ふたりきりになった病室の窓からは、昨日の雨が嘘のように久しぶりの青空が見えていた。
何から話せばいいのか、渚は口ごもる。 「こっち、来て」 入り口付近で突っ立ったままの渚に司が話し掛けた。 渚はゆっくりと、司のベッド脇に近付いた。 顔を見ただけで、もう涙が出てきそうだった。昨日の夜、意識のない司を見たときの思いが脳裏を駆け巡っていた。 「そんな顔すんなよ。ごめんな、心配かけて」 ベッドは少し背もたれを起こしていたけれど、点滴を続けた姿でほとんど寝ているのと変わらない状態の司が呟く。 渚は、司のベッドの側にある椅子に腰をおろしたが、ただ司の放つ言葉にうなずくことしか出来ずにいた。 「髪切ったんだ……。それ、つけてくれてるんだ」 司の指が、渚の耳元を示す。あの夏。司が誕生日プレゼントに贈った星をかたどったピアス。 懐かしさと、切なさと、どうしようもない後悔が司の胸に去来する。司は次の言葉を明るく口にした。 「響と話した?」 首を横に振る渚の顔が、強張る。司は渚の手を軽く捕まえると、意を決したように語り始めた。 「渚は……今でも響のこと好きなんだろ?」 態度を見ただけでそれは歴然だった。司の言葉にとげはない。渚は答えに戸惑った。 響のことが好きだという気持ちは、司に直接伝えたものでもないし、あの夏のことを司は知らないはず。 「つい最近、知ったんだ。三年前のこと。響に会いに行ってたんだな」 渚は、少し顔を上げたが、司の顔をまともに見ることが出来なかった。 「響もさ……渚と同じ気持ちだったのに。気付いてやれなくて」 司が、あの頃の響の気持ちを知ったところで、それ以上何ができるというのだろう。 求めることなんて出来ない。別の道をもう歩き出しているのだから。渚の中のその感情を司が察知する。 「そっか、昨日、一緒だったんだ」 目覚めた時、ICUの中から見えていた顔ぶれを司は思い出す。響が別れ話をしたはずの昨日。 響の隣には凪がいた。どういう展開になっていたのか、分からないけれど、響の気持ちは確実。 「彼女の名前、凪って言うんだ」 司の言葉に渚が顔をあげる。渚の目を見つめて、不安を取り除くように司がうなずいた。それだけで、渚には十分だった。 「凪ちゃんを傷つけたことは、俺にも責任があると思う。あのまま付き合い続けてもあの二人は平行線をたどるだけ……。 きっと響は、けじめをつけてたはずなんだ」 経緯は分からない。司自身にも。 まして渚には、何が起こっていたのか知るよしもなかったのだが、司の言葉に重みを感じた。 司の中にある確信は、付き合ってきた年数がそうさせるのだろう。 渚は、司と響が築いてきた友情をそこに見ていた。 自然と涙がこぼれ落ちる。失った時間は、計り知れない重みを持っているけれど、取り戻す術もない。 あの時の選択は、自分が出した答え。誰のせいでもない。 「ごめんな……。それ買ったときには、決心してたのに」 司が、渚の頬を伝う涙を軽く指でなでて、耳元のピアスに触れた。渚の体は、少し緊張していたが、 あの頃感じていた拒絶感は、姿を隠していた。渚の選択は、正しかったのだろうけれど、司は自分を責める。 渚は、耳のピアスを自分の指で確認する。小さな星。どこかで……。 「《星の砂》……」 渚の中ではじけた思いが口に出る。響との思い出が強い《星の砂》。そして、司が星型のピアスを選んだわけ。 「渚の気持ちは分かってたのに……。背中押してやれなくてごめん。あの頃はまだガキだったな……」 司の想いが痛い。渚の瞳からは、止まることなく涙が溢れ落ちる。 「こんな風にでも、会えてよかった。俺の声聞こえたのかな?」 渚の頬に手を当てながら、司が微笑む。渚は昨日、誰かに呼ばれた気がしたことを思い出していた。あの時間。 「うん」 「ん?」 「聞こえたよ……。司の声、確かに」 司は、少し驚いた顔を見せたけれど、渚の言葉に黙ってうなずいた。 「いつも自分の気持ちに正直でいていいんだからな」 その言葉を口にして、司は目を閉じた。渚の頬に触れた手が、重力で戻される。 「司? ……司?」 渚の呼びかけに、しばらく反応がない。渚の頭に最悪の結末が、一瞬浮かんだ。 「大丈夫。ちょっと疲れただけだから……」 司の声に、軽く安堵してから、渚はそっとその場を離れた。司の気持ちが痛いほどに伝わっていたから。 渚が去った病室で、司はゆっくりと目を開けると、天井に向かって右手を伸ばした。 指の先から、流れ出す。 嫉妬心、独占欲、猜疑心……。あらゆる醜い感情が、今、浄化する。 病室を出て、これから先どうすればいいのか、渚は自分でも量りかねていた。結局、いつも司に頼っている自分。 この一歩も、どう踏み出していいのか分からない。 一階のロビーに来ると、司の母親が太一と話しているのが見えた。 渚に気付くと、司の母親が近寄る。 「渚ちゃん、もういいの?」 「疲れてるみたいだから。……また来ます」 「あぁ、いいのよ。大丈夫。退院したら連絡するわ」 司の母親は、少し寂しげに笑って、渚に連絡先を尋ねた。渚は、司の母親の真意を捉えられなかった。 「強いからね。大丈夫よ、心配しないでね」 懐かしい笑顔が、渚の気持ちをやわらかく包み込む。司の母親が渚の側を離れてから、太一が近付く。 打ち合わせでもしていたかのように。 「城山、司の気持ち汲んでやってくれよな。あいつ、城山が幸せにならない限り、前に進めそうにないし」 「小澤くん……。だけど」 「この再会は運命だと思うんだ。司は、城山のことはもちろんだけど、若宮のことも本当に大事にしてるから」 太一の言葉が、渚の心のバリアを解放する。自分勝手な解釈で司をこれからも苦しめ続けるんじゃないかという思い。 司の気持ちが、飾りだけの見せ掛けじゃないと信じたかった、その確証が欲しかった。 「退院する頃には、きっと、落ち着いてると思うから」 太一は渚の肩を軽く叩いてから、司の母親を追いかけるように去っていった。だから、今はそっとしておいて……。 司の母親の気持ちがようやくつかめる。司の周りは、温かい同じ空気が流れている。呼吸を整える。 今は司の回復を待つ。体だけではなく心も。傷つけた痛みを胸に刻み込み、渚は病院を後にした。 六月下旬、ようやく見えた梅雨の晴れ間に、空を見上げる。木々に残った水滴に太陽の光が反射していた。
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