北海道開拓の村
北海道札幌市厚別区厚別町小野幌
旧松橋家住宅 | 旧所在地・北海道札幌市中央区北1条東7丁目 建築年代/明治30年(1897)頃 用途区分/農業・土地会社経営・鉄道会社勤務 移築年/昭和56年(1981) 明治30年に、当時札幌区と呼ばれていた札幌の市街地の中心部に建てられた木造住宅である。当住宅が松橋家の所有となったのは大正7年(1918)の事である。松橋家は明治初期に秋田県から札幌の苗穂村に移住、当初は農業を営んでいたが、2代吉之助氏に至って農業に従事しながらも独学を続け、後に北海道炭礦鉄道会社に入り、札幌駅助役、江別駅長、岩見沢駅長を歴任、健康を害して退職した後は土地会社を経営したという。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧福士家住宅 | 旧所在地・北海道札幌市中央区北4条東1丁目1番地 建築年代/明治時代 用途区分/ 移築年/昭和55年(1980) 幕末から明治中期にかけて造船・通訳・気象観測などの分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊が明治中期から大正11年まで住した邸宅である。明治前期の洋館と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物である。西洋下見板張り、上げ下げ窓付きの洋館は明治前期の洋風建築の特色をよく残し、札幌病院診察室であったとも云われている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧有島家住宅 | 旧所在地・北海道札幌市白石区菊水1条1丁目 建築年代/明治37年(1907) 用途区分/大地主・作家 移築年/昭和54年(1979) 文豪・有島武郎が明治43年(1910)から1年間生活した住宅で、豊平河畔の林檎園の中に在った。この建物は、上げ下げ窓など洋風の意匠を一般住宅にも採り入れ始めた頃の建物となり、有島はこの家で、「或る女のグリンプス」を執筆した。彼の代表作である「生まれ出る悩み」や「小さき者へ」に、当住宅のことが登場する。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧開拓使爾志洋造家 | 旧所在地・北海道札幌市中央区南2条西6丁目 建築年代/明治11年(1878) 用途区分/開拓使官舎 移築年/平成6年1994 洋造商家として建築し、完成後に民間に払い下げられた建物で、当初は1棟2戸建てで、合計4棟が建てられた。外観はペンキ塗り下見板張り、上げ下げ窓、開き戸といった洋風であるが、内部は畳敷きに襖戸を組み合わせた和風の住宅で、昭和戦前期まで続いた北海道独特の洋風住宅の先駆け的存在と云える。外観を白ペンキ塗りとしたことから「白官舎」と呼ばれ、有島武郎の「星座」の舞台としても知られる。開拓使時代の建物を知ることができる貴重な遺構である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧渡辺商店 | 旧所在地・北海道枝幸郡中頓別町字中頓別 建築年代/大正前期 用途区分/雑貨店 移築年/平成元年(1989) ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧山本理髪店 | 旧所在地・北海道札幌市中央区南1条西24丁目 建築年代/大正末期 用途区分/理髪店 移築年/昭和62年(1987) ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧来正旅館 | 旧所在地・北海道旭川市永山1条19丁目108番地 建築年代/大正8年(1919) 用途区分/旅館兼待合所 移築年/昭和60年(1985) 東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年(1898)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り住み、待合所を開業した。大正7年(1918)に大水の被害を受けたため、翌年にこの旅館兼待合所を新築し、営業を再開した。当時は旅人の宿泊や汽車の待合などに利用され、賑わったという。広大な土地が拡がる北海道では、開拓が進むにつれ、まず街道沿いに駅逓所が設けられ、旅人の輸送と宿泊に便宜が与えられたが、後に鉄道路線が各地に敷設され、線路が延びるに従い、駅逓所は寂れ、代わって駅前の旅館が賑わいを見せるようになるのである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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河本そば店 | 旧所在地・北海道 小樽市住吉町16-7 建築年代/明治42年(1909) 用途区分/蕎麦屋 移築年/昭和61年(1986) 明治18年(1885)頃、当時18歳の河本徳松は石川県から北海道へ移住した。