痛みがいつか柔らかな思い出になりえるのだろうか? まだ、そういう心境とは程遠い記憶。
あの夏。失ったままの心。募る思いが、《星の砂》という単語で、胸を刺すように蘇る。
「……さん、司さんってば」
「あぁ……。ごめん。何?」
凪が心配そうに見つめているのに気付くと、心にカギをかけた。
「響、私の話とか、したりします?」
さっき、考えていたことが重なる。凪の話。響の口から聞いたことがない。
「あのさ、そういうことはベラベラ話さないって方が、信頼できるもんじゃないかな?」
「あぁ、うん。そっか」
凪は、何となくその言葉に納得したように、うなずいた。
「時々……」
凪が口ごもる。司は笑顔で、眉を軽くあげる。「どうしたの?」と聞き返すように。
「響が時々ね……。すごく優しく名前を呼ぶの。
いい雰囲気になるんだけど……結局、キスだけで終わっちゃう」
凪の告白に、司は頬を赤らめて次に掛ける言葉を探した。
「今日、ちょっと行ってみるよ。響のとこ」
「あ、でも」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのやら、凪が不安そうな声をあげる。
「今のは、言わないから」
司が笑顔を返すと、ほっとした表情で凪は頭をさげた。それから相談にのってもらったことに礼を言うと、
先に教室から出て行った。司は一人になった教室で、どんな風に響に話そうかとあれこれ考えた。
響のバイト先に行って、そこからどこかに行こうかとも考えていたが、ゆっくり話せるほうがいいと思い、
響がバイトから帰って一息つく頃にアパートを訪ねることにした。午後十時過ぎ。大学へ行くのと同じ電車に乗り、
アパート近くのコンビニで少し買い物をしてから、響の部屋を訪ねた。そこへ行くのは、引越しを手伝って以来のこと。
大学構内では、学食を利用することが多くなった。響とは大体、一日に一度は顔をあわせていた。
あまりいい響きとはいえないドアホンが鳴ったのは、そこへ越してきて、あまりないことだった。響は畳から腰をあげた。
「はい」
ドア付近まで行って、返事をする。覗き穴を覗く前にその声は聞こえた。
「斎木だけど」
その声に、響は慌ててカギを開ける。司は、電話にしても家を訪ねる時にしても、必ず苗字を名乗る。
そこがまた司のいいところであり、響が特に信用を置いている部分だった。
「遅くに悪いな。ちょっといい?」
「どないしたん? 珍しい」
「ほい! 差し入れ」
コンビニの袋を差し出して、司が笑う。つられて響も頬を緩め、袋を受け取った。
缶コーヒーが二本と新製品のスナック菓子が入っていた。
響は司を招きいれながら、雑然と広げられた雑誌を片付けた。司の目に入ったのは、求人情報誌。
「何? 仕事? 探してんの?」
「あぁ、これ? バイトもう一つ、増やそか思て」
居間―――と言っても、アパート自体広くないので、部屋は台所以外はそこだけなのだが。居間に腰を下ろして、
司は一つ軽い溜め息をついた。視線を机の上の《星の砂》に軽く動かす。
「あんま、無理すんなよ。……というか、凪ちゃんと会う時間とかあんの?」
「……大学で毎日おうてるし」
「じゃなくて、今日来たのはさ」
「ん?」
響は、小さなテーブルをはさんで司の前に腰を下ろすと、続きの言葉を聞き返した。
「あぁ、実はな。凪ちゃんが……。最近というか、う〜ん」
響が袋から出して、差し出した缶コーヒーを受け取って、そのプルトップをいじりながら司が口ごもる。
伝えようとする気持ちはあるのだが、どういう風に言えばいいのか、まとまりきっていなかった。
「凪が? また、なんかヘンな事言うてんの?」
「ヘンなことってことはないよ。響が冷たいって、心配してたから。響、そういう話は俺にしないし。気になって」
響の頬が、少しピクッと動いた。司は、それには気付かなかった。
「別に。俺、そういうの苦手やから……。なんていうか、イチャイチャした関係っていうのか、そういうの出来へん」
「あぁ。まぁ分からなくはないけど」
司はコーヒーを開けて、一口飲んだ。テーブルの上に置かれた雑誌をペラペラとめくる。
