LAST STAGE.魔宮シャリーア
T.
反乱軍はすぐさま戦える者を編隊し、シャリーア神殿を目指した。
シャリーアへ向かった軍隊はゼテギネアの正規軍ではなくラシュディが召喚、契約した天使や悪魔たちだけで構成されていた事を確認しており、その数も調べがついている。
アキュレーリを拠点に南、フェアバンクス方面へトリスタン軍。
西エルズミーアを経由してレティシア軍が南下。
アキュレーリとシャリーアを隔てる高い山岳地帯にはカノープス、ギルバルド率いる大空と山肌での戦闘を得意とする者たちを伏兵にして、本拠地にはアッシュを責任者に守備を敷いた。
天軍をも味方につけた反乱軍の前にラシュディ軍は風前の灯火かに見えたが、それは現状の場合であり、ラシュディがもしディアブロを復活させるのなら話は違った。
ゼテギネアは深い雪に埋もれていたが、シャリーアには緑の大地が広がっていた。
雪は進軍を難航させるので願ってもいない事であったが、それは同時に行方の知れないガウェインの行動半径が広がった事も意味する。
程度の程はわからないが、ガウェインは怪我をしていた。
それを押してまで行く所などそれは我々と同じ、シャリーアの魔宮以外に他ならない。
ガウェインはハイランドの、ゼテギネアの聖騎士だ。
法を正し、誇りを取り戻す為に行かねばならない。
レティシアは革手袋の先を噛んだ。
「レッティ。」
幼馴染みの声にハッとする。
同じような景色の続く進軍中にあって、少し考えが過ぎてしまったようだ。
「どうした、ギル?」
「方角が少しずれていないか。」
「うそだろう?あ……いや、そうかもしれない。」
整えられた街道はないシャリーアでは、太陽の位置などで方角を得るしかなかったためレティシアは難儀していた。
ギルフォードに指摘されて、レティシアは方位を割り出して道を正す。
指摘が早かったのでそう時間は消費していないようだ。
「ありがとう、助かった。」
「いや。」
ギルフォードはレティシアの側から離れ、隊列へ戻った。
その横でひそひそと囁き辛辣な表情を向けてくる者がいる。
古参の者でも半数くらいしか、双子とレティシアが幼馴染み同士である事を知らない。
魅力的で半分信仰に近いものを捧げられている彼女に近づく者には、数人の例外をのぞき、それなりに冷たい仕打ちがされていた。
ギルフォードもその対象の一人なのである。
露骨な事はされていないのでギルフォードは歯牙にもかけずにいた。
嫉妬される事は自分が脅威だと思われている事と同意語で、それは不思議に優越感を伴っていた。
ギルフォード(及びその弟アルバート)は、レティシアとは幼い頃から家と年齢が近く、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
お転婆で負けず嫌いでおよそ女性らしいたしなみは身につけられず、(生来手先が器用なので興味がなかった為に開花しなかった才能なのだろうと思っているが)顔や身体には薄い生傷が絶えずあり、男からの喧嘩も臆せず買って勝った事もしばしばあった。(その度に母には泣かれたらしい)
長い髪は昔からで、丁寧に結われた髪は遊んで帰る頃にはぼさぼさだった。
あまりに凄かったので不器用な自分が結い直してやろうかと思うほどだったが、無邪気に笑う姿が可愛くて、彼女の機嫌を損ねるような事は言うまいと言葉を飲み続ける毎日の中で、ふと彼は気がついた。
ギルフォードはレティシアが好きだった。
だがまだ恋には幼すぎて、伝えれば友人という関係をいとも容易く壊してしまうだろう事がギルフォードには手に取るようにわかった。
だから、彼女の心が育つのをじっと待った。
…待っているうちに、住んでいた街はあらぬ疑いで焼き滅ぼされ、家族以外の全てを失う事になるなんて思いもせずに。
その時自分たちは、たまたま遠い地に父親が鍛冶師として仕事を受けたので、旅行を兼ねて遠出する事が決まり事なきを得ていた。
行った先で街が焼かれた事を知り、親の制止を振り切って弟のアルバートと飛んで帰ったのだが、黒く焼け残った家の梁が墓標のようにいくつも立っているだけで、それまであった笑顔が出迎えてくれる事は永遠になかったのである。
悲嘆にくれたのも束の間、レティシアが自分の前に現れた時には、生涯でただ一度きり心から神のはからいに感謝した。
だが再会した時には彼女はもう昔のような無邪気な笑顔を振りまく事はなくなっていた。
まるでサイノスがレティシアの身体を借りて生きているのかと思うくらい、彼女の言動は彼にそっくりになっていた。
敬愛していた兄を亡くして、彼女が生きる為に身につけた心を護る為の術なのだろうと、誰もが思った。
そうすることで彼女が少しずつでも癒されるのなら、とギルフォードもアルバートも、2人の両親でさえも黙って受け入れていたのだが、その全てが。 この日の為であると誰が想像出来ただろう?
