ある朝、わたしが目覚めると、妙な違和感が全身をとらえた。
原因が分からないまま、とりあえずベッドから起きあがって、洗面所へ向かう。心なしか、部屋が狭くなったみたい。どうしちゃったんだろう?
寝起きの悪いわたしは目をこすりながら歩くから、足下がふらふらする。
お兄ちゃんがいてくれたら、ちゃんと起きるまで面倒を見てくれるんだけど、どういうわけか4年前にアメリカに留学してしまって、忙しいのかあんまり手紙もくれない。薄情者。
あれ?どうしたんだろう。なんだか、身体が変……
洗面所にたどり着いて、鏡を見る。……と、そこには……
見慣れたわたしの顔ではなくて、見たことのない男の人の顔……
男の人、といっても、大人の人じゃなくて、うん、クラスメイトの『男の子』っていう感じの顔。少し、お兄ちゃんに似てるかな。
誰だろう。ちょっと、かっこいいかも。
でも、どうして鏡の中にいるんだろう。どうして、わたしが映っていないんだろう。
「誰?」
言って、わたしは口を押さえる。
男の人の声!嘘!
鏡の中の男の子が、わたしと同じポーズで、きっとわたしがしている表情で、わたしを見ていた。
信じられないけど、信じられないけど……間違いない。この男の子、わたし、だ。
どうして?だって、わたし、ちゃんとした女の子よ……!計算違いだった。
まさか、ふたりとも来るなんて。
俺の母親は、ある芸能プロダクションの社長をしている。その社長様がどういうわけか俺を『アイドルとしてデビューさせる』と言いだしたのだ。
『ひとりが嫌だというなら何人かスカウトしてもいい』と。
それで、俺は街に出て、適当に目立ったやつをふたり、指名した。
もしかしたら『あいつらと一緒じゃなければデビューなんてしない』くらいは言ったかもしれない。
もちろん、デビューする気なんて更々ないから、その気のなさそうなやつを指さしたはずだった。ひとりは、お坊ちゃま風。好奇心全開で、あちこちをきょろきょろと眺めている。もうひとりは、結構かわいい感じの女顔の男で、なんだかびくびくしているように見える。
俺の指名を受けて、今、母親の事務所、唯一のタレントのマネージャーを、先日までしていた小男が飛び出していった。彼の名は遠洞(えんどう)という。さすが泣く子も黙るスーパーアイドル葉月絵魅を育てただけのことはある。
しかし、いくらなんでも俺までデビューさせようとは、母さんもよほど困っているのだろうか。タレントがひとりきりの、弱小プロダクションじゃあ、仕方がないが。
「とりあえず、自己紹介といこうか。俺の名前は、五十嵐哲。現在高1。もうすぐ16。こんなところかな。」
「五十嵐?」
お坊ちゃまだ。よく通る声をしている。身長はだいたい俺と同じくらい。
「ああ。ここの社長の五十嵐さとみは、俺の母親だ。」
俺が、たぶん、こいつが聞きたかったのであろうことを話すと、お坊ちゃまは納得したように頷いて、自己紹介を始めた。
「俺は、桂木翔。8月生まれの高1。よろしく。」
自然と、自己紹介を済ませたふたりの視線が、残るひとりに向けられる。
「あ。俺、は、長谷倉……ケイ。3月生まれ。同じ学年……。偶然、だね。」
うろたえながら、そいつは自己紹介をした。ちょっと高めの声。言葉がつかえるのは緊張しているせいだろうか。うす茶色の髪がさらりと揺れた。『恵』と書いて、『ケイ』と読むのだそうだ。
そうして、俺たちのデビューへ向けての猛特訓が始まった。疲れたぁ……
どうしよう……
『遠洞』っていう人のいうままにアイドルなんて目指してみてはいるけど、こうやって、男の子の格好をしているけど、わたし、本当は女の子なのよね……
ばかみたい。
ケイ、だって。
わたしの名前、『めぐみ』だよ。
あの、パニックの朝、お父さんがわたしを見て、びっくりしてた。
性転換をする薬をわたしに飲ませた後、元に戻る薬を飲ませたから、本当は女の子に戻ってなくちゃいけなかったんだって。ひどいよね。人体実験なら、自分でやればいいのに。
それで、『いつ女の子に戻るのか、戻れる薬ができるのか、わからないから、しばらく男の子として生活していなさい』なんて、いいかげんすぎるよ。
男の子として生活する以上、間違っても『おかま』なんて思われたくないし、下手をするとこのまま一生、なぁんてこともあり得るから、言葉遣いひとつとってみても、緊張するったら。
『仲間』の男の子ふたり、せっかくかっこいいのになぁ。
でも、わたしだって、負けてはいないもん。女の子の目から見れば、これでも充分、かっこいいと思うもの。
それでも。
もう、いやだぁ。
元の姿に戻りたいよう。
だって、………………トイレ、行きたくない……お風呂も、イヤ……
ああ、でも、トイレを我慢するなんてできないし、不潔になるのもイヤ……
お父さぁん。恨むよぉ。
アイドル、だって。わたしが。それも男の子として。どうしてこうなっちゃったのぉ?