「どんな仕事?」
「ん? あぁ……。時間の融通が利くのがいいかとおもて。なかなか思うようなんはあらへんわ」
「女ってのはさ……。俺もよく分かんないけど、ほんのちょっとのことで、嬉しかったりするみたいだし、
もうちょっと凪ちゃんの気持ちも汲んでやれば?」
意図的に突飛な発言をした司は、自分の台詞に苦虫を噛み潰したような表情を付け加えた。付き合った経験は渚とだけ。
そんな自分が吐き出す言葉が、白々しく思えて顔に出た。
司の気持ちの奥底までは分からなかった響も、その言葉に軽くうなずいた。
今のままの曖昧な関係で、凪が満足できるほどもう子どもではないことを、響も十分理解していた。
ただ、自分の気持ちが前に進めない。どうしても、重ねてしまう。長い髪が好きだと言った自分の言葉を信じて、
伸ばし始めた凪の髪に、渚を見ている。声に出して呼ぶ名前も。抱き締めた時の感触さえも……。
「一本、いい?」
わだかまりを抱えて、黙り込む響に、司がタバコを吸ってもいいかと問う。響は首を縦に振った。
司はポケットから携帯灰皿を出して、窓際に行き少し窓を開けた場所で、タバコに火をつけた。
白い煙が、闇に消えていく。
「ここ、本当にいいよな。大学も近いし。コンビニも」
「あぁ」
今まで聞いたことはなかったけれど、あの時、司は渚とどんな別れをしたんだろう。
堂堂巡りになるだけのこの疑問が、響の脳裏に蘇る。
「あれ?」
タバコをくわえなおして、司が少し身を乗り出した。
「え?」
「雨降ってる」
司の言葉に、響も少し窓際に身を寄せた。暗闇の中、霧雨のような……。それよりももっと細かい粒が、確かに
そこを落ちていくのが分かった。目を凝らしてみないと分からない程度の雨だったのだが。
「……」
タバコを手許の灰皿に押し込んでから、司は玄関をゆっくり見た。別に深く考えたわけでもなく。
「貸してもらえる傘ある?」
傘立てに視線を移す。響が、一瞬息を飲んだ。言葉を探す前に、司は傘立てに駆け寄っていた。
響には、その行動の意味がすぐには分からなかった。渚から受け取ったあの濃いグリーンの傘。確かにそれはそこにある。
隠しておいて、いつか凪に見つかり詮索されるより安全だと考えて、そこに置いていた。
分かるはずなんてない。どこにでもあるような物。特別に変わった傘でもない、と思っていた。
「どうして? これ」
司は、その濃いグリーンの傘を持って、響の方に振り返った。
「え?」
響は、変な素振りを見せないように、司の問いの根拠を探った。
「これ……。渚のだ。何でこれがここにあるんだ?」
「渚さんの? あぁ、同じもんってこと?」
ふたりの間で、渚の名前が出たのは、あの夏以来。それだけ、お互いがひた隠しにしてきた心の傷だった。
とぼけた調子の響に、司は少しイラ立った様子で、響に向かって傘を投げた。
「なんやねん、放ることないやろ?」
「……どうして、隠すんだよ。それ、渚の傘だろ? 響は気付いてないと思うけど」
司の確信を持った口調に、響は顔色を変える。
「それ、よく見てみろよ。柄のところに書いてあるだろ? 名前」
司は、目の前の現実に心が追いつかず、苛立ちをぶつけるように呟く。
響が慌てた様子で、傘を手に取り確認するのを見つめながら、司は痛い心の置き場を探した。
響の手が止まる。手に持った傘。その黒い柄の部分に、黒のマジックで書かれていた“NAGISA.S"の文字。
付き合っていた司にしか知りえなかったであろう文字。それがまた恨めしくもあり、傘を持つ手に力が入った。
「話してくれよ……。本当のこと」
司は響に背を向けて、玄関口に座り込んでいた。
「これは、バイト先に渚さんが尋ねてきた時に……渚さん、誕生日や言うてた。
その日……雨降ってて、俺、傘持ってへんかったさかい、これ置いてった」
響の話を背中で聞いて、あの日のことを思い出した。次の日、すでに渚は東京を去っていた。
最後にあいつは、響に気持ちを伝えたのだろうか? もう会えないことを知っていながら……。
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