。
「こ……こんばんはですぅ」
 すると、予想に反して舌足らずな声が返ってきた。
 子供だろうか?
 こんな時間に子供が出歩いていては危ないだろう。保護して家に送り届けてあげなけれ
ば。
「そんなところで何をしているんだい? こっちに来たら?」
「は、はいですぅ」
 声の主は音もなく茂みを掻き分けて僕の前に姿を見せた。
「君は……?」
 現れたのは、草色のワンピースに身を包んだ少女だった。
 暗い中でも鮮やかに映える若葉色の髪と翠玉色の瞳。
 僕と同じ高さに顔があるのは彼女の足が地を離れて浮かんでいるためだ。
 そう。彼女の体は重力を無視するかのように宙に浮いていた。
 そして何より、体が半透明なのはどういうことだろう?
 この子はもしや――
「精霊、なのかい?」
「そうですぅ。ドリアードのドリりんですぅ」
 清らかな水には水の精霊ウンディーネ。
 吹き荒ぶ風には風の精霊シルフィード。
 そして、生きた植物には植物の精霊ドリアードが宿る。
 本来は性別など存在しないはずの精霊がしばしば女性の姿を取っているのは、彼女らが
女神の息吹であるからだ、と言われている。
「どうしてここに? 君は迷い精霊なのかい?」
「そういうことですぅ」
 つい子供を相手にするような声で問い掛けた僕に、彼女は子供が大人ぶるような口調で
答えた。
 自然界の物質や現象に宿る精霊たちは、自然の中で修行を積んだ精霊使いに召喚される
ことで初めて姿を顕す。
 ところが、ごく稀になのだけれど、比較的自我の強い精霊は誰かに召喚されなくとも彷
徨い出てくることがある。
 それが迷い精霊と呼ばれる存在だ。
 迷い精霊は根源的に不安定で、狂い精霊となって大きな災害を起こすこともあるのだけ
れど、彼女は正気を保っているらしい。
「ロジェりんがいつもバイオリンを弾いていているから、ドリりん、お話がしたくなった
んですぅ」
「『ロジェりん』……?」
「ロジェリーフくんだからロジェりんですぅ」
「どうして僕の名前を?」
「だからぁ、いつも見ていたんですぅ」
「僕のことを?」
「ロジェりん、さっきから質問ばっかりでつまんないですぅ。プンプンですぅ」
 迷いドリアードが頬を膨らませた。
「ドリりん、ロジェりんのバイオリンが聴きたいんですぅ」
「あ……ああ、そうか。ごめんよ」
 僕は少し緊張しながら謝った。
 精霊と話をするのはもちろん、実際に目にすることさえ初めてなのだ。魔動工学の発達
で自然破壊が進むこの国では精霊使いの数も少ない。
「どんな曲がいいのかな?」
「それじゃあ、ドリりんのイメージにピッタリの曲をロジェりんに選んでほしいですぅ」
「それは、困ったな……」
 意外とませた子だな――いや、そうじゃない。
 外見も口調も幼い少女のようだけれど、精霊なのだから実際の歳は判らない。
 何を考えているのか、思考形態が人間と同じなのかさえ、解らない。
 精霊は自然に宿る霊的エネルギーが輪郭を得た存在。知性はあっても魂は持っていない
のだ。
 しかし、彼女は翠色の瞳を輝かせて僕の選曲に期待している。
「解ったよ。この曲にしよう」
 僕は《純真》の呪曲を演奏することにして弓を弦に載せた。
 子供の頃の純粋さを思い起こさせる、柔らかに透き通る軽やかな旋律が特徴的な曲だ。
これほど彼女に相応しい曲を僕は他に思い付かない。
 どうやら彼女も満足してくれたらしく、曲に合わせて僕の周りを舞い始めた。
 僕が今でもバイオリンを弾いているのは、ただ純粋に自己満足のためで、他の誰かに聴
いてもらうためじゃなかった。
 けれど、誰かのために演奏するのも悪い気はしなかった。

「ロジェりんのバイオリン、また聴きたいですぅ」
「いいよ。明日もバイオリンを弾いているから、また聴きにおいで」
「はいですぅ」
 これが、僕と彼女の最初の出逢いだった。


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