夏休みになって、渚はバイトに明け暮れる日々を過ごしていた。
心はざわついたような落ち着かない緊張感を持続していたが、生活的には充実していた。
バイトから帰って来て、夕飯を済ませ、自室に落ち着いた渚の頭に、
港帰に借りていたお金を返すために、連絡を取った日のことがふとよぎった。
「彼女がおったから?」
その日、港帰がそう尋ねてきたので、渚は驚いた。
もう一度、司の所へ行かないのか? と尋ねられて、退院の連絡があるまで待つと言ったとき、
港帰がそう呟いたのだった。それを聞いて、渚は凪のことを司の彼女だと勘違いしていて、
司が渚の思っている人だと勘違いしているのだと思った。単純に。
「斎木さんやのうて、あいつなんやろ? 帰りにロビーで一緒になった背の高い」
「え? 真島君?」
「まぁ、喋りたないんやったら、俺は無理には聞かんけど。中川には聞いてもろてもええんちゃう?
あいつ、メチャ、心配しよるで。城山が元気ないて……。気持ち吐き出すんも、時には必要ちゃうか?」
港帰が言った言葉は、渚の不安ややりきれなさを軽くしていた。ルミに話すきっかけをつかめずにいた自分。
高校時代にも結局明かさなかった思い。聞いてもらえるだけで楽になること。
求めるなんて出来ないと、ずっと思っていた。
誰かに頼ることがひどく卑怯なことだと思っていた。
あの日の夜、ルミに全てを打ち明けた。転校前に、付き合っていた司のこと。
自分の家庭環境のこと。響と司の関係。そして、自分自身の偽らざる気持ち。
切ないのと、話してくれたことが嬉しかったのと……そのふたつの思いからルミは涙を流した。
渚にはそれが単純に嬉しかった。
ベッドに腰をおろして、机の上の《星の砂》を手にとった。
あれから、まだ司の退院の連絡はない。どうしているのだろう。
不安になると同時に司の言葉が、ずしりと重くのしかかる。耳たぶのピアスに触れる。
結局、背中を押してもらうまで何も出来ない自分。響のことを思っていながら、司に甘える自分。
自責の念が、時折押し寄せてくる。
携帯電話がなった。画面に忘れかけた電話番号。これは……。
「はい」
通話ボタンを押して答える。
『斎木だけど』
やっぱり
『今日、退院したよ。まだしばらくリハビリに通わなくちゃならないけどね』
司の声は明るい。声を聞いて安心した渚は、返す言葉もなく司の話にうなずいた。
『誕生日おめでとう』
「え?」
携帯電話を持ったまま、渚はうつむいていた顔をあげた。
『なんだ、忘れてたの? 自分の誕生日』
耳元に届く優しい言葉。あの頃と同じ、いや、それ以上に大きな存在。
『プレゼント、まだ届かない?』
「え?」
司の言葉から、なにか届けてくれたらしいと察した時、玄関のチャイムが鳴った。
宅配便だろうか? そんな思いで渚が部屋を出ると、ダイニングキッチンというには、少し狭いスペースである
そこには
まだルミの姿があり、食卓の椅子に腰を掛けてTVを見ていた。玄関のチャイムにもなぜか無反応。
もう一度、玄関のチャイムが鳴る。受話器の向こうで、その音を聞いた司は安心した声で言った。
『あ、着いたみたいだな。それじゃ、俺の役目はこれでおしまい。じゃーな』
「え? 司? もしもし」
電話は切れた。玄関のチャイムが急かすように再び鳴る。ルミは相変わらず、食卓に着いたままで動こうとしない。
「はい」
玄関口に向かって渚が返事をした。
宅配便だろうと覗き窓を見た渚の目に、意外な人物が映って、慌てて鍵を開けドアを開いた。
「響くん……」
「遅くにすいません。これ持って、ちょっと出られへん?」
そう言って、響が目の高さに持ち上げたのは《星の砂》だった。
受話器を置いた司は、ホッとしたような気持ちと、どこか急激に寂しくなる気持ちを抱えていた。
「響、着きました?」
「あぁ、たった今」
旭の問い掛けに、司は振り向いた。
「ここまでお膳立てしなくちゃ動けないなんて、響も頼りないわね」
鼻で笑ったのは、凪だった。強がりも少し混じっていた。司が頬を緩める。
「やっと何とか落ち着きそうだな……」
片足を少し引きずりながら居間に戻ってきた司に、太一がそう声を掛けた。それを受けて司が続ける。
