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 バイトから帰った響は、食卓について旭の母親が用意してくれた夕食を口にしていた。
「夏休みは、休まずにバイトに出るの?」
「あぁ、はい。そのつもりです……。おばさんには迷惑かけるけど」
 箸を少し休めて、響は遠慮がちに言う。
「そんなことはいいんだけどね。体には、気をつけてね」
「……はい」
「それじゃ、向こうでアイロンがけしてるから」
 旭の母親は、麦茶の入ったコップを響の横に置いてから、席をはずした。 そこへ旭が、二階から降りてきた。
「あ、帰ってたんだ。ちょっと後で話あるから」
 旭は、響がうなずくのを見届けてから、すぐにまた二階へと上がっていった。 話ってなんだろう? いつもより少し早めに箸を進めると、流し台まで食器を運ぶ。
「ありがとう。後はいいから」
「いつもすみません。……それじゃ」
 洗い物をすること。響はここへ来た時すぐに、実践した。とにかく、迷惑をかけてはいけないと子ども心に思った。 だが、そうすることによって、旭の母親は父親から責められていた。旭の父親は、響の母親の兄になる。 家族を無くした甥に苦労をさせてはならないと、響が家の仕事をすることを極端に嫌った。 響は申し訳ない気持ちをずっと抱えながらも、旭の母親のためにも、そうするより他にはなかった。
 階段を上る音を聞きつけて、旭が姿を見せる。
「そっち行ってもいいか?」
 旭の問いに、うなずいた。旭は部屋へ入ったものの腰をおろすことなく、口を開く。
「お前、火事のこと、斎木先輩達にも言ってなかったんだな?」
「!! 喋ったんかっ?」
 響の声が大きくなった。その言葉にも旭は顔色ひとつ変えない。
「そんなに怒鳴るなよ。言ったのは俺じゃないけどな。小学校から一緒のやつは知ってることだし」
「悪い……。そうだな」
 響は一呼吸置いて、言葉を落ち着かせる。
「それから、ついでに言っとくけど、斎木先輩はいなかったから」
 そう言って旭は、響の部屋を出た。もしかしたら、すでに知っていたかもしれない。 旭の中にあったその思いは、響の反応によってかき消された。
 響は旭の残した言葉を聞いても、同じ事だと思った。たとえそこに司がいなくても、伝わるのは時間の問題だ。 もう、終わりだ……。友達なんてありえない。この過去を知ってしまったら、誰だってそれが重くてぎこちなくなる。 誰のせいでもない。求めるのがどうかしていたんだ。響は、ベッドに倒れこむように寝そべった。
 忘れられるはずはない。忘れていいはずはない。あの日のことは、永遠に……。




