そんなことを考えていた司の脳裏に、突然、降って沸いたように凪の言葉の端々が流れ込んできた。
“ちっとも優しくないし”
“バイトのほうが大事みたいで”
“《星の砂》知ってます?”
“ちょっと触ったら、すんごく怒られちゃって”
“時々ね……。すごく優しく名前を呼ぶの”
バラバラになっていた言葉のパズルが、当てはまっていく。
渚だけじゃなかった。心のどこかで、あったはずの疑問。高校時代に聞いた早百合の言葉を思い出す。
響も苦しんでいたんだろうか? 自分と同じように、いや、それ以上に。
言葉の続きが出てこない響の鼓動が聞こえるような気がした。切なさと苛立ちが交錯する。司は、
止められない感情を形にする。
「凪ちゃんに優しくなれないのは、愛情がないから? 《星の砂》に触られたくないのは、渚との思い出も詰まってるから?
……凪ちゃんと付き合うことにしたのは……名前が似てたから?」
司の吐き出した言葉は響の胸を締め付けた。そのどれもが当てはまっていて、自分のしてきたことの愚かさを知る。
「何にも答えられないってことは図星なんだな」
司は響に背を向けたまま、深呼吸をして膝に乗せたままの腕で頭を抱え込んだ。
「司さん……。俺」
何か言おうとしても、その言葉はすべて虚飾でしかない。続く言葉は見当たらない。
「言い訳はいいよ。ただ、こんなこと俺の口から凪ちゃんには言えない。
これ以上付き合ってても、お互い苦しいだけだろ? ……後は、自分で何とかしろ」
司はそう吐き捨てて、おもむろに立ち上がり目の前のドアから外へ出た。響の顔を見ることもなく。
ドアを閉め、一度背中をドアにどんとぶつけてから、その場を去った。
中で聞いていた響の顔が歪む。
手にした渚の傘を見つめながら、ぐらぐらに崩れ出した気持ちを立て直すのが精一杯だった。
響の部屋を去った司の上に、細かな雨の粒が降りかかる。激しい自己嫌悪に襲われながら、駅までの道を歩いた。
やわらかくすべてを濡らしていく雨が、自分の醜い心も洗い流してくれればいいのに……。そんなことを考えながら。
こんな風に響の心の奥を知るなんて。今まで封印してきた響の気持ちを思うと、やりきれなさでいっぱいになった。
自分がそうさせたんだ。渚だけじゃなく響の心まで苦しめていた。なのに、責めることしか出来ないなんて……。
駅のホームに一人。まっすぐ帰る気分になれず、結局その夜、司は最終電車も見送って割増のタクシーで帰路についた。
次の日から、昼食を一緒にとることはなくなった。お互いが、避けていた。避けざるをえなかった。
凪は少し響と一緒にいられる時間が増えたことに、司の配慮かとも思っていたのだが、
響の変わらない態度に何となく嫌な予感を感じずにはいられなかった。
どこへ行き着くともない思いを抱えたまま、響は凪との関係をどう断ち切ればいいのか悩んでいた。
“自分で何とかしろ”と言った、司の言い分はもっともだ。
そんな風に日常は過ぎていき、梅雨の季節を迎えていた。平年より少し遅かった梅雨入りは、
入ってからというもの中休みも忘れたかのように、ほぼ毎日、雨を降らせていた。
湿った空気は今の気分そのもののようで、喫茶店に入ってから、お互いまだ注文する以外の言葉を発していなかった。
テーブルをはさんで、響と凪。運ばれてきたコーヒーとカフェオレには、一度も口をつけずにただ黙り込んでいた。
そんな沈黙を破ったのは、凪だった。
「話したいことって?」
確かにそう言って、響の方が呼び出した。心を決めたというのなら、先に切り出すべきなのだろうが、
響は凪の問いかけにも微かに視線を上げただけで、溜め息をついた。
「こういう空気って、必ず別れ話なんだよね……」
凪の苛立ちに似た呟きが、響の耳をかすめる。
「響? あの夜、司さんとどんな話をしたの?」
「ん……」
「あの次の日からだよね? 全然、話さなくなったの。私のためじゃなくて。避けてるよね? 司さん」
凪の言葉が、胸に刺さる。気持ちを悟られてから、司が自分を避けていることは理解していたし、
言い訳が出来るわけでもなかった。いまだに続いている凪との関係を、どんな風に見ているのかと思うと、
