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 渚は、明日の期末試験の勉強をしていた。机の左端には、小さなビンに入った《星の砂》が置かれていた。もう五年前になるだろうか?  母の実家へ遊びに行ったのは。あれ以来、行く機会はなく母の精神面が少し気がかりだった。
 初日の一時限目から、苦手な化学があるので、渚の勉強ははかどっていなかった。 小ビンを手に取る。大きな溜め息をつく。思い出を手繰る。少し気分をよくすると、気分転換をかねて階下へ下りた。
 冷蔵庫を開け、オレンジジュースをコップに注ぐ。リビングのソファーでは、父親の帰りを待ちわびて、今日もアルコールを 流し込んでいた母親が居眠りをしていた。  渚は、ジュースを飲み干すと、母親を起こさないように注意しながら、タオルケットを探して肩にかけた。
 その時、電話のベル。渚の体が収縮する。母親は、音に気付かず深い眠りの中。少し慌てて小声で電話口に出た。
「もしもし?」
『あ、斎木ですけど……渚?』
 声で、確信をもちながらも司が尋ねる。司が電話をかけてくることは珍しいことだった。 渚の母親を刺激しないため、電話はほとんどなかった。
「どうしたの?」
『ごめん。まずかった?  側にいる?』
「大丈夫。いるけど寝てるから。それより急用でも?」
『……ん……実は、渚の家の前にいるんだけど。ちょっと出られるかな?』
「え?」
 渚の声が少し響いた。自分の声にハッとしながら、身を潜めるようにして、受話器に向かい「分かった」と答えた。 母親に気付かれないように、玄関を出た。門扉を押し開けると、司が原付バイクの横で、ケータイを握り締めている。 自分のではない。父親のを借りてきたらしい。七月始めの風は、意外と心地よく頬をなでていく。 渚の姿を確認した司は、ホッと安堵の溜め息を漏らす。
「ごめん。勉強してた?」
「ううん。化学でつまっちゃって、息抜きしてたとこ。家よく分かったね」
 渚の家に訪ねてきたのは、今日が初めてだった。 大体の場所は話に聞いていた司にも、渚の母親の存在は大きな影を落としていた。
「表札出てて助かった」
 司が微笑む。微妙な戸惑いが、夜の空気の中、ゆっくりと漂う。
「……どうしたの? 急に」
 渚は、司の行動の真意を読み取ろうと、考えあぐねた。司は、ケータイをジーンズのポケットに入れる。
「ん? 渚の顔が見たくなって」
 自分の言葉に照れながら、司が下を向く。
「なんだ……何かあったのかと思った」
 少しだけ渚は安心したように、司のほうを見る。
「ごめんな、また今から頑張んなきゃ、明日の試験に差し支えるよな」
 司の声のトーンが落ちる。
「やっぱり……なんかあったんじゃないの?」
 渚は心配そうに、うつむいた司を覗き込もうとした瞬間、司の両腕が渚の体を包み込んだ。 急な行為に、渚の体が強い拒否反応を示す。それを意図的に押さえつけ、渚は司の腕の中で深呼吸をした。 体をゆだね、目を閉じる。体が、熱くなる。司の心臓の音が、伝わってくる。
「好きだ……。これだけは覚えといて……渚が好きだ」
 渚は、司の告白を聞きながら、それが、自分の中にある司への想いと、明らかに違うものだと感じていた。
 ほんの数秒の出来事だった。渚が、緊張から解き放たれると、司は何もなかったようにバイクにまたがった。
「それじゃ、また明日」
「うん」
 渚も、それ以上何も言わなかった。 司は、バイクを走らせた。渚の反応を確かめる余裕すらないように。 ただ、太一に言われた一言で、自分の気持ちを確かめるためだけに、来た。 渚が、響に惹かれていようと。早百合に気持ちをかき乱されようと。 自分の気持ちを見失わないように……。
 渚は、司の後姿を見送りながら、自分の気持ちを持て余す。 司は大事。司のことが好き……。だけど。 渚は堂堂巡りの気持ちを、今は考えないようにと家のほうを向く。
 門扉に手をかけると、家の中から母親の声が聞こえた。 自分を呼んでいる母親の声。それは、いつもよりヒステリックで、慌てて家へ駆け込んだ。




