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ボクらの恋愛事情:最終章
〜記憶〜
 人には、自己防衛本能というものがあって抱えきれない出来事に遭遇すると、自分を守ろうと本能的に記憶を失うことがあるという。
 精神医学的なことは、ボクにはよく分からないけれど、まだ幼かった圭の身に起こったことを考えれば、記憶の欠如も十分理解できた。 仲のよかった弟が、死んでいく姿を目の当たりするだけでも辛い。その上、それが自分の責任だと感じていたとしたら? 耐え切れなくなった圭は深い闇の中で、どんな時間を過ごしたんだろう。
 ベッドに横になった圭の姿を見ながら、ボクは圭が心に受けた傷を考えていた。包帯で巻かれた圭の左手首を、そっと撫でる。圭の父親は、少し離れた場所に腰をおろし 頭を抱えて考え事をしているようだった。真実を告げなかったのは、圭のため。それは親としての優しさ。それを責めることは、誰にも出来ない。
 曖昧な記憶の断片は、重ねる時間によってなお、不確かさを増し、思い出だけが切り取られて残る。別れて暮らす母親と弟の姿は、圭の中にしか存在していなかった。
 救急車の音は、弟を運んだその日の記憶を呼び戻す鍵だったのかもしれない。ゆっくりと開かれるはずの扉は、偶然見つけた手紙で、一気に開いた。 真実を知った圭は、その重さに耐え切れなかったんだろう。色んな物が散乱した部屋は、圭の不安の表れ。 受け入れるには、足りなかったキャパシティー。発作的に切ったらしい手首の傷は、思いの外深く意識も遠のく。 弟だけじゃなく、母親までも死に追いやったと……その事実を知るには、まだ早過ぎた。
 感情が凍りつく。
 圭の弟は、体が弱かった。ボクもその事実は、圭の口から直接聞いていた。いつも一緒にいることが多かった弟。その日は、珍しく友達との約束を優先した圭。止めるのも聞かず、 後を追って来た弟を襲った突然の発作。救急車で運ばれ、そのまま……。圭は、その日から一時的に深い眠りにつく。医学的には、どこにも異常のない眠り。精神的な問題 だろうと話す医師。我が子を一人失った悲しみに浸る間もなく、圭の意識が戻るのを待つ毎日。家と病院の往復で、 精神的にも肉体的にも疲れ切った圭の母親の体を襲う睡魔。そして事故。
 ボクは、手紙にあった言葉と、圭の父親から聞いた事実を重ね合わせる。このまま、自分の母親と弟の法事に出席しないでいるのは、不自然だと問う内容。そろそろ本当のことを 話した方がいいのではないかという手紙。圭の父親も迷っていたに違いない。ボクは、圭の手に軽く触れたまま、父親の方をチラッと見る。苦悩の影。
 ボクに出来ることは何? ここにいることだけ?
 その時、圭の手が微かに動いた。そしてボクの意識に入り込む救急車の音。思わず息を呑んだ。
「……っ!! れい!!」
 圭が目を覚まし、体を起こそうとする。状況を把握できず、息の乱れだけが圭の体を襲い、涙が頬を伝う。
「圭!」
 圭の父親が慌てて駆け寄ったので、 ボクは、圭の視線を受ける前にその場を譲った。
「頼むから、お前まで逝かないでくれ……」
 父親の言葉に、圭が少しだけ落ち着きを取り戻す。それからゆっくり、言葉を吐き出した。
「俺のせいで、怜も母さんも……」
「お前のせいじゃない。誰も悪くない……」
 短い会話の中に、全てが詰まっているような気がした。それ以上、二人とも言葉を続けなかった。
 逝かないで……。それはボクも同じ気持ち。圭の痛みと比べることは 出来ないけれど、失う怖さは痛いほど分かった。
「翼? え? どうして……」
 圭がボクを視界に止めて、体を起こそうとする。
「あ、寝てて」
 圭の父親が、今度はボクに場所をあけてくれて、それから医師のところへ行ってくると言い残して、病室を出て行った。
「ごめん……」
 圭が、小さな声で謝る。ボクは首を横に振った。
「一人で抱え込むなよ。相談するって約束したじゃん……」
 自分でも声が少し上ずっているのが分かる。どんな顔をすればいいのか、分からない。相談する間もなく、襲われた感情が原因だって分かってるけれど。 言葉だけじゃ伝えきれない思いが、ボクの中で渦巻いている。こんなボクでも、圭の支えになれるといいけれど。
「約束……。翼、旅行は? あ、ごめん……どうしよう」
 圭は問いかけてから、自分のせいだと悟り慌てる。
「大丈夫だよ。心配しなくても」
 本当は少し前に思い出していたんだ。由香ちゃんとの約束。もう待ち合わせの時間はとうに過ぎている。だけど、圭が目を覚ますまでは、 どうしても側を離れる気になれなかった。由香ちゃんなら分かってくれる。それはボクのおごりでしかなかったけれど、その時はそう思っていた。
 ボクの言葉に、安心したように圭は、ゆっくりと目を閉じて、呟いた。
「死のうと思ったわけじゃないんだ。気付いたら……自分でも分からないけれど……」
「うん。分かったから……。今はゆっくり休めよ」
 圭の左手を軽く握った。ずっと側にいて。頼れる兄貴でいてよ。そんな思いを抱きながら。




『今、どこ?!』
 ボクが由香ちゃんに連絡を入れたのは、約束の待ち合わせ時間から、半日以上経っていた。 消灯時間も過ぎていたので、病棟ではなく、玄関ロビーの公衆電話から。耳に響いたのは、慎の非難混じりの声。 由香ちゃんの携帯電話は、つながらなかったから。少し迷ったけれど、自宅に電話を入れた。
「あ……病院なんだけど、由香ちゃんいる?」
『もしかして、本当に?』
「え? 何?」
『佐伯さんのところなのか?』
 は? 慎の突拍子のない質問に、ボクは一瞬言葉を失った。
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