結局、体育館の外まで出た。風が少し強くて、寒さに思わず身を縮める。
「あのね。凪が渡したいものがあるからって」
名前だけで心がざわめく。凪という彼女の顔は思い浮かばないのに。
その女子生徒が、体育館の裏の方を指差す。響は、首をかしげる。
「とにかく、行ってあげてよ」
「ん? あぁ」
半ば強引に押し出されるように、その方向へと向かった。
渡したいものって何だ? 響は、腑に落ちない表情で裏に行ってみた。
「若宮君……。ごめんね、呼び出したりして」
「いや。で、用って?」
冷たく話しているわけではなかったが、言葉に気持ちはこもっていない。
他の誰も入り込めないものを、密かに抱えていたから。
「これ」
凪が差し出したのは、きれいにラッピングされた箱。広げた両手に丁度収まるくらいの箱。
「は? なに?」
「……何って。……だから」
凪が口ごもる。差し出したままの手を下げることも出来ず、立ち尽くしていた。
「これ……。受け取っても貰えないのかな?」
「だから、なんやねんって」
響は、思わず出てしまったキツイ口調に少し反省した。凪が今にも泣き出しそうで困った。
「あ、悪い。別に、怒ったんちゃうから」
響の言葉に、凪は少し気を取り直して、再び箱を差し出した。
「これ、チョコレート」
「あ……」
そうか。今日は二月十四日。やっと納得した響は、そこでまた戸惑う。
「もしかして、好きな子以外からは受け取らない主義とか? あるの?」
「いや」
「なら、貰ってくれるだけでもいいから」
凪は響の手をつかんで、その箱を手渡した。響は仕方なく、それに従った。
今朝旭が言っていたことは、どこまでが本当なのだろうか?
「あ……。ありがと」
響のその言葉を聞くと、凪は受け取ってくれたお礼を言って、そこを去っていった。
響は箱を持ったまま、しばらく呆然と突っ立っていた。北風が吹く。身震いをしてから、もう一度体育館まで戻った。
チョコレートの箱をカバンへしまう頃、バレー部の練習が終わった。
後片付けなどを終わらせるのを待って、旭と合流した。司とも軽く会話を交わして、祖母のいる特養老人ホームへ向かう。
受付でいつものように記帳を済ませると、部屋へ向かう。そこには祖母の姿はなく、談話室を目指す。
車椅子での移動は介護士の絵里に助けられてはいたが、談話室にはよく遊びに行っているようだった。
談話室の前まで来ると、中の会話がよく聞こえた。
「来栖さんは、幸せ者だよ」
その言葉に響と旭は、少しドアを開けるのを遅らせた。
「本当に、いいお孫さんを持って」
「響は本当に優しい子なのよ」
響の胸にズシンとのしかかるものがあった。祖母は、旭の名前を出さない。
「それからほら、もう一人」
「えーとね。旭君、響の友達かね〜」
祖母の言葉に、響の胸が痛む。隣にいた旭はその言葉を聞いて、なぜか笑みを浮かべた。
「ばぁちゃん、やっと名前覚えてくれたみたいだな」
そして、ゆっくり談話室のドアを開けた。この強さに、助けられる。響の胸のつかえが楽になる。
「こんにちは〜」
「あぁ〜噂をしてたのよ〜」
祖母の友達からも、二人は慕われていた。絵里が暖かい笑みを送る。こんな日がいつまでも続いていけば……。
それから季節は巡り、再びやってきた二月十四日。
凪はその年も、響にチョコレートを渡し、今度は直接付き合いを申し込んだ。
それまでは、どうにか響の方から心を動かしてくれないだろうかと、色々試していたようだったが、
ついにそういうことは叶わず、玉砕覚悟で動いたのだった。
ところが、響は驚くほどあっさりとそれに応じ、学校内で響に憧れていた女子生徒達は、皆悔しがっていた。
司は響が凪と付き合うことにしたのを聞いて、何となく安堵し応援した。
それとは対照的に、旭はそのことには全く口を出さなかった。
恋愛の話をしたことはほとんどない二人だったが、響は旭から一度だけ、好きな人がいるという話だけは聞いていた。
響たちが高校三年の冬に、祖母が急死した。もともと心臓も悪く、それが悪化したとのことだった。
この二年半通い続けたことで、祖母の痴呆が進んでいったとはいえ、響にも親愛の情が湧いていた。
旭の憔悴しきった姿は、響の目には痛々しく、何も出来ない自分がもどかしかった。
愛する者を失った悲しみは、自分が一番よく知っている。張り裂けそうになる胸の痛みを、救えるのはなんだろう。
やはり……時間と、周りの支えだろうか。そして、肝心なのは自分の生き方。それは、旭自身よく分かっていただろう。
―――春。
響が初めて渚に会ったあの雨の入学式から三年が過ぎ、今度はよい天気で大学の入学式を迎えていた。
「おぉ〜い」
校門を入って少しすると、向こうから最高の笑顔で司が手を振って、こちらに近付いてくるのが見えた。
「あ、司さん」
軽く手をあげた響の隣で、凪が声をあげた。約束をしようとしない響を待ち伏せて、早くから校門にいた凪は、
校門前で無事響と合流して、しっかりとその腕に自分の腕を絡ませていた。
「入学おめでとう!」
「ありがとう」
「凪ちゃんも! よく頑張ったね」
「ありがとうございますぅ! これも司さんのおかげです」
「ううん、俺はちょっと手助けしただけだよ。凪ちゃんの努力の賜物」
司に褒められて、凪は嬉しそうに微笑んだ。
「式典には出るだろ?」
「あぁ、うん」
「あ、そうだぁ〜。司さんに相談したいことがあったんだぁ」
凪が響の顔をチラッと確認してから「何?」と問い掛けた司に続けた。
「響ったら、合鍵作ってくれないんですよ! 司さんからも頼んでもらえません?」
「あほかっ! なに頼んでんねん」
響は慌てて凪の腕を離し、嫌悪の視線を向ける。凪は臆することなく、頬を膨らませる。
「だってぇ〜」
「まぁまぁ、晴れの日にそんなことでケンカしなくっても」
「そんなことじゃないですぅ!」
「あぁ、はいはい。そう怒らないで。まだ、引越しも終わったばかりなんだし、
響だってもう少し落ち着いたらって思ってるんだろ?」
急に話を振られて、響は戸惑いながらも、司の問いにうなずくより他はなかった。
「え? ほんとに? やった! やっぱり司さんて頼りになるぅ〜」
「おだてても何もでないよ」
「本当のことだもん」
凪の笑顔に司も頬を緩めた。屈託のない笑顔に、響のことが好きな気持ちがよく表れていて安心する。
それから、別の用事もあるからと背を向けた司を、響は軽い溜め息で見送った。
凪は、司が去って行くと、もう一度響の腕に自分の腕を強引に絡ませた。
「司さんて本当にいい人なのに、どうして彼女作らないのかな?」
響の表情が一瞬、曇る。
「さぁ?」
「あっ、高校のときの彼女が忘れられないとか? すんごい美人の。響も仲良かったよね?」
「あぁん? あぁ、まぁ……。あんま、司さんのプライベートに凪が首を突っ込むことないやろ」
「あ、妬いてる?? ねぇ??」
「別に。それより、その手離してくれん? さっきから歩きにくいねん」
「チェッ、つまんないの」
凪は響の顔を横目に見て、ゆっくり腕を離した。なかなか進展しない関係に少しずつ苛立ちを覚え始めていた。
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