「あぁ……。心が還るべき場所にやっと落ち着いたな。あの二人は片翼のない飛行機と同じだから。
お互いが心の傷を埋めあって、一緒にいなきゃ強くなれない。飛ぶことが出来ないのさ」
司の二人への思いが詰まった言葉に、一同は息を飲んで黙り込んだ。
司の退院祝いに、駆け付けていた。太一も凪も旭も……。
「なんか今のカッコよくね? 俺って文才あるかも」
「あぁ、その言葉さえなければね」
太一がツッコミを入れる。それが、司の照れ隠しだと理解した上で。まわりに温かい空気が流れる。
「やっぱ、斎木先輩ってカッコいいな……」
旭が、ポツッと言った台詞。
「えぇ〜? 兄ちゃんが? 旭先輩買いかぶりすぎ〜イテッ」
弟が大袈裟に反論したのを、司が小突く。
「まぁまぁまぁ、その話は置いといて」
「凪ちゃんまでぇ〜」
司が泣き真似をする。和やかな雰囲気に包まれていた。司も凪も痛い気持ちを解きほぐしていった。
アパートから少し歩いたところにある公園のベンチに、響と渚は並んで腰をおろしていた。
出てくる前、ルミは渚に軽くエールを送った。響がこっちに来ることになっていることを、事前に知っていたようだった。
ベンチに座ったまま、どちらからどんな言葉をかければいいのか、二人とも押し黙ってしまった。
「司、退院したんだね」
渚が先に口を開く。心臓の鼓動が、聞こえるんじゃないかと思うくらい静かな場所。
「うん……。ほんまによかった」
響の言葉の奥に、どんな意味がこめられているのか、渚は全てを分かっているわけではなかったが。
「俺……」
何とか次の言葉を、自分の思いを伝えようと、響が重い口を開く。
「……」
渚は、響の横顔にそっと視線を移した。
「響くん、どうしたのそれ?」
響の唇の左端が切れていて、少しだけあざになっていた。
「あぁ、これ? 司さんに……。俺がぐずぐずしよるから、さすがに切れてもた」
「司が?」
温和な司が手をあげるなんて、よほどのことだと渚は顔をしかめた。
「あの後、渚さんが帰ってすぐに、ここの連絡先も聞いてたんや。けど、連絡できへんかった……。
ほんまはすぐにでも渚さんに会いたかったけど。今日、退院の知らせ聞いて、病院行って、
まだ、渚さんに連絡とってないって言うたら、殴られた。“今日が何の日か忘れたなんて言わせない”って」
渚は、響の告白を聞きながら、溢れそうな涙を必死に抑えた。掌の中で、《星の砂》を転がす。
響はおもむろにベンチから立ち上がり、空を見上げた。
「ここらへんは、星も結構あるんや……」
渚も空を見上げた。立ち上がり、響の側に立った。
「これ、誕生日のプレゼント。何がええかよう分からんから……。大したもんやないけど」
思いがけないプレゼントに渚は驚きながら、それを手にとった。細長い箱。
開けてみてと促され、それを開く。そこには、星のトップがついたネックレスがおさまっていた。
「かわいい……」
「今、つけてもらえる?」
「じゃ、お願いしていい?」
響にそれを渡して、首につけてもらった。自分でつけることも出来たと思う。それでも、今はそうしたかった。
響に触れられることは、心地よい緊張。もう、あの心の傷はそれだけで癒される。
響が慣れぬ手つきで、それをつけ終えると、背中越しに渚を抱き締める。
「ごめん……。あん時、ちゃんと言えんで……。渚さんのこと……好きや」
響の声が、頭の中でぐるぐる回る。渚は響の腕の中で、体が熱くなるのを感じていた。体の向きを変えた。
向かい合って、渚は《星の砂》を掲げた。響が自分のものと重ね合わせる。
「ありがとう。私も響くんのこと……ずっと前から好き……」
渚の言葉を受け止めた響は、思いのたけをぶつけるように唇を寄せた。
渚の右手と響の左手の中でふたつの《星の砂》が、やっとめぐり合えた。
『な、渚ちゃん、言うた通り、兄ちゃんはめっちゃカッコいいやろ?』
渚の耳に柾の声が届いた気がした。星が二人の頭上を流れる。
想いは、届いた。ふたりの手の中で……。渚の耳元で……。首元で……。
〜FIN〜
この物語はフィクションであり、登場人物、その他は全て架空のものです