蕎麦屋の修業を積み、三〼の暖簾を継いで、小樽の信香町に明治42年(1909)に新築した店がこの建物である。2階にはおよそ50人程の客を迎え入れる座敷があり、階下には大きな調理場と家族の住まう居間がある。当住宅が位置した勝納川周辺は小樽市街の中でも古くから栄えた地域であった。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧武岡商店 | 旧所在地・北海道日高郡新ひだか町字東静内 建築年代/明治31年(1898) 用途区分/商家(米穀・酒・雑貨・荒物商) 移築年/昭和58年(1983) 武岡家は旧阿波藩の筆頭家老・稲田邦植に従い明治4年(1871)に淡路島から静内郡に移住したという。明治維新の際に日和見な宗藩に代わって明治維新政府に加担して功多かった稲田家中は陪臣身分であるが故に秩禄処分に際して十分に報いられることはなかった。それ故に淡路島領を阿波藩から分離独立させて新たに立藩させようと目論むが、これに怒った阿波藩の直臣達は稲田家中を武力で襲撃するのである。所謂、庚午事変である。事変に対する明治新政府の裁断は、稲田家中の北海道移住である。恐らく当家の移住にもこうした背景が絡んでのことに違いないが、誰が得をしたのか、紛れもなく明治新政府であったと私は思う。さて当家は、明治15年(1882)から米穀、酒、雑貨、荒物などを扱ってきた商家である。町の発展に伴い、明治31年(1898)に本格的な店舗兼住宅を新築し、明治34年(1901)には店内に郵便局を開設するなど、この地方の商業の中心的役割を果たしたという。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧武井商店酒造部 | 旧所在地・北海道泊村茅沼村 建築年代/明治19年(1886) 用途区分/商家 移築年/昭和63年(1988) この建物は、明治初期から鰊漁や炭鉱事業で活況を呈した茅沼で石炭荷役、廻船業、酒造業を営んでいた武井家が明治19年(1886)頃に建てた店舗兼住宅である。住居部分は木造二階建で、上げ下げ窓の洋風意匠を併せ持つ建物でもある。武井家の酒造業は明治28年(1895)頃から始められ、数年の後には雑貨と呉服も扱うようになる。地元で長く親しまれてきた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944)まで続けられた。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧近藤医院 | 旧所在地・北海道古平郡古平町浜町167番地 建築年代/大正8年(1919) 用途区分/開業医 移築建物/医院棟・文庫倉 移築年/昭和59年(1984) この建物は明治33年(1900)に函館病院から古平病院長として招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が、大正8年(1919)の古平大火で焼失した医院の代わりに新築したもので、昭和33年まで使われた。木造2階建の医院棟には1階に診察室、手術室、薬局、茶の間があり、2階には居室がある。石造2階建の倉は、明治30年(1897)頃に建てられた文庫倉である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧近藤染舗 | 旧所在地・北海道旭川市1条3丁目右1号 建築年代/大正2年(1913) 用途区分/染物業 移築年/昭和60年(1985) 近藤染舗は、明治31年(1898)に創業された旭川で最も古い染物店である。この建物は、店の繁盛に伴い大正2年(1913)に新築された店舗兼住宅である。職種の関わりから和風としたこの建物の外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよく顕している。近藤家の出身地は徳島県で、故郷に古くから伝わる藍染の技術を受け継いで始めた商売であった。店舗の裏には8個の藍壺を据え付けた染物工場があり、旭川市内や近郊の農村から注文を取って、半纏や幟、旗などを染めていた。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧本庄鉄工場 | 旧所在地・ 北海道石狩町親船町北12 建築年代/明治30年(1897) 用途区分/ 移築年/昭和60年(1985) 嘗て農村や漁村で農具や漁具を造っていた鍛冶屋を野鍛冶と称した。唐鍬や島田鍬、プラウやハローなどの畜力農機具などやサッテや刃広など林業用刃物類と藪出し用のトビ、ガンタなど、野鍛冶の手で製造されたものは多い。漁具では、鮭の刺網に用いる錨や昆布用のカギやカマ類も造っていた。 大正14年(1925)当時、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人いた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩川河口での鮭刺網漁に使う錨や舟釘の製造、家族も手伝いながら行った。