出会いは雨だった。入学式の朝。校門前。バスから降りたたくさんの生徒の中で、なぜか目に留まった。
一瞬、
見惚れていた。傘を持つ左手がおろそかになる。傘がぶつかる。そこで我に返った。
「ごめんなさい」と彼女が言った。何事もないように応対した。たったそれだけの出会い、すぐ忘れるはずだった。
現に、次に彼女が尋ねてきても、すぐには分からなかった。
それなのに……こんな、別れ方ってあるのか? 響は、自分の部屋のベッドの上で、頭を抱え込む。
渚を一番傷つける言葉だと分かっていて、口にした。
これ以上深入りしても、何もない。司の存在が大きな壁だと本気で思っているわけでもない。
ただ……。あの過去を、誰にも背負わせるわけにはいかない。自分ひとりで、背負い続けて生きていくしか。
部屋の扉をノックする音に、響は顔を上げる。
「響? ちょっといいか?」
旭の声だ。
「あぁ」
短く返事をすると、旭が部屋に足を踏み入れた。
「何?」
きっと司との事を聞きに来たんだろうと思いながら、尋ねてみる。
「ん……お前さぁ、ばぁちゃんのとこ、行ってる?」
「え?」
予想していなかった旭の質問に、一瞬戸惑った。
「……行ってへん」
旭たちの祖母は、二年程前から老人性痴呆症が進み出した。
以前から、老人ホームへの入居を希望していたこともあって
それを機に、入所しているのである。
響は、心のどこかで気になりながらも、バイトが忙しいことを理由に
一度も顔を出していなかった。旭に、それを問われて、後ろめたい気持ちになった。
家族を亡くした自分のことを、いつも気に掛けていてくれた。それに感謝していたけれど、態度には出せなかった。
「たまには行ってやれよ。ばあちゃん、響に会いたがってたから」
「……うん。分かった」
「……」
旭は、まだ何か言いたそうにしている。やっぱり話したいことは、まだ別にあるはずだ。響もそれに気付く。
「何?」
分かっていながら、響は自分からは切り出さなかった。
「……斎木先輩に会ったよな?」
「あぁ。だけど、もう関係ない」
響の言葉に、旭の顔が少しだけ険しくなった。
「なんだよ、それ」
旭の語気が、少し荒くなる。
「もうこれ以上、関わりなんてあらへんってことや。一緒にいてる意味ないやん」
淡々と話しながら、響は頭を抱え込んでうつむいた。もう終わりなんだよ……。そう自分に言い聞かせるように。
「なんだよ、それ。いつもいつも自分の方から壁作ってさ、バッカじゃねーの?」
旭の発言に、響が顔をあげる。今まで見せたことのない、旭の攻撃的な目だった。
「辛いのは分かるさ! 忘れられるわけないってことも分かってる! だけど、いつまで悲劇の主人公気取ってんだよっ!