彼女には尊敬すらおぼえた。
彼女が称賛を受けていると、自分が褒められているように嬉しかったし、誇らしかった。
そしてもう少し待てば、この恋心は伝える事が出来るだろう。
彼女が今抱えているもの全てにケリをつけない限り次には進めないと思い、ギルフォードの心は今もまだ閉じこめられたままなのである。
それを後悔するのは明日とは知らず。
U.
レティシア、トリスタンは双方共にシャリーアを攻め立てながら包囲網を狭めていった。
ラシュディ軍は島から追い出そうとするように悪魔たちの大軍を送ってきたが、天軍を率いるユーシスたちがこれを撃退し、時を見て、山岳の守備に当たらせていたカノープス等の大空部隊の半数を呼び寄せて大空からの攻撃を防いだ。
地上では抵抗を続けるラシュディ軍を蹴散らしながら前進し、シャリーア神殿の北の教会でトリスタン軍と合流する。
この時レティシア本人は最前線にいたのだが一報を聞いて、デボネアに指示を与え戦場を引っ返した。
ここからそう遠くない場所に、ガウェインが負傷しつつ居るというのである。
自分が調べて入手していた情報では、彼が聖騎士の生き残りを率いてシャリーアで敗戦し、全滅の憂き目にあったという絶望的な情報であったから、まさに吉報だった。
自分に残された大切な人だから、どんな姿形になっていてもいいから生きていて欲しい。
レティシアは切に願っていた。
その願いは苦り切ったトリスタンやアッシュたちの表情に容易く砕かれる。
何も言わなかったが、想像に難くはなかった。
「カノープス、頼む!」
戦場の直中でレティシアが一時的に離脱する事についてカノープスは当然ながら逡巡したが、トリスタンが許したのでギルバルドに目配せしてレティシアの細腰を抱えた。
首にかかるレティシアの指先が不安で冷たくなってしまっている。
「しっかりしてろよ。」
耳打ちしてカノープスは血色に煙る空を駆け抜けた。
教えられた通りの方向に小さな教会が見える。
最速で飛び続けながらカノープスはちらりと後方を確認し、追っ手がかかっている事に舌打ちした。
レティシアはその容貌からして戦場ではとても目立つから仕方がない。
負ける気はしないが一人で相手をするには少し手間がかかる人数だ。
しかし一刻も争うレティシアに助勢は頼む気はなかった。
「さ、行け。」
カノープスはレティシアを降ろし、その肩を押すと再び舞い上がる。
心配そうに叫ぶレティシアに軽く手を振った。
「いいから行けよ。そう時間はないんだから。」
指揮官の片割れが戦場を僅かなり離れるなんて、普通じゃない。
だがそんな普通じゃない事ですら叶えさせてやりたくなる。
レティシアはそんな存在だった。
しかしその我が侭はそう長くさせているわけにはいかない。
「雑魚どもッ、そんなに死にたくばかかって来いッ!」
カノープスは目の前に迫るレイブンやサタンたちへ咆吼し、襲いかかった。
レティシアは僧侶たちに案内されてガウェインの眠るベッドへと急いだ。
外では戦いの轟音が響いている。
ドアの蝶番の音で、浅い眠りから覚めたガウェインは首だけをレティシアへ向けた。