それだけで居たたまれなくなる。なんて……自分勝手なんだと自己嫌悪。
繰り返す日常を打破すべく、こうして自分から呼び出してみたのに、それを告げる勇気がない。
都合のよいことばかりが響の脳裏をかすめ、傷つけたくないと思いながら結局、
自分が傷つきたくないのだと……感じていた。
「話してよ。黙り込んでても何にも見えてこないよ。それとも」
凪が言葉を切る。自分の中で肯定したくない気持ちを、押し出すのをためらっているように。
「私が愛想をつかして、別れを切り出すのを待ってるの?」
自分の言葉に、顔をわずかにあげた響を見て、凪はそれを悟る。
「あたりだね」
凪が背中を椅子に預ける。自分の気持ちを持て余して、溜め息をつく。
「半端に優しくしないでね。司さんから話は聞いたから。というか……聞き出して知ってたから。
だから、ちゃんと振ってよ。気持ち切り替えたいの。身を引く女なんかやらないからね」
凪の言葉は、抑揚もなく淡々と続いていった。響にとっては、司の存在の大きさを改めて知る言葉。
「……ごめん。他に好きな人おる」
「うん。だから?」
「別れて」
「……好きな人って誰?」
知っているはずの質問をする凪の目には、かすかに涙が浮かんでいた。
響は戸惑いを隠せないように、言葉を飲み込む。
「優しさなんかいらないから。ちゃんと響の口から言ってよっ」
はじめて凪の口調が荒くなって、周りにいた客が少し視線を動かしたのが分かった。
「司さんと……付き合ってた人」
響の中では、やはり名前を出すのをためらっていた。
「名前、教えて。……下の名前」
響の肩がビクッと一瞬震えた。凪は息を飲んで、響が返す言葉を待った。
「……なぎ……さ……さん」
ガタッと、凪が席を立った。右手に持った水の入ったガラスコップが、勢いよく振られる。
周りのざわめきが、店内に少しだけ響いて消えた。凪はそのまま店を出て行った。
響は、水に濡れた頬を左手で二回叩くと、両手で髪をかき上げ、天井を仰いだ。
周囲の小声の噂話も気にならなかった。ただ、自分の愚かさだけが身に沁みていた。
講義のない午後の気だるい時間帯を、学食でコーヒーを飲みながら読書をして過ごす。
肩に軽くかかる程度の髪は、シャギーを入れて、軽い感じだ。彼女がかき上げた耳元に星型のピアスが光る。
「あ、いたいた」
彼女の側に近付いた女生徒が、やっと見つけたとばかりに声を出す。
「あぁ、ルミ。捜してたの?」
「そう、捜してたのよ。お願いがあるんだけど?」
「何?」
「今日の合コン! 出てくれない??」
「あのねぇ」
「分かってる。渚が合コンには出ないっていうのは、分かってるんだけどね。人数が足りないのよ」
彼女―――渚の隣に腰を下ろしたルミは、哀願するように渚の顔色を伺った。こういうことは本当に珍しかった。
高校時代に出会って以来、付き合い続けているルミは、渚の性格を十分理解していたし、ルミ自身も
どちらかが我慢をするような関係は嫌いで、無理を申し出るようなことは過去に数える程しかないのだ。
「今回だけだよ」
渚が諦めたように、読んでいた文庫本をパタンを閉じると、ルミは感謝の言葉を態度で表現した。
「ちょっと……」
渚は頬を緩めて、抱きつく親友をたしなめた。これでも随分成長したと渚は思っていた。
母親が、精神的に落ち着いて幸せな時間を過ごしているのを見てきて、自分の気持ちもやわらかくなったし、
人に触れられることへの恐怖心も、あの時から、随分感じなくなっていた。
あの時……。
響の心がつまっていたあの瞬間。変わらぬ想いに何度も気持ちをかき乱されながら、叶うことのない恋心を閉じ込めてきた。
大学を東京近郊に決めたことは、偶然か運命か。
会えるはずはないと思っていても、どこかでまだ期待している自分がいた。
右耳のピアスを軽くなでて、自分の気持ちを落ち着けた。
「それじゃ、また後でね」
ルミが忙しそうにかけていく後姿を見送って、渚は再び文庫本を開いた。
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