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 響の返事を待たずに、絵里は続ける。
「来栖さんがよく自慢話をしてくれるわ。とても楽しそうにね。 響くんは娘に……あぁ響くんのお母さんね。娘に似て、優しいんだとか。 小学生の時に絵で特選を取ったこととか、一番いい笑顔で語ってくれるわ」
 絵里は響の顔をそっと確認するように見た。響は対応に困り、曖昧に相槌をうつ。
「来栖さんが思ってる以上に、響くんの家族は、みんなあなたのことが大好きだったと思うの」
「だけど……俺が、殺したようなもんや」
 年上の女性、それも祖母が世話になっている人、という安心感もあったのだろうか? 響は静かに心境を漏らす。
「そんな風に自分を責めてばかりで、これからも生きていくつもりなの?」
 絵里が語気を強める。響は、昨夜の旭の言葉を思い出す。
 “いつまで悲劇の主人公気取ってんだよ”確かにそうかもしれない。
「けど、どうしていいか分からへん」
「自然でいいよ。楽しい時に笑って、辛い時は泣けばいい。誰かにすがりたければ、甘えてもいい。 これから、恋愛だってすればいい。資格ないなんて、思わなくっていい。自分を責めても前には進めないよ」




「そっか……。それで、今日は、ここへ来る気になったんだ」
 何となく少しがっかりした口調の司に、響が気付く。
「あっ、でもやっぱり一番のきっかけは、司さんと渚さんがいてくれたからやし」
「ん? そう? 本当に? そう思ってる??」
 司が、からかい半分に響に詰め寄る。響は呆気に取られながらも、慌ててうなずく。
「本当はさ、勢いで呼んだものの俺なんかになにが出来るのかなって、不安でいっぱいだったよ……」
 司は、ほとんど乾いている髪をもう一度タオルで拭きながら、トーンを下げる。
「……重かったら……いつでも降ろしてください。俺の荷物、ちゃんとひとりで持ちますから」
 響は、不安の入り混じった声を出す。司の優しさが痛くなる。絵里がしてもいいといった恋愛の対象が、そこに見え隠れしていて。
「誰がそんなこと言ったよ。俺が俺の意志で持ちたいの!  降ろしても何度でも持ち上げるから。渚だってきっとそうだから」
「……はい」
「よしっ、じゃ、寝るか? TVもないしな」
 司の部屋は、扇風機が相変わらず忙しく羽根を回している。 二人は精神的に少しハードだった一日を、心の中で振り返りながら眠りについた。疲れきった心に安息の時間。


 熱い……暗闇の中。助けを呼ぶ声……。
『お兄ちゃん……』柾の声だ。どこから聞こえてくるんだ? 何も見えない。『響……響……』 今度は誰の声? お父さん? お母さん? おばあちゃん? 一体、どこから聞こえるんだ?
「柾?!」
「響ッ……おい、大丈夫か? 響?」
「あぁ、司さん……」
 響はやっと我に返る。またあの夢を見たんだ。体験してもいないあの夜の出来事を。助けを呼んでいる。何度も何度も。 引きずられそうになる感覚を呼び戻してくれた司が、扇風機の風を響のほうに向ける。
「随分うなされてたぞ。弟の夢見たのか?」
 必ず、名前を叫んでいる。いつもその自分の声で起きてしまう。
「あぁ……火事の夢。実際見てへんのに。もう何度も」
 響が吐き出す現実が、司の胸に刺さる。重い荷物だと分かっている。それでも投げ出したりしたくない。
「今日は、色々あったんだし仕方ないよ……。寝られそうか?」
「すみません。大丈夫です」
「謝ることないって。う〜ん……。扇風機だけっていうのが悪いってことで」
 司が笑う。響は肩の力が抜けて、ふっと頬が緩んだ。司の持つ天性のものだろう。 素直に受け入れられなかった昨日までの自分と決別。 響はそう心に決めて、もう一度横になった。