包帯でぐるぐる捲きにされ、僅かに露出する肌は黒く焼け焦げている。
シーツ(おそらく横になった時には白かった)は、流れ続けるどす黒い血で汚れていた。
部屋中に充満する血と死臭。
生きているのはまさに奇跡だ。
レティシアはたまらず泣き濡れた。
生きていてくれたが、もう助かりはしない。
信じたくないがレティシアにははっきりわかってしまった。
一縷の望みも、そこには存在しない事を。
「誰です…?」
ガウェインが問う。 もう目は霞んで見えないようだった。
名前を呼びたかったが、言葉は喉に張り付いて呼吸の音が漏れるだけだった。
のろのろとガウェインの傍に歩み寄り、そのベッド際に崩れ落ちるように膝をついた。
涙で火照る呼吸でそれが誰かと気が付いて、ガウェインは名前を呼ぶ。
「………レッティ…。」
「ガウェイン…、戦いはすぐ終わるから。そうしたらまたここに来て、昔私がしてもらったようにガウェインの身体が癒えるまで一緒にいるから…。」
「レッティ、聞いてくれ…。」
「アヴァロン島のフォーリス様の娘、アイーシャが仲間にいるんだ。彼女ならこんな怪我、すぐに治してくれる。それに、帝国で法皇の異名を持ったノルンだっている、大丈夫、絶対に助けてあげられる。」
「レッティ、私を、困らせないでくれ…。話を聞くんだ…。」
「ガウェイン…。」
「ラシュディはシャリーアで、暗黒神ディアブロを…復活させる…つもりなのだ。…ラシュディを倒して…くれ。ふ、復活を止めさせなければ…。私では力及ばなかった…。レッティ、頼む…。早く…早く、シャリーアへ…!」
喋る度に唇の端から血が伝い、枕を汚していった。
「わかった。わかったからもう喋らないで…。お願いだから生きて。私はまだあなたに何も伝えていない。何も返せていないのだから。」
「…十分だよ。」
「え?」
「もう…十分伝わった…。レッティ、お前はかつて愛する者を亡くしたけれど、…だけど、それを乗り越えて…また人を愛せる女になった。…それで、十分だ…。」
「ガウェイン。」
「幸せになれ…。どんな障害を、前にしても…決して諦めるな。レッティ、お前は…ランスロット卿を、愛して…いるのだろう?」
レティシアは頷いた。
「全てを彼に打ち明ける事だ…。信頼なくして…相手の信頼もまた…得られない。」
ガウェインの言葉に心の底を覗かれた思いがした。
求めるだけで与えようとしなかった自分の臆病さと卑怯さに改めて向き合えた。
そしてゆっくりとその言葉が身体を巡る。
人と人の交わりとはそう言うものだと、今更ながら思い出した。
我知らず口元に微笑みが浮かぶ。
「ああ…そうだね。本当にそうだ…。」
「大丈夫だ。彼は…全てを受け止めて…くれる……。大丈夫だ…。」
「ガウェイン…?」
次第に譫言の様になってきたので、レティシアは不安になって名前を呼んだ。
しかしまともな返事は返って来ない。
友の名前や、妻や子の名前、そしてエンドラへの忠誠の言葉を繰り返し続ける。
レティシアはガウェインに頬を寄せた。
敗将が死していく光景は珍しい事ではないとわかっているが、レティシアはガウェインの死を呪う。
どうして。どうして!