火床の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造作業を繰り返す鍛冶職人の仕事は、全てが勘に頼る手仕事であった。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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青山家住宅 | 旧所在地・北海道小樽市祝津3丁目 建築年代/大正8年(1919) 用途区分/漁家 移築建物/母屋・文庫倉・石倉・板倉・米倉・網倉・外便所 移築年/昭和58・59年(1983・1984) ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧秋山家住宅 | 旧所在地・北海道羽幌町大字焼尻字白浜229 建築年代/大正8年(1919) 用途区分/漁家 移築年/昭和62年(1987) ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧ソーケシュオマベツ駅逓所 | 旧所在地・北海道虻田郡喜茂別町双葉14番地 建築年代/明治40年(1907)頃 用途区分/官設駅逓 明治28年(1895)、国は北海道の開拓を進めるために「官設駅逓所」の制度を定め、物資輸送の継立や宿泊施設を必要とする場所に駅逓を設置し、交通網の整備を図った。駅逓所で業務を行う取扱人や、駅舎、畑地、牧場、馬などは国の費用で賄われた。道内で駅逓所の数は延べ517ヶ所に及んだが鉄道などの交通機関の発展に伴い、次第に機能は失われ昭和22年に全廃されることとなった。 この駅逓所は明治40年(1907)喜茂別村と徳舜瞥村の中間地点に建てられた官設駅逓所である。実際には明治42年(1909)から営業が開始され、昭和9年(1934)まで営業が続けられた。この駅逓所では、明治44年頃、50町歩の牧場と、8頭の官馬を所有していたという。また附属する厩舎は大正4年(1915)に建てられたものを再現している。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧納内屯田兵屋 | 無指定・公開 旧所在地・北海道深川市納内町6-1 建築年代/明治28年(1895) 用途区分/屯田兵 移築年/昭和60年(1985) 納内に屯田兵が入地したのは明治28、29年頃のこと。当初の屯田兵は北辺の警備と農業開拓に従事するため主に士族から募集されたが、明治23年頃からは平民からの募集が主力となり、空知・上川・北見などの北方内陸部に屯田兵村が建設されるようになった。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧岩間家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・北海道伊達市弄月町157番地 建築年代/明治15年(1882) 用途区分/入植農家 移築年/昭和57年(1982) 当家は旧仙台藩亘理領の士族移民団の一員として明治4年に伊達市に入植した。住宅は入植して11年が経過したのちの建物であるが、かなりしっかりした構造のもので、郷里の大工によって建てられ、仙台地方の建築様式が多く採り入れられているという。 旧領主の視察の際にも立ち寄ったという由緒があり、座敷も整った格式の高い造作となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧樋口家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・北海道札幌市厚別区厚別町小野幌 建築年代/明治30年(1897) 用途区分/農家 移築年/昭和53年(1978) 樋口家は明治26年に富山県から白石村厚別に移住、当地で米作を行った農家である。周辺には富山県出身者が多く住し、越中部落と呼ばれていたらしい。住宅は郷里・富山県出身の大工によって建てられたもので、広間天井の造作は郷里富山の様式である「ワクノウチ」を採り入れたものとなっている。材料は周辺の原始林から伐り出したものを使用したといわれている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧菊田家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・北海道江別市西野幌149番地 建築年代/明治26年(1893) 用途区分/農家 移築年/昭和63年(1988) 明治19年に新潟県長岡出身の大橋一蔵や関矢孫左衛門等が北越殖民社を結成し、江別の野幌原野の開拓を計画。当住宅はこれに参画した新潟県魚沼出身者が移住直後の明治26年に山間部の豪雪地帯に位置する郷里の様式で建てたものである。のちに同じ南蒲原郡出身の菊田常吉が買い受けたという。 ▼個別解説ページへ(制作中) |