その日もいつもと同じように帰路を急いでいた。彼女の顔が見えなかった日は、とてつもなく寂しくてなんだか眠れない。そう、彼女はボクの安眠の元でもあった。 「ヨクちゃん!」 自分ちの玄関に入る手前で、呼びかけられて心臓がバクついた。振り返る。彼女だ。 え? 何? 今日はやけに早くない? って言うか、なんか用? 何の用? ほんの一瞬で、頭の中がどうしようもないくらいにパニくる。ボクの驚きの表情を見て、彼女は当惑気味に話を続けた。 「時間ある?」 「え?」 面食らったまま、ボクは、彼女の瞳に吸い込まれそうになった自分を取り戻す。 「時間って……」 「ちょっと頼みたいことがあるんだ」 「う、うん。いいよ」 彼女の言葉に同意した。頼みたいことって何だ? ここじゃ出来ないからと、彼女に誘われるままに、家の近くのドーナツショップに入った。 学校から離れてるところでよかった。こんなところ同級生に見られたら、どんな風に思われるか、わかりゃしない。 「テキトーに買ってくるから、座ってて」 彼女にそう促されて、情けない話、財布なんて持ってなかったから、店の一番奥のふたりがけの席に腰をおろした。その間も視線は、彼女の方に。 どんな頼みごとなんだろう。口を聞いたのなんかどれくらいぶりだろう。別に喧嘩をしてたわけじゃないけれど、学校が違うと会う機会もないし。 生活そのものがすれ違いばかりだから。 彼女が、ドーナツとジュースを載せたトレーを持って、席についた。ボクの目の前。心臓がバクバクと音をたててるのが分かる。でも顔には出さない。 「ヨクちゃん、チョコ好きだったよね」 「子ども扱いして」 つい出た憎まれ口。 「じゃ、いらない?」 「いる」 彼女が自分のほうへ、引き寄せたトレーを奪い返す。それこそ子どもだ。だけど、ボクと彼女には、こういう関係が自然。ヘンに構えると妙になる。 それに彼女が、僕の好みを覚えてくれていた事実だけで、すでに心が弾んでいる。以前と変わらない口調で、話が出来ることの嬉しさも。 “ヨクちゃん” 彼女はボクをそう呼ぶ。翼を音読みしただけの単純なあだ名。 だけどこれは、彼女達、 この呼び方だけは、他の誰にもさせたくない……。 「ねぇ、ヨクちゃん……」 「ん?」 チョコのかかったドーナツを、口にくわえたままのボクは、彼女の真剣なまなざしに息を飲んだ。 「来週の土・日、何か予定入ってる?」 彼女は、思い切ったように、身を乗りだし気味にそう尋ねた。 「ゴホッ!! うぅぅ」 むせた。ドーナツがつまる。彼女は慌てて、ボクにジュースの入ったカップを差し出してきた。それを受け取る指が触れる。 心臓の音が聞こえやしないか、ボクは少し焦りながらも、ゆっくり喉にジュースを流し込んだ。彼女の顔を見た。彼女は、うつむき加減に視線をそらす。 「来週の土日? 今は別に何も予定はないけど? どうした?」 「あぁ、あのね、お兄ちゃんの学校で文化祭があるって。遊びに来ない? って、手紙が来てね」 彼女はボクのほうを見ないで、目の前のドーナツをつついている。 「え? ヤスくん? 連絡あったの?? 今どこに?」 彼女の言葉に驚いたボクは、矢継ぎ早に質問を投げかけていた。彼女は首をすくめて、ちょっと笑ってから、深呼吸をしていた。 「詳しい話は、長くなるんだけど……。とにかく……それ行きたいの。ヨクちゃん、一緒に行ってくれない?」 「うん。別にいいけど、どっちの日? 土曜日? 日曜日?」 「両方。あ、ちょっと待って」 「何?」 両方の日? ボクは彼女の言葉に首をかしげながら、続く彼女の言葉を待つことにした。彼女は口の中で、もごもごとためらいがちに、ボクに尋ねた。 「ヨクちゃん、彼女いる?」 「え?」 何を突然! それでも首を横に振る。だけどこの展開って、ひょっとして続く質問って。 「じゃ……今、好きな人いる??」 やっぱり?? これって、これって、これってさぁ……。ボクはその一瞬で、賭けに出ることにした。 「いるけど」 そう言って、何食わぬ顔でジュースを飲む。彼女の顔が一瞬驚いて、慌てて……そして。 「ごめん、さっきの話、聞かなかったことにして」 「え? なになに?? どうして?」 「いいから。ごめん。先帰るね」 彼女が席を立つ。ボクはちょっとだけ慌てた振りをして、それでも残ったドーナツは、しっかり紙袋に詰めて彼女の後を追った。 |