うざいんだよっ!! いい加減にしろっ!!」
旭は捲くし立てるように言葉を吐き出すと、勢いよく響の部屋のドアを閉めて出て行った。
体が動かない。響はベッドの上で、しばらく呆然としていた。初めて聞いた旭の本音。
暑い部屋の中で、響の背中を流れていくのは冷や汗だった。
次の日。午後の部活が終わった体育館の中。司はひとりで、体育館の広いフロアーの上に仰向けで寝ていた。
他の部員達は、すでに部室へと行ってしまい、司の様子を心配していた太一もひとりで考えたいという
司の気持ちをくんで、その場にはいなかった。バレー部以外もすでに練習は終わり、しんと静まり返った体育館の中。
通風窓から流れてくる微かな風が、頬をなでていく。フロアーの冷たさが心地よかった。
司の目にふと止まったのは、誰かの足。見上げると、そこには旭が立っていた。
「なんか用?」
素っ気なく、司が聞いた。
「……斎木先輩、響のことよろしくお願いします」
意外な台詞に、司は上半身を起こした。旭の目には、いつもの計算を感じないような気がした。
「……う〜ん。まぁ、昨日だけで諦めるつもりは全くないけど。それって、本気で言ってる?」
司は、旭の真意を測りかねていた。すると旭は、司の隣に腰をおろして、くすっと笑った。
「……あいつのおかげで、いい人ってイメージ定着してたんだけどな」
やっぱり? 司は、旭の顔をマジマジと見た。
「どんなに取り繕っても……斎木先輩には見抜かれちゃうみたいだから」
「ん?」
「実は、昨日……。あいつに本音ぶちまけちゃって」
旭は昨日の夜、自分の口から言ってしまった内容を司に説明した。
「なるほどね」
司は、旭の気持ちが何となく理解できた。いつもすぐ側で見ていた従兄弟。
助けたいもの本音。イラつくのも本音。
「俺って……斎木先輩に嫌われてる? のかな?」
「はぁ?」
「なんか初対面が最悪だったから……」
バツが悪そうに旭が頭を掻く。その姿が、今までの印象とは違い子どもじみて見えた。
「もう、気にしてないよ」
実際身長のことは気にしているけれど、あの時のことはもう気にしていなかった。
旭の本音が見えた今、わだかまりも自然に解けた。
「よかった。それじゃ、失礼します。響のことお願いします」
立ち上がって、深く頭を下げる。「おうっ!」と司が手をあげると、旭は笑顔を見せて体育館から出て行った。
旭の後姿を見ながら、とりあえずまた今日行ってみようと思った。響のいるコンビニへ。渚は、……後から誘おう。
司も立ち上がると大きく伸びをした。これからどうなるのかなんて分からない。
ただ、このまま終わりになんかさせない。
何がどうなってしまおうと。不安はないわけじゃないけれど、後戻りなんか出来ないのだから。
コンビニに着いた司は、響の姿がそこにないことに動揺を隠せなかった。
思い立ったらすぐ行動に出る。まさか? そんなこと……。
コンビニの外にある公衆電話から、電話を掛ける。呼び出し音が、とてつもなく長く感じる。
『はい』
「あ、えっと、斎木ですけど」
『司? どうしたの?』
司は受話器を耳に押し当てて、渚の呼吸を確認する。
そんなこと。渚と響がふたりで会っているなんてこと。考えすぎだ。
「響、そっち行ってる?」
『え? 来てないよ。どうしたの? 今どこ?』
当たり前だ。そんなことあるはずない。
「今、響のバイト先のコンビニの前。来てみたんだけど休んでるから」
『そう……』
渚の声が低くなる。それを振り払うように、司は明るい声で言った。
「今からそっち行ってもいい? これからのこと話しに」
『うん。分かった。じゃ、待ってるね』
受話器を置いた渚は、部屋の中でひとつ溜め息をつく。それから、冷房を一度下げた。
冷蔵庫の中に、飲み物が冷えているのを確認してから、グラスをふたつ用意する。
戸棚の中から、買い置きしてあったスナック菓子を取り出す。司が気に入っている商品だ。
それが終わると、洗面所へ行って自分の長い髪をいじった。後ろをふたつに分けて、高い位置で結ぶ。
その髪の毛の束を、器用にくるっとまとめて、おだんごをふたつ作り出す。
彼氏が家にくるのを、ワクワクしながら待つ。そんな心境を意図的に作りたかった。
それがほどよく完成した頃、玄関のチャイムがなった。
慌ててドアを開けた渚の額を、司が小突く。
「こらっ、確認せずに開けたら、危ないだろ?」
「あ、そっか。ごめん」
「謝らなくてもいいけど。これ差し入れ」
司が、コンビニの袋を差し出す。渚はそれを「ありがとう」と受け取ると、リビングへと案内した。
司がこの家に足を踏み入れるのは、初めてだった。
「ごめんね。部屋、散らかってて。ここでもいいよね?」
「……あ、あぁ、うん」
渚は、司から受け取ったコンビニの袋を広げて、くすっと笑った。
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