BACK TOP2


 不意に名前を呼ばれて、渚はビクッと肩を震わせてから、声のほうを振り返る。そして、腕時計を見る。
「え? まだ九時になってないよ?」
 慌てた声を上げる渚に、響は少し微笑む。
「大丈夫ですよ。それより、渚さん、どうしたんですか?」
「ん? ……うん」
 傘を持っていない響に、自分の傘を手向けながら渚は口ごもる。 何を話せばいいんだろう。ここへ来てしまった理由。
「ちょっと、歩きます?」
 響は渚の傘を自分の手に持ち、コンビニの裏にある公園へ誘う。この前の土曜日は、そこで三人一緒に花火をした。 自然な笑顔が多くなってきた響に、渚は安堵していた。もうあの時の凍ったような瞳は、影を潜めていた。
 公園にある屋根つきのベンチも、夕方に少し強く降った雨で濡れていた。 それでも、今の雨なら傘を差さなくても、その下では濡れずに済んだ。
 街灯が寂しげな色を見せる。渚は続ける言葉を捜し始める。 響は、傘を閉じると渚に手渡した。指先が触れ合う。 熱いものを感じながらも、そんな素振りは微塵も見せずに、響は平静を装う。
「……実は今日、誕生日なんだ」
 唐突だとは思った。けれど、それ以外、理由が見当たらなかった。
「あ、そうなんや、おめでとう! ……なんもあれへんけど」
 口調が変わる。響の言葉に、近付いた関係を確認する。
「あ、ううん、そんなのはいいの。響くんの顔が見たかったから」
「……」
 空気が張り詰めるのが分かった。ふたりの呼吸が、少し乱れる。それに、お互い気付いていたのだろうか?
「ごめんね。急に来たりして……」
「……」
「あ、これ。持っていって。まだ雨降ってるし」
 バイトに出るときには雨の降る気配もなかったので、響は傘を持たずに自転車できていた。 渚が自分の濃いグリーンの傘を差し出す。あの時、校門前で触れ合った傘。気持ちが加速する。
 その瞬間、傘を差し出した渚の体ごと響が包み込んだ。
 人に触れることが怖くて仕方なかった。 その渚の傷が、まるで響の中に吸い込まれるように、渚は本当に自然に体をゆだねていた。
「渚さん……。俺」
 その言葉が耳元で聞こえたのに……。確かに、まるごと受け止めてくれていた体は、 続く言葉を吐き出すことなく、渚から離れた。
「ごめん……。今のなかったことにして。……司さん、裏切られへん」
「そうだね。ごめんね……。でも、これだけは持っていってね」
 渚は、響が傘を受け取るのを確認するより先に、その場所に背を向けた。分かっていたはずだった。 気持ちが通じ合えたのは一瞬。 予想外の出来事。あの一瞬に、封印する。それ以上、望めるはずもない。 あの傘だけでも、せめて愛する人のそばで。
 渚は乗り込んだタクシーの中で、嗚咽を漏らした。響の言ったことは、当然だ。 自分が楽になりたかっただけ。気持ちを吐き出して楽に。響にまた重い荷物を持たせてしまった。 出逢いも別れも雨になった。渚は、タクシーの窓につたっていく雨の滴を、涙を隠すことなく見つめていた。




 次の日。出ると言っていた後期の講習に渚は顔を出さなかった。司は前期と同じように、講習が終わり部活までの間に、昼食を済ませる予定だったのだが、 渚のことが気にかかっていた。確かに、昨日は出ると言っていたのに。 すでに他の生徒は教室を後にしていて、一緒に昼食をとる予定の太一だけが、そこにいた。
「先に、渚に電話かけてくる」
「ケータイ貸そうか?」
「いや、いいよ。公衆行って来る」
 そして教室を出たとき、廊下の向こうに早百合の姿があった。ひどく血相を変えて、司の顔を見ると走り寄って来た。
「斎木君! 一体どういうことなの?」
「え?」
 早百合の声に、教室にいた太一も廊下に出る。いつものような冷静さがない早百合が、司に詰め寄っていた。 今度は一体、何を言ってくるつもりなんだ? 司にも太一にも見当がつかなかった。
「何のこと?」
「だから! 城山さんが転校したってどういうことって聞いてるのっ!」
「え?」
「え? って斎木君? もしかして、知らなかったの??」
 少し落ち着きを取り戻した早百合が、呆然と立ちすくんでしまった司を見る。
「電話。電話してくる」
 走り出そうとした司の前に、早百合が携帯電話を差し出す。
「使って!」
「う、うん……」
 深刻そうな表情の二人に、太一も近付いた。司はゆっくりと確認するように、渚の家の番号を押していく。 耳に届いてきた音に不快な表情を浮かべ、すぐに切ってまたかけ直す。今のは何かの間違い。 押し間違えただけだ。それでもやはり同じ音……。早百合は携帯を取り返して、耳にあてる。
『お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません……』
 無機質な音声テープが耳に伝わる。司と同じように早百合も肩を落とす。
 太一は、二人の顔を交互に見て戸惑っていた。
「だから……だから言ったのに」
「木山?」
 太一が、早百合に声を掛ける。その言葉が耳に入っていたのかどうか。 太一の存在にも気付いていたのかどうか? 早百合は、大きな瞳から涙を流す。
「約束したじゃない! 城山さんを離さないでって約束したのにっ!!」
「え……?」
 呆然としたままの司が、反射的に声を出す。そう言えば、そんなこと言ってたな。 どうしてそんなこと言い出したのか、分からないまま渚の元に行ったんだったな。本当にどうして?
「やっぱり……斎木君なんか、城山さんにふさわしくなかったのよっ!」
 早百合は、司を突き飛ばしてその場を去っていった。司はその反動で、壁際に座り込んでしまった。 太一は、早百合の態度の真意をつかんで、視線を泳がせる。
「ははっ。そうか……なるほどな」
 力のない声が、自嘲的な言葉をつむいでいく。太一は、司が座り込んだ前に腰を下ろした。 それを確認してから、司は言葉を続ける。
「俺のこと好きだなんて……。大きな誤解だったな。俺ってバカだ……。そんな木山に振り回されて…」
「……」
 太一は掛ける言葉もなく、ただ側で司の独り言に似た呟きを聞いていた。
「渚だったんだ。木山の好きなのって……」
 その言葉には、少しも異端視の響きはなかった。 ごく当たり前のように、自分と同じ気持ちなんだと、受け入れているように太一には見えた。
「あぁ。……ビックリしたな」
 太一はやっと口を開いた。それからどうやって、続けるのか分からないままに。
「城山……。どこへ行ったんだろ?」
「大阪だろうな、きっと。……母親の実家」
「それじゃ連絡も」
「ムリ!」
 太一の言葉を遮って、司が少し強い口調で返す。
「昨日会った時、何も言わなかった。急に決まるわけがない。もう、ずっと前から分かってたはずなんだよ。 ……それなのに何も言わなかったのは、もう終わりってこと。追いかけられるはずないよ」
 司は、後悔した。昨日、言いそびれたこと。きっと、渚はその気持ちも一緒に封じ込めたんだ。 もう、何もしてやれることがない。 心の痛みを埋めてやることさえ出来ずに、自分のわがままでピリオドを打たせてしまった。 司は壁にもたれて座り込んだ姿勢のまま、うなだれていた。
「悪い。今日の部活休むから……。あと、頼んでもいいか?」
「ん、あぁ。……あんまり思いつめるなよ」
 太一は司の肩を軽く叩いて、立ち上がった。
「おぅ」
 視線を合わすことなく、司は右手を挙げて応えた。

23
NEXT