 小学校六年生。修学旅行の帰りのバスの中。楽しかったことを思い出しながら、帰路についた。 自分の家の近くがくると、降りていく同級生達。だけど、響は担任に学校まで残ってくれと言われた。 学級委員をしていたので、そのことはさほど疑問には思っていなかった。
 学校に着くと、最後まで残っていた半分くらいの友達は、みんな 親が迎えに来てくれていて、笑いながら帰っていった。 最後の一人になって、これからまだ何をするんだろう、と響は少し考え始めていた。
 早く帰って楽しかった話をしながら、カバンに詰まったお土産を渡したいのに、 という気持ちが沸いてきたとき担任が近付いてきた。 おもむろに響の両肩に手を置くと、うつむきながら担任は言った。
「気をしっかり持って聞いて欲しいことがある……」
 何故か担任の声は震えていて、響はどうしたんだろう? と単純に心配をした。
「昨日の夜……火事があって、若宮の家がなくなった。……それで……ご家族も……亡くなった」
 響は、目の前で大の大人が、肩を震わせて泣いている光景を、不思議に思った。 今聞いた言葉が現実のものとは、到底思えなかった。 亡くなったという言葉の意味を理解できないほど、子どもでもない。しかし、信用する気にもなれなかった。
 担任と校長に付き添われて、病院へと向かった。そこで待っていたのは、母方の祖母家族だった。 先生達はそこで親戚に響を頼むと、病院を去った。
 そこにいた祖母家族は、何度か会ったことがあるだけで、響にとってはそれほど親しみのない人たちだった。 泣き顔は、響の目にはどこか違う世界の出来事のように見えて、その時点で、自分の中から涙が出ることはなかった。 霊安室に安置してあるという遺体を、見ないほうがいいと言われたのだが、どうしても納得が出来なかった。 見せて欲しいと頼み込んだ。感情が、止まっていた。何故か宙を歩いているようで、落ち着かない。
 病院関係者に案内されて、響はひとりでそこに足を踏み入れる。祖母たちは、それを少し離れたところで見守っていた。 ゆっくりと、白い布がめくられる。 出来る限りきれいにしてあったけれど、焼け跡から見つかったものともなれば、子どもの目には鮮烈過ぎた。
「母ちゃん? 父ちゃん? ……ばあちゃん。……柾」
 ひとつひとつゆっくりと、確認する。まるで、検死官のように冷静な足取りで、遺体のそばを歩く。そして現実。
 響の体が、震え始めた。凍り付いていた涙が次々溢れ出した。
「嘘や……こんなん……嘘や……嫌やぁーっ!!
 響の声が、霊安室いっぱいに広がる。離れたところにいた祖母が駆け寄った。
「おばあちゃんたちと一緒に暮らそう、な。何も心配しなくていいから……」
 泣き叫ぶ響の体を抱きかかえるようにして、祖母が語りかける。来栖家の人々も泣いていた。
 その夜。どこでどのように過ごしたのか。 いつの間にか深い眠りについていた自分に嫌悪感を感じながら、翌日、響は斎場にいた。 修学旅行から戻ったままの姿で、持ち物は行くあてをなくした土産が詰まったカバンだけ。
 友達の顔が並んでいることも、目にとまらない。ただ呆然と、目の前で行われている葬儀を見つめていた。その時、 ふと響の耳に留まった会話があった。
「お気の毒に。なんでこないことに?」
「原因なぁ。放火の噂も出とるみたいやわ。何でも、裏に雑誌を積んであったらしいで。乾燥しとったしな……火のまわりも早かったんやろ」
 すぐご近所というわけではないのだろう。二人の会話は、響の存在を捕らえてはいなかった。 響の様子が一変する。すぐ側についていた祖母が、響を心配そうに覗き込む。
「大丈夫? ちょっと、休む?」
「僕が……」
「え?」
「僕が殺したんやっ!」
 しんとした、会場にその声が響いた。ざわめきが起こる。
「響?」
「僕が、あないとこに、本なんか置いたりせなんだら……。僕が殺したんやっ!」
 体を震わせながら、声を張り上げる響を、祖母と伯父が抱き止める。 棺が、運び出されようとしていた。少し小さな棺が目の前を通る。
「まさきーっ」
 駆け寄ろうとする響を、伯父が必死に引きとめる。響の悲鳴に似た声が、会場内にこだまして、参列者の涙を誘った。


 骨だけになった家族は、とても小さくて現実感を失う。 母方の祖母家族以外に親類のなかった響は、大阪を後にすることになった。転校手続きは響の知らないうちに即座に済まされた。 普通の転校なら、離れたくない友達もいたのだろうが、 この状況では、友達に会いたいという思いなど、持てるはずもなかった。 見送りは担任だけがやってきて、また泣いていた。響は、笑顔を作ることも出来ず、軽く頭を下げただけだった。
 小さくなっていく生まれ育った町を、遠い目で見つめるだけで、心の空白は埋まりそうもなかった。 修学旅行前日、何気なく持っていくことにした《星の砂》だけが、 家族との唯一の思い出の品となって、カバンの中に眠っていた。




 次の日の朝早く、大阪から戻った渚は、父親から「友達の木山さんには会えたか?」と問われ、 司の言っていたことを思い出す。
「あぁ、うん。会えたよ」
「母さんどうだ?」
「落ち着いてる。でも、お父さんに会いたがってた」
 渚がそう言うと、父親は、「そうか」と安堵の溜め息を漏らした。 渚は、母親が嫌いではなかった。怖いと思ったことは確かにあった。自分を押さえることにも矛盾を感じていた。 それでも、母親を嫌いになれなかったのは、小さな自分に何度も謝る姿を、見てきたからかもしれない。
「しばらく、こっちにいるのか?」
「うん。お父さんのこと、心配だし」
「そうか」
 父親が頬を緩める。どこか寂しげに。会社へ赴く父親の後姿を見送って、渚は響のことを考えた。 出来ること……。司の言うように会ってみなければ分からないけど。ひとりにさせたくない。
 渚は沸きあがってくる感情が何なのか、考えないようにした。

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