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 サークル勧誘の声があちこちで聞こえるキャンパス内で、大学生になった実感を噛みしめながら、 響はバイト先へ向かうべく校門を出た。 相変わらず隣を陣取った凪の姿に、女子学生の溜め息が微かに聞こえる。 桜の花びらが風に踊るのを見ながら、響は隣の凪を構うでもなく道を急いだ。 いい物件にめぐり合えて、大学近くのアパートでひとり暮らしを始めたばかり。 旭も同じ大学に入ったこともあり、来栖家の伯父さんたちには出て行くことはないと引き止められたが、 最終的に、不満だから出て行くのではなく自立したいから、との意志を尊重してくれた。
「響くん!」
 響はその声に足を止めた。冷静に考えれば声の違いに気付くはずなのに、その呼び方と入学式が重なった。 振り返ると、軽の四WD車の運転席から淡いピンクのサングラスをかけた女性が手を振っていた。
「あぁ、絵里さん」
 響は暴走しそうになった鼓動を落ち着かせて、サングラスをはずした絵里に頭をさげた。 隣で、凪が「誰?」と怪訝な表情を作り、響の肘をつつく。
「あ、彼女?」
「あぁ、まぁ」
 その言葉に途端に気分をよくした凪は、絵里に向かってぺこりとお辞儀をした。
「ばあちゃんのいた病院の介護士さんやねん。その節はありがとうございました」
 凪に説明してから、響は絵里に礼を言った。祖母の葬式に参列してくれていた。 病院と死は意外と近い関係だが、入院患者が死んだからといって、病院関係者が個人的に顔を出すことは稀だった。 しかし、絵里は初めて担当した人だということもあったのだろうが、祖母の葬式では涙を流して送り出してくれた。 その姿が、響には印象的だった。
「響くん、ひとり暮らし始めたんだって?」
「え? あぁ、うん」
 何故知っているのだろう? そんな疑問が微かに頭に浮かんだ。
「絵里さんは、ここで誰かと待ち合わせかなんか……」
 響の言葉が終わるか終わらないかのうちに、絵里の車に近寄る男性。絵里の視線の先には。
「お待たせ」
「え??」
「え??」
 響と凪は顔を見合わせて、それからもう一度、絵里の側……車の運転席側のドア付近に立った男性を見た。
「バイトの時間大丈夫なのか? 響」
「あ、あぁ。そっか」
「ごめん。私が呼び止めちゃって」
「いや、大丈夫。それじゃ」
「夜はうちに来いよ。入学祝いするって聞いてるよな?」
「あぁ。先に始めといてて、おばさんには言うてるさかい」
「了解!」
 彼が絵里の車の助手席に乗り込むと、校門の方から悲鳴に似た叫びが聞こえた。
「それじゃ、また」
 絵里が車を発進させる。響も凪も走り去った車を見送って、溜め息を一つ漏らした。 それがほぼ同時だったので、二人で一緒に少し笑った。
「ビックリした。来栖君、彼女いたんだ」
「……俺もビックリ」
「あの人、何歳くらいかな?」
「ん? 二十三くらいかな? 確か」
 響は、旭が言っていた好きな人の話を少し頭に思い起こしながら、帰路についた。 バイトの時間が迫っていたので、凪とは、アパートの前で別れた。 凪に合鍵の件を念押しされて、少し憂鬱な気分になる。付き合い始めて一年と少し。 自分の気持ちにケリをつけようと、過去にしようと、努力するものの空回りするばかり。 気持ちもないのに、続いていく関係に疲れも感じる。自分が選んだ道に凪を巻き込んだ。 ただ純粋に自分のことを好きでいてくれる凪のことを、どうしようもなく持て余している。 なんて勝手なんだ。前向きに生きていくことの意味を取り違えている。
 響は、机の上に置いた《星の砂》をそっと手に取り、溜め息をつく。それから、少し急いでバイト先に向かった。
 バイトを終えると、来栖家に赴いた。軽く食事は済ませていたようだったが、響の帰りを待って 入学祝いのささやかなパーティーが開かれた。祖母の遺影の微笑みも、心なしかいつもより明るく見えた。 その夜、響は来栖家に泊まった。旭と二人きりになって、どちらからともなく恋愛の話になった。
 今日、初めて知った旭の彼女のこと。付き合いだしてまだ、間もないらしい。 祖母が健在な時から、時々ホームで話すことがあったようだが、当時は絵里に彼氏がいたらしい。 だが旭と知り合った時にはすでにうまくいってなかったようで、色々と落ち込んでいる時に 旭が声をかけたりしていたらしい。その気持ちが、いつしか恋へと変わっていたようだ。
