濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと俺の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れる。
俺の同僚だというふたりの男に連れられて、『飛空都市』というところに、俺は降り立った。
『次元回廊』と呼ばれる、門のようなものをくぐり抜け、見知らぬ土地に、俺はあちこちを眺めてみる。
俺の同僚、オリヴィエとゼフェルが、促すように俺の背中を押す。
ここは。
なつかしいにおいがする。
記憶にはないが、確かに知っている。
正面に数人の男女が立っている。
どこかで見たような気のする人々。
豪奢な金髪の青年。長い黒髪の、アメジストのサークレットをつけた青年。茶色の髪の、快活そうな少年。金髪を後ろで束ねた少年。穏やかな顔立ちの、どこか恩人を思わせる青年。頭にターバンを巻き付けた青年。青いドレスの少女。金髪の、赤い服の少女……
俺の視線は、その少女の上で、止まった。
この少女は。
夢の中に現れた、あの少女。
間違いない。
金色の髪。翡翠を宿した瞳。
夢うつつの中で、オリヴィエと思われる声が発した名前は、なんと言っただろうか。
それを思い出すよりも早く、俺はその少女の名前を口に乗せていた。
「アンジェリーク……」
「オスカー……あんた……」
隣でオリヴィエの声が聞こえる。続いて、ゼフェルの声。
「は……ゲンキンなもんだ。あいつの名前だけ、一番最初に思い出してやがるぜ。」
「オスカーさま……!」
ああ、この声だ。
あの、乱闘の中で確かに聞いた声は。
ずっと、求めていた声は。
この顔だ。
ずっと、心のどこかで探し求めていた顔は。
少女が、走ってくる。
抱きとめた、その身体は、俺が知っている彼女のそれよりも、ずっと細く、小さかった。
しがみついて泣きじゃくる少女から顔を上げ、あたりを見回した。
記憶になじんだ光景が広がっている。
そして、頭の中の霧が、だんだんと晴れていく。
「ジュリアスさま……」
「思い出したのか。オスカー。」
「は……。ご迷惑を、おかけしました。」
「良い。報告は、身体が治ってから、あらためてしてもらおう。ゆっくり休んで、1日も早く公務に復帰することだ。」
「クラヴィスさま。」
クラヴィスさまは、なにも言わずにゆっくりと立ち去った。
「ルヴァ。リュミエール。ランディ。マルセル。」
記憶が、戻っている。
「お嬢ちゃん。心配掛けたな。」
ロザリアに笑いかけると、彼女は照れたように、
「別に……わたくしは……オスカーさまを、信じておりましたもの。……それに、いつも言っておりますでしょう?わたくしにはロザリアという名前がございますの。お嬢ちゃんだなんて呼ばないでいただけません?」
変わらない。
記憶と変わらない光景がここにあった。
どうして、忘れられていたのだろう。
いや。そのおかげで、ひとつ、気がついたことがある。数日後。
久しぶりに公務に就いて、公園で休息をとっていたときのことだ。
向こうから、歩いてくるのは、ふたりの女王候補。
「こんにちわ。オスカーさま。」
「ごきげんよう。オスカーさま。」
「よお。お嬢ちゃんたち。」
「もう、おけがの具合は、よろしいんですの?」
「ああ。もう大丈夫だ。もともと、けがはだいぶ良くなっていたからな。それよりも、ルヴァがいろいろと検査だのなんだのって、うるさいがな。」
俺の軽口にふたりの少女が、くすくすと笑ってみせる。
「そうですわ。お聞きしようと思っていたんですけど、記憶をなくすほどの大けがなんて、いったいどうしてされたんですの?」
ロザリアの言葉に、俺は一瞬言葉に詰まる。
「ああ、そのことか。その辺は……まだ、思い出せなくてな。」
「そうなんですの。大変でしたのね。」
ロザリアは素直に信じてくれたが、これは嘘だ。
考え事をしていて、足を踏み外したなどと、言えるわけがない。
特に、誰とは言わないが、迎えに来たふたりの守護聖だとか、坊やどもとか、知られたが最後、俺のことを馬鹿にし始めるかもしれないと思うと、絶対に知られるわけにはいかない。
俺は、ちらりと金髪のお嬢ちゃんを見た。
『原因』が、一瞬、薄く頬を染めたような気がした。
「では、わたくしはこれで。オスカーさま、失礼いたしますわ。じゃあね。アンジェリーク。」
ロザリアがアンジェリークに、目配せをして去っていく。
なんとなくロザリアを見送っていると、アンジェリークが、おずおずと俺の方を向いて話しかけてきた。
「あの……オスカーさま。」
「ん?どうした?お嬢ちゃん。」