 次の日から、まだ長い夏休みの間、どうやってコミュニケーションをとるべきか、司は少し悩んでいた。 自分には部活動があって、響には、バイトがある。 学校にいるときのように、ほぼ毎日顔を合わせるということは限りなく不可能だった。
 渚には、響に起きた心境の変化をきちんと伝えた。渚も戸惑っていた。 これからどうなっていくのか。もう時間がないのに。
 結局、土曜日の夜には、響がバイトを終わるのを待ってから、一緒に食事をすることにした。 一週間はとても長いのに、その時間はあっという間に過ぎていった。 本当に他愛もない話だけど、楽しい時間が過ぎていった。 それぞれが、心に渦巻く微妙な恋愛感情を押し殺して、その関係は続いていた。
 きっと、続いていくはずだった。



 平日の夕方。その日、電話が鳴るだろうということを渚は予測していた。それが誰からで、どんな用件なのかも。
『斎木ですけど』
「うん」
『今から行っても大丈夫?』
「うん。待ってる」
 がらんとした部屋の中で、渚は迷っていた。このままでいいだろうか? だけど、これ以上、傷つけることは出来ない。 自分の感情も捨てるんだ。
 電話から二十分ほどで、司が渚の家についた。ドア越しに確認してから、ドアを開ける。
「誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
「ちょっと出られる?」
 司の誘いに、渚は微かに安堵の息を漏らす。家の中へ招き入れることは出来ない。
「うん」
 まだ長い夏の日は熱気を帯びていたが、少し厚く黒い雲が太陽光線を遮っていた。 渚の家から程近い公園のベンチに、二人は並んで腰をおろした。
「これ、少しだけどプレゼント」
 司が照れたように、小さな箱を目の前に差し出す。可愛らしくラッピングをしてある。
「ありがとう」
「開けてみて」
「うん」
 促されるまま、渚は、ゆっくり小さな箱の包装紙を丁寧にはがしていく。出てきたのは、小さな星をかたどったピアスだった。
「かわいい。……でも、私開けてないよ」
「うん、分かってる。開けて欲しいって思ってるわけでもないよ。持っててくれるだけでいいから」
 司の言葉に少し疑問を感じながら、渚はうなずいた。
「雨降りそうだな」
 そう言われて、渚も空を見上げる。この辺の心遣いは、司の得意分野だった。 だけど、話題をそらせたかったのは、司の方。自分の感情をコントロールできそうになかったから。言いそびれた言葉を胸にしまう。
「今日は帰るよ」
「うん。雨が降ると大変だもんね……」
 二人は立ち上がって、渚の家まで肩を並べて歩く。ほんの少しの距離が、今日はとても長く感じる。
「……明日からの補習、出るだろ?」
「ん? あぁ、うん」
 ヘルメットを手に持ったまま尋ねる司に、渚は微かな笑みを返した。
「それじゃ、降ってくる前に帰るよ」
「うん。今日はありがとう。大事にするね」
 渚の笑顔に司の心は、少し落ち着きを取り戻す。もう少し、もう少しだけこのままでいさせて……。 ヘルメットをかぶって、原付バイクにまたがる。エンジン音が吐き出そうとする言葉をかき消す。
「じゃーな」
 司が軽く手をあげて、バイクを走らせた。
「ありがとう。バイバイ……」
 遠くなってしまった司の後姿に、ゆっくり言葉を吐き出す。もう会えないかもしれない背中に。 雷の音が遠くに聞こえる。雨が降り出す前に、渚の瞳から、大粒の雨が溢れ出していた。




 何も残っていない殺風景な部屋の中で、渚は雨の音をひとりで聞いていた。あの日も雨だった。初めて逢った日も。 あの時、傘が触れ合わなければ、彼が傘を落とさなければ、何も知らずに過ごしていた。この胸の痛みさえも。 思い立ったらすぐ行動……。やっぱりこのままなんて出来ない。渚は雨の降る夜の街へ、タクシーを走らせた。 響のバイトが終わる少し前にコンビニに着いた。コンビニには入らずに、渚は冷たい外で待つ。 雨は、霧のように緩やかな直線を描き続ける。
 響が渚の姿に気付いたのは、店長の言葉だった。
「もう、あがっていいよ。彼女も待ってるし」
「彼女?」
 響の問いかけに、店長はあごでくいくいと店の外をさす。 そこに渚の姿を認めると、響は慌てて仕事を終え、店の外に飛び出した。
「渚さん!」

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