アパートを出たときに、降り出していた雨は段々強さを増していく。
渚の説明を聞いて、カーナビを頼りに港帰は視界の悪い道に車を走らせていた。
助手席に座った渚は、いまだに放心状態で、港帰は渚が胸に秘めている思いを垣間見ていた。 やがて、渚にとって懐かしい風景が流れ出す。司が搬送された病院を探しだし、車を止めた。 足元のおぼつかない渚を軽く支えるようにして、港帰も歩を進める。 夜間専用出入口から入った院内は、薄暗く生気のない感じが、不気味に肌を包むような気がした。 「渚ちゃん?」 そう声をかけられて、渚は飛び上がるほど驚いた。 「あ、やっぱ、渚ちゃんだ。もしかして兄ちゃんのところへ?」 声の主は持っていた紙コップをゴミ箱に入れてから、問い掛けてきた。 渚が知っている頃の司と、同じ年に成長した弟の一人だった。 いつの間にか声が、司のそれとよく似た音を出していた。 「司は? 司は大丈夫なの?」 我に返った渚は、慌てて弟に詰め寄った。 「まだ、ICU(集中治療室)だけど……」 弟の声のトーンが低くなる。全身の力が抜け倒れそうになった渚を、港帰が側で支える。 「彼氏?」 渚ではなく、直接港帰に問い掛ける。港帰は首を横に振り、たまたま居合わせた高校時代の同級生だと告げた。 司の弟は少し安堵した顔を見せ、渚を司がいるICUへと導いた。 ICUの扉の向こうには、限られた人だけが入れるスペースがあり、港帰を残して渚は促されるまま歩を進めた。 重い扉を抜けるとガラス越しに中の様子が伺えた。 渚にとってかけがえのない存在だった司は、その中で静かに横になり酸素マスクをつけ、点滴を受けていた。 現実のものとは思えなくて、そこにただ立ち尽くすしかなかった。鼓動が早まる。息が苦しい。 「渚ちゃん、来てくれたのね」 司の母親の声に、その場の空気が一瞬張り詰めたが、渚はそれに気づいてはいなかった。 司の母親の懐かしい顔には、いつも見ていた笑顔はなく、疲労の色が隠せない。 渚の不安が増大する。 「ニュース見て……。いても立ってもいられなくて」 ポツリと言葉を漏らした時、渚は初めて司の前に立っている自分以外の人間を確認した。 司の両親と双子の弟たち。そして……まだ二人。 非常識にも渚の胸は別の痛みを伴った。響がいた。渚の知らない女の子がその隣にいた。 直感。司ではなく、響の彼女なのだと。 「渚ちゃん? 外出てる?」 司の弟が、顔色のすぐれない渚に尋ねた。渚は司の方をもう一度見てから、祈るような想いを残して、 自分の中の身勝手な感情を殺してそこを離れた。 渚が出て行った扉の向こう側で、響もまた自分の中に急激に沸きあがった想いを取り払うのに必死だった。 数時間前、別れ話をしたばかりの凪がバイトの終わる直前にコンビニにやってきた時は戸惑った。 凪の口から司の事を聞き、そのままここへ駆けつけた。 あんな風に司と喧嘩別れをしたまま、終わりになるなんて耐えられない。 そんな思いを抱えて病院に着いてから、すでに五時間以上過ぎていた。 こんな展開は、許容範囲を超えている。心臓が悲鳴をあげそうだった。 響の隣で凪は、その感情を敏感に感じ取り、響の想いの深さを初めて認識していた。 ICUの外へ出た渚の目に、まだ真新しい新聞を読んでいる港帰の姿がうつった。 司のことが書いてある記事は、思いのほか小さく、詳細はあまり分からない。 高校生数名が同級生一人に暴力をふるっていたのを通りがかった司らが止めに入ったらしい。 それが気に入らなかったのか、ナイフで脅しをかけてきたようだった。 ナイフ所持を咎められてさらに立腹した高校生ともみ合いになり、左大腿部を刺されたと。 記事を読んで、渚は司が一人でなかったことを知った。そこへ港帰の声が耳に入る。 「城山? あの、向こうにおるの知り合いちゃう?」 港帰が示した先に、一人の青年が頭を抱えたまま座り込んでいた。 その手にも、服にも、はっきりとくすんだ血のあとが見てとれた。 顔をあげて、首を振る……。そして再び同じ姿勢に。 「あ、小澤くん……。ごめん、ちょっと行ってくる」 「あぁ」 港帰から離れた渚は、太一の前に立ち、声をかけた。 高校時代の同じクラスだったときにさえ、そんなことはしなかったけれど。 「小澤くん……」 太一は声を聞いて、肩をビクッと震わせゆっくりと渚の顔を見上げた。一瞬、意外そうな顔をした後で顔をゆがめた。 「城山……。司が……」 それ以上、声が続かない。太一は、自分の感情を押さえきれず、目頭を抑えた。 「大丈夫。信じてて。司は、そんなに簡単に逝ったりしない……。逝かせないから」 渚がその言葉を放った時、ICUの扉が勢いよく開いた。 「たいっちゃん! 渚ちゃん! 兄ちゃんが!」 弟の声に、太一が立ち上がる。渚と共に、駆け込んだ。 「司……」 母親の声が、涙で詰まる。ガラスの向こうの司の左手が、微かに動いたのが渚の目にも分かった。 医師が司に問い掛けるのが見える。司はその言葉に、確かに反応していた。 「よかった……」 太一が、安堵の言葉を漏らす。 医師の言葉を聞いて、司がわずかにガラスの方に顔を向けた。 口々に息子である、兄である、友人である自分に声をかけている様子を司はガラス越しに、ゆっくり確認していた。 そして、左手を軽く上げてそれに応えた。
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