 やがて破局を迎えた絵里の中にも、旭を大切に思う気持ちが芽生えていたのだろう。 年の差や、別れてすぐだということを気にして、なかなかOKをしてもらえなかったようだが、 大学合格を機になんとか付き合うことにうなずいてもらえたそうだ。
 旭が話す絵里の話は、響にとってどれも新鮮で、旭の笑顔が何より嬉しかった。 祖母を亡くしたときの痛みも幾分和らいだようで、恋愛の持つ力の大きさを知った。
「響は……」
「うん?」
 旭が言葉を、詰まらせる。響は続く言葉を何気なく聞き返した。
「塚原とうまくいってるんだな?」
「あぁ。まぁな」
「歯切れ悪いな。響、無理してないか?」
「いや、別にそんなことあらへん」
 旭の言葉に少し焦る。無理をしてないと、言い切れる自信はどこにもない日々。重くなる気持ち。 このままでいいと思っているわけでもなく、どうにか凪を真剣に受け入れようと思うのだが。
「それなら……いいけど」
 旭のその返事もどこか歯切れが悪い。側で見てきた。何となく感じている違和感。 旭自身が、絵里との恋愛で感じている幸福感を、響の中に感じられない自分。 それでも結局、それ以上聞き返すこともなく旭は口をつぐんだ。




 響たちが大学に入学してから一ヶ月が経とうとする頃、司は凪に相談をもちかけられた。 五月の風はさわやかに、開け放たれた校舎の中を通り過ぎていく。 午後のけだるい時間帯。講義のない司は凪から空き教室に来て欲しいと頼まれた。
「響となんかあった?」
 そこへ着くなり凪の暗い表情に、司は自分の方から声をかけた。
「ないんです!」
 窓際に立っていた彼女の側まで行くと、切実な表情で凪が訴えた。
「え?」
 司は、一瞬深読みをしてしまったが、頭の中でそれを軽く否定した。
「ないって、何が?」
「なんにもないんですよ〜司さん! 私たち、付き合い始めてもう一年と三ヶ月と四日も経つのに」
 凪があまりにも正確に説明をしたので、司は少し笑みをこぼしながら、首をかしげて次の言葉を待つ。
「キス以上のことがないのっ」
 凪の声の大きさに、少し慌てながら司は苦笑した。
「……う〜ん。そういうのは、個人的な問題でさ。あんまり人に相談することじゃ」
「分かってます! でも、こんなこと、司さんしか相談できる人いないんだもん」
 司は窓際にあった自分の体を動かして、人目を避けるように椅子に腰をおろした。 それから、凪にも前の席に座るように促すと、言葉を選んで話し始めた。
「それは、響が凪ちゃんの事を大切にしてるってことじゃないのかな?」
「……うん。そう思おうと思ったこともあるけど、ちっとも優しくないし。合鍵のことだって、司さんが 言ってくれたから仕方なくって感じだし。バイトのほうが大事みたいで、会えない日もあるし」
 凪の声がトーンダウンしていく。確かに、司にも思い当たる節はある。 響と二人で会う機会は、結構あるような気もするが、その時には凪の話は一切しない。 聞かれることもあまり好きではないようなので、司の方から聞かないからというのもあるかもしれないが。
「私……。そんなに魅力ないですか?」
 響の態度を少し頭に思い描きながら、一瞬ぼんやりしていた司のすぐ目の前に、凪が顔を寄せる。
「いや。そんなことはないよ」
「そうですか」
 凪が姿勢を戻すと、司はほっと肩を下ろした。美人かと問われれば、即答は難しいかもしれないが、 凪の愛くるしさは司もよく知っていた。一途な気持ちに正直に、いつも前を見て凛とした姿は、微笑ましい。
「聞いてもいいですか?」
 凪は、さっきより真剣な表情で、司の顔を下から見上げるように尋ねた。
「ん?」
「司さん、響の部屋にある《星の砂》知ってます?」
 確か、机の上に大事そうに置いてあったな。たった一つの家族との思い出。司はそれを思い起こす。
「あぁ。それがどうかした?」
「あれ、ちょっと触ったら、すんごく怒られちゃって」
「そっか。……凪ちゃんも響のご家族の事は知ってるよね?」
 噂というものは、一度広まりだすと急速なスピードで浸透するもので、凪もその話は知っていたのでうなずいた。
「あれは、家族旅行の時に買った物だって」
「そうだったんだ」
 凪の言葉の奥には、自分には何一つ話してくれない響への苛立ちが少し混じっていた。 それを見ながら、司は別のことで焼け付くような胸の痛みを抱え、記憶の中にいた。 あれから三年が過ぎようとする今でも、色あせない記憶の中に……。

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