やがてその悲しみがざわり、と憎しみに形を変えレティシアを支配する。
大切な者たちの命を奪う者はガレス。
いつもそうだった。 贖わせてやる。 どんな事をしたとしても。
復讐に心を決めていると、ドア付近でコツンと床に鎧の当たる音が聞こえたので、レティシアは眼光厳しく振り返った。
そして、誰かを知って警戒を解く。
だが内心では何処まで話を聞かれたものかと狼狽していた。
「ランスロット、何故ここにいる?」
「お二人が飛び立った後を追う兵を見て、二人を助けよと殿下がお命じになられました。」
「カノープスはどうした?外で追っ手を食い止めていてくれていたはずだが。」
「ええ、助勢して全て殲滅しました。息を付かず戦い続けた結果、疲弊していたので、休むように言って外に待機しております。」
よく見れば返り血と泥に汚れている。
レティシアは重ねて訊いた。
「来たのはたった今か?ガウェインの言葉を聞いたか?」
「いえ…聞きませんでしたが、何か私に伝え事でも?」
「いやそうじゃない。変な事を聞いた、忘れてくれ。」
「は。」
ランスロットがじっと自分の顔を見つめているので、レティシアは慌てて背を向けて涙の後を拭った。
「世話をかける。もう少し外で待っていて貰えないか…すぐに行くから。」
「…了解した。」
ランスロットは初めてレティシアの頬を涙が流れていたのを見た。
どんなに泣きそうな顔をしていても、瞳が涙で潤んでも、彼の前では一度も泣いた事はなかった。
初めて涙を見せたレティシアはひどくか弱く見えて、哀れをかける。
そしてそこまで彼女に思われたガウェインにわずかに嫉妬した。
去りかけたランスロットの背にガウェインが細い声が届く。
「…ラ、ランス…ロット卿……、あの子を…どうか、よろしく頼む…。」
「え?」
驚いてランスロットはガウェインを凝視した。
「…あの子は、誰より…卿を…信…頼…し……」
「……? ……ッ!! ガウェイン!」
言葉は全て語られることなく、息もろともにそのまま途切れた。
レティシアはガウェインの眠るベッドに突っ伏して震える声で懇願する。
「ガウェイン…嫌だ、死なないで。…起きて……お願い…。」
「レティシア殿…。」
ランスロットは打ちひしがれる彼女に胸打たれて寄り添った。
理屈ではなく、本能とも言える生き物としての根源が、彼女を呼んでいた。
ランスロットの根底にあったのは、純粋な愛情だった。
友の様にでもなく、家族に様にでもなく。 一人の女性として愛している。
なんて遠回りをしてそれに気がついたのだろう。
最早遅くはないだろうか?
彼女は誰でもなく自分だけを再び選んで、彼女の生涯の支えとなって護らせてくれるだろうか?
ランスロットの葛藤を知らず、肩を包む暖かさにレティシアは涙が止まらなくなって、ますます顔を上げる事が出来なくなった。
壁を荒々しく叩く音でランスロットは、熱を帯びた想いに冷水を浴びせられた心地で振り返る。
反射的にレティシアの肩から手を離してしまって、それがすぐに過ちだった事に気付いた。
肩で息をしながら壁にもたれかかっていたカノープスに向かって、レティシアがランスロットの横を走り抜け、彼の胸へ飛び込んで行く。
カノープスは、初めは驚いたものの、すぐにガウェインが死んだ事に気が付いて、その身体を包むように抱きしめる。
「…残念だったな。」
この光景を見て、心穏やかでいられないのはランスロットである。
自分を求めているはずなのに何故かいつも自分と彼女の間に必ずあった一線が、二人を分け隔てる。
今まではそれでもいいと思っていた。
ゼノビアの妃になる女性と自分が結ばれるような事はあってはならない。
国の為、殿下の為、ひいては自分の夢の為。
だが、その全てが打ち砕かれた今。
自分の中の想いを全て整理し、気が付いた今となっては打破するべきものだった。
少なくとも、自分が変わった事を彼女に伝え、その上で彼女が拒絶するならば致し方ないと思えるだろう。
今を逃してしまってはもう二度と自分と彼女の距離は縮まらない確信があった。