 次の日。
 司は、いつもより遅く学校に着いた。意図的だった。渚とどんな風に話せばいいのか分からなかった。 教室に着くと、なぜか、渚の姿はまだ見えなかった。昨夜のことが司の脳裏に浮かぶ。
 渚…どうしたんだろう。
 一時限目の化学の試験直前に、渚は教室に姿を現した。安堵した司だったが、渚の表情は、疲れ切っているように見えた。 期末試験第一日目が終了するとすぐ、渚の姿は見えなくなった。
 司が心配して、夜になってからかけてみた電話には父親が出た。 ただ、「いません」とだけ言われ、それ以上何も聞くことも出来なかった。
 父親の声は憔悴しきっていた。渚が今、どこにいるのかさえも分からないまま、時間だけが過ぎていった。


 その日、渚は母親と共に新幹線で母親の生まれ故郷に向かっていた。 飛行機が嫌いな母親に付き添って、少し時間は掛かるけれど、医者の指示通り、精神的に安らげる場所へ向かった。
 昨日の夜、司を見送った渚の耳に届いたのは、母親の金切り声。急いで玄関の扉を開けると、目の前でそのまま倒れてしまった。 救急車を呼び、父親と連絡をとった。今まで真剣に取り合うことのなかった父親も、やっと現実に目を向け始めた。
 一晩中付き添った渚を、とりあえず、学校に行ってきなさいと送り出したのだが、すでに決断していた。 しばらく、落ち着ける場所へ戻してやろうということ……自分は仕事の都合上、同行できないという事実。 渚にすべてを託して、父親はひっそりとした我が家でひとり留守を守っていたのだった。


 母が実家へ帰るのは、五年ぶり。私が小学六年生だった夏休み以来。それまで、年に一度は遊びに行っていた。 ところが、父の仕事が忙しくなり、自分抜きで帰らせる心の余裕がなくなっていた。 その上、実家から元の生活に戻った時の 母は、いつも以上に精神的に落ち込むことが多く、 帰らないほうがいいのでは? と感じ始めていたのも事実だった。
 母は、大阪生まれの大阪育ち。大学で上京し、父と知り合って学生結婚。結局、母は中退。 そのまま東京に残ったものの、生活習慣から言葉の違い。 馴染めないまま、ストレスの多い日常を繰り返していた。
 その上、父は異常なほど嫉妬深く、母が外出することを嫌った。 だけど、その過剰な愛情までも受け止めようと、母は必死だったのだ。そんなときに私が生まれた。 妊娠中も、ひどいつわり、初めての妊娠出産に対する不安……。 あらゆるものが母を苦しめ、生まれてきた私はストレスのはけ口になった。
 だから、今でも人に触れられるのは……触れられそうになることさえ、過敏に反応してしまう。 言うことを聞いていれば、叩かれないということも子どもながらに覚えた。言いたい事も言えない自分が、私は嫌いだった。 それでも学校に通うようになってからは、自分を表現する場所を見つけられた気がして、自分の感情をありのままに出した。 人間関係を円滑にする術なんて、どうでもよかった。人と合わせることで得られる友情なんか、欲しくなかった。
 こんな私に愛想を尽かすことなく、一緒にいてくれる司のことを傷つけることだけが怖かった……。 何も言わず来てしまったけれど、今の私には、母のことを考えるのが精一杯だった。
 隣を見ると、少し落ち着いて顔色のよくなった母が、子どものように眠っている。 私は、ポケットから《星の砂》を取り出すと、五年前に思いをはせた。懐かしい感覚が蘇る。また、会えるだろうか?

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