名前で呼びたくなるのをぐっとこらえる。
彼女が、まぶしい。
俺のいない間に、すっかりやつれてしまったのも、これだけは変わらない金色の髪も、草原を溶かし込んだようなきれいな瞳も、すべてが、いとおしい。
だが、忘れてはいけない。
彼女は、女王候補だ。
「今度の日の曜日は、あいていますか?」
「日の曜日?ああ、予定を入れないでおこう。……そうだな。お嬢ちゃんの部屋へ迎えに行くことにしよう。」
アンジェリークの表情が、ぱあっと明るくなったと思うのは、俺の願望だろうか。
「はいっ。お待ちしています!」
にっこりと微笑う俺の天使。
俺がどんなにアンジェリークに会いたかったのか、どんなに記憶の底で彼女を呼んでいたのか、彼女の記憶が、どれだけ心の支えになっていたのか、俺が言わなければ彼女が知ることはないだろう。
そして、俺が、どれだけの思いで抱きしめたいのを我慢しているのか、知ることもないだろう。
今は、それでいい。
まだ、記憶が戻っていないのならともかく、もうすべてを思い出しているのだ。今の彼女と俺の関係は、女王候補と、ただの、一守護聖にすぎない。
「じゃあ、楽しみにしていますね。オスカーさま。」
軽やかに去っていくアンジェリークを見送りながら、俺は考えていた。
彼女を、奪ってしまうことを。俺のものにしたい。
そう思ったのは、あのときだ。
けがをした俺が発見されたという、あの場所に案内してもらっていたとき、アンジェリークの面影が心をかすめた、あのとき。
自分の名前も、過去も、それをも失ってもなお、強く残る彼女のイメージ。
すべてをなくしてもなお、欲しいと思ったたったひとりの女。
あの事故は、俺にそれを教えてくれた。思い悩むのは俺の主義じゃない。
ぐずぐずと先延ばしにして後悔するのも、俺の生き方ではない。日の曜日は、あさってだ。
決心はしたものの、いざ決行となると、かなりの緊張感を伴うものだ。
みっともないと自分でも思うのだが、踊る心臓までは、意志の力ではどうにもならない。せめて、悟られないようにするだけだ。
下調べはばっちり済んでいる。邪魔者はいない。
スイートピーの花束を持って、彼女の部屋のドアをノックする。
「はあーい。」
と、かわいい声で返事があって、ドアが開いた。
声に見合ったかわいい顔がそこから顔を出す。彼女の頬が、ぱっと朱に染まった。
手が震えてしまうのを意志の力で無理矢理ねじこんで、彼女に話しかける。
「約束の日は、今日だったよな。」
「は……はいっ。」
「これを。お嬢ちゃんに。」
「わあ。きれい。ありがとうございます。」
無邪気に喜んでいる彼女の顔をひそかな満足感とともに眺めながら、どこへ行こうかと切り出した。
そう言いつつ、俺が連れていきたいところはひとつだけなのだが。
「ええと……」
アンジェリークが真っ赤になって口ごもる。
「あー、……森の、湖にでも、遊びに行くか。」
「そ、そうですね。」
必死になんでもない表情を作ってみせる俺に、少女はにっこりと笑いかけてきた。森の湖に着いた。
予定通り誰もいない。
静けさの中で、どういう訳か緊張気味のアンジェリークとふたりで、どうでもいい話をぽつりぽつりと話していた。
ふっと、会話が途切れた。
今がチャンスだ。
さあ、言え。言うんだ。オスカー。
アンジェリークに。女王にはなるな、と。
俺と共に生きて欲しいと。
この、炎のオスカーともあろうものが、まるで、少年のように心臓を踊らせて(顔もきっと赤くなっているに違いない)。
まずは、子供扱いしていたのを謝って、それから……
横を向いていたアンジェリークが、俺の方を見た。
思い詰めたような表情で。
まずい。まさか。俺の願望の通りなら。
先に言われるわけにはいかない。
彼女が口を開いた、一瞬早く、俺の口から、ようやく言葉が飛び出した。
「ア……アンジェリーク……。君に謝らなければいけないことがある……。」
きょとん、と、何を言われたのかわかっていないようなアンジェリークの顔を見ながら、俺は思っていることを吐き出していった。風が、優しくふたりをなでていく。
濃い、霧の中。
ひとりの少女が立っている。
金色の髪が柔らかそうになびき、ゆっくりと彼の方を向いた。
翡翠の色の瞳が、悲しげに揺れた。今はもう見ることのない悪夢。
記憶は、彼の中にあり、おびえることは、もう、ない。
愛しい少女の身体を腕の中に感じながら、彼は目を閉じた。
初めてふれた、少女の柔らかい唇は、彼にめまいのするほどの幸福感を感じさせる。そして、新しい女王と、新しい補佐官が、この日、決定した。