「レティシア殿。」
ランスロットの呼びかけにレティシアの身体が跳ねる。
変わりつつある二人に、誰よりも早くカノープスが気付く。
どう続けていいか迷うランスロットから腕の中で震えるレティシアに視線を移し、とうとう時が来たのだと知った。
多分まだ付け入る余地はある。
一刻も早くここを飛び立てば自分は大切なものをこの手から零れ落とさずにすむのだろう。
だけど、それはとても誰にとって不幸だった。
レティシアとランスロットは通じ合う心を失い、カノープスは好きな女の笑顔を無くす。
喉はカラカラに乾き、心臓が早鐘のように鳴っていた。
「レティシア殿、私は…」
カノープスは手の平をランスロットへ向かって突き出した。
「待て、ランスロット。ここは、俺が先だ。」
「何?」
眉をひそめるランスロットを取り合わず、
「レッティ、顔を上げろ。」
言われるままに顔を上げたレティシアの頬に残る涙の筋をぐいぐいと指で拭い、優しく言葉を続けた。
「お前は…、お前はさ、俺をずっと逃げ場にしていたよな。誰にも見せない弱音を、俺だけには打ち明けてくれてた。それは、俺に取っちゃあ妹が増えたみたいで…くすぐったくて嬉しかったよ。」
「カノープス…?」
何を言わんとしているのか、レティシアには皆目見当が付かなかった。
いつもの彼ならばこの場所から一刻も早く連れ出してくれるのに、と思い、そしてなんだか寂しい思いが心をよぎっていく。
「だけど本当はそんな事は、自分が好きな男にするものだ。そしてそいつに支え返してもらってやっと満たされて救われるんだよ。それが出来なかったからいつまで経っても俺の所に来て泣いていた。だけどやがて俺にも打ち明けられない事実に直面してお前は苦しんでいた…違うか?」
「どうして今そんな事を言う?」
「お前が本当に好きな男は誰だ?」
「カノープス、何故?」
「潮時って事さ。」
カノープスはランスロットに視線を注ぎ、あらん限りの勇気で、レティシアの身体を押した。
「………頼むな。」
丁度カノープスとランスロットとの距離の真ん中に立つ格好になったレティシアは、カノープスに助けを求める目を向けていた。
それを振り切ってカノープスは二人を残した。
本当は彼女の言う通りにしてやりたい。 だけど、今だけは駄目なのだ。
今までずっとすれ違ってきたけれど、ランスロットが彼女への思いに気付いている今、それは過去の事になるだろう。
カノープスはそれを祈った。
レティシアは幸せになるべきなのだ。
だけども、今はただ、ただ哀しかった。
空虚になった自分の胸に微かに残る温もりが、レティシアへの想いへの残り火のようにカノープスを焦がし続ける。
外に出ると、待機していたランスロットの部下、騎士ランバルディと僧侶アガサ、3人を運んできたワイバーンが息を整えていた。
アガサがすぐにカノープスの姿に気付く。
「ランスロット様とレッティ様は?」
当然の問いに、カノープスは努めて明るく笑った。
「ああ、ちょっとなー。えっと、そのワイバーンの名は?」
「スパイルです。」
「ありがとう。じゃあスパイル、お前はそこで待機だ。よいしょと。アガサ、ちょっとの間我慢してくれるか。」
「ええ。」
ランバルディには無断で、アガサには一言断ってからその身体を小脇に抱えた。
「…何するんですか?!」
まだ立てないでいたランバルディの問いを無視し、カノープスは勢いよく大地を蹴った。
「二人はすぐに後を追って来るって。仕方ねーから俺様がお前たちを連れて帰ってやるっ。」
「あーッ!やめて下さいよ、僕はランスロット様と…ッ!」
「はいはい。また今度な!」
「きゃー、嬉しいー!」
「それに、全然低速じゃないですか!」
「やかましいッ、まだ騒ぐ気なら曲芸飛行で舌噛ませるぞ。」
アガサはカノープスのファンであるから、このハプニングには目からハートを飛ばしまくる。
果たしてランバルディは、敬愛するランスロットから遠く離される事にじたばたともがくのであった。
V.