このままじゃ、がんばって合格した学校にだって行けないし、これからどうすればいいのかわからないから、思わず引き受けちゃったけど、『哲』のマンションに引っ越してきちゃって、もし、女の子ってばれて、嫌われたりしたら……
ううん。嫌われなくても、ばれなくっても、『おかま』なんて思われるのは絶対イヤ。
どうしたらいいのぉ?
思わずため息をついていたら、いつのまにか『哲』が、そこに立っていた。
「あ。て、哲?どうしたんだ?」
ものの1週間も経つと、人間、いろんなことに慣れるもので、男の子の使うような言葉も、すらすらと出てくるようになってきた。
「……別に。ため息、ついてたから。」
あ。心配、してくれたんだ。
……ふふ。やさしいなあ。
「ごめん。ちょっと考え事。」
「そうか。」
「なあ。体力、ないな。おまえ。」
ぎっくーん!
そうなのよ。あんまり、自信、ないのよね。しかも、今……
「仕方ないな。俺が明日から鍛えてやるよ。まずは、朝のロードワークからだ。たたき起こしてやるからな。覚悟しろよ。」
「あ、ありがとう……」
うわあ。朝、早起きしなくちゃ、だぁ。言ってくれるのもありがたいけど、朝、弱いのよね。わたし。………………ちゃんと起きなくちゃ……。
優しいなぁ。心配してくれているのよね。だめだ。
あいつは、朝のロードワークは、無理だ。
「ご、ごめん……起きる、気持ちはあるんだけど……」
「ああ。わかってる。もう、無理するな。」
こいつに悪気がないことくらいはわかる。熱意も、認める。
だが。この決定的に寝起きの悪いのは、なんだ。
むりやり起こさなくても、起きあがってきちんと着替えて、走り出すまではいい。問題はそのあとだ。電柱に激突するのは日常茶飯事で、赤信号でも止まらないことなんか、1度や2度ではない。あげくのはてには犬のうん○に突進して踏んでも気づかないし、どぶに片足をつっこむのもしょっちゅうだし、それで、眠りながら走っているのかと思えば、そうでもないらしいあたりがまた始末が悪い。しかも、ここまでやってもしゃっきり目覚めないあたりがすごい。
とにかく。こいつは少なくともひとりでは走らせられない。
……心配で…………。
このことを翔に話すと、声もなく笑っていて、どうやら、異様にウケたらしい。
なんでも、朝は非常に弱くて(俺に言わせると、『異常に』)学校に行っても、1時間目の授業の内容は、まったく頭に入っていないのだとか。もちろん、テストも、どんなに普段得意としている科目でも、ほぼ全滅に近いのだとか。だから、テスト期間中は普段より1時間早く起きているのだそうだ。
ここまで徹底していると、俺としてもあきらめないわけにはいかない。
仕方ないので、昼間にトレーニングジムでマラソンさせることにする。これなら事故に遭うこともないし、なんといっても、俺が学校に行っている間にこなすことができる。
それにしても、変なやつだ。
学校を、何もやめることはないのに。しかし、恵の奇妙な点は、これだけでは、なかった……