一方。
どうしたものか、レティシアは途方に暮れていた。
信頼なくして相手の信頼もまた得られない。 この言葉をしてレティシアはランスロットにもう一度、と思ってはいたのだが…。
ランスロットの心の動きに気付いていないレティシアには、まだ彼に見放される覚悟は座っていなかったから、恐ろしさで身体が竦んでしまっていた。
背中を向けられたままのランスロットは、そうしたレティシアの不安を目で見るが如く感じていた。
「…レティシア殿。 その場所でいいから、せめてこちらを向いてくれないか。」
カノープスの厚意を無為にしないため、ランスロットは優しく呼びかけた。
だがレティシアは動けなかった。
レティシアが動いてくれないと知ると、ランスロットはそれでも良いと思った。
伝えるのに彼女の顔が見えない事は返って良いのかも知れないと思えた。
「…レティシア殿、私は貴方を護ると誓った。憶えているだろうか?」
「忘れなどしない。良く憶えている…。」
「今まで、私はその思いであなたの傍にいた。だが、どうしても最後の扉だけは私に開いてはくれなかった。私にはそれがどうしてなのか、ずっとわからずにいた。わかってみれば単純な事であるな。それは、私が自分に都合の良い貴女しか見ていなかったからだろう?人を惹き付ける一騎当千の戦女神。伝説の勇者の再来。そう呼ばれる頃には貴女が女性である事を失念していたと言っていい。」
ランスロットは過去を見るが如く語っていた。
始めてあった時の炎に似た印象。 それが自分の中での英雄としての彼女だった。
快進撃を続ける彼女はいつも凛とした笑顔でいるので、その裏に隠していた苦悩に気が付きそうになっても、彼女は強いのだ、と言い聞かせるように弱い部分を見ないようにしてきた。
それが結果的に今の状況を作り上げてしまった事をランスロットは痛感している。
「…男がある女性と共にありたいと思い、留めおくに一番良いのは想いを伝える事だろう。しかし自分にはかつて妻がいたから、その彼女への哀悼の意を示し続ける為、貴女を妻には出来…いや、しない。もとより親子ほどに歳の離れた自分は、まず貴女より先に死ぬだろう。貴女を幸せにするには遠く力及ばぬ…。もし違う方法でゼノビアに留まれる事になったとしても、貴女は印象が強すぎる。殿下の戴く冠に朱を塗る事になりかねない。しかし、トリスタン殿下は貴女を妃にと望まれた。トリスタン殿下は素晴らしい御仁だ。貴女も幸せになれると思った。そしてそれならば唯一貴女と共に在れる方法だと、私は自分の想いを封じ込め、頑として貴女に妃殿下の座を勧めたのだ。…本当に自分の利しか考えぬ勝手な男だ。」
「…それは、私の事を思い、考えてくれた結果だろう? だから、責めも恨みもしないよ。」
「ありがとう。嘘だとしても少し気が楽になる。」
どれだけ傷つけたか知れないのに、そう言える彼女の強さに驚嘆する。
ランスロットは一瞬苦い顔で笑い、すぐに精悍な顔になった。
「貴女を護りたい、それは今も変わらない。いや更に強くそう思う。貴女を他の誰でもなく私が包んでやりたい。今更と思うかも知れない。しかしもう一度、私に賭けてみてくれないか。」
その言葉にレティシアは目を見開いて振り返った。
驚きと戸惑いが入り交じって、ランスロットを知らない人に見せている。
今まで彼がこうまでして自分を求めてくれた事はなかった。
自分がそのままの彼を求める事があっても、彼がそのままの自分を求める事などなかった。
勇気がみるみるレティシアを奮い立たせた。
レティシアの視線が再び自分に向けられた事にいくらか安堵して、ランスロットは優しく囁く。
「私が貴方を支えたいのだ。」
伸ばされた手に迷いはなかった。
そして、それを求めたレティシアも迷わなかった。
あれほど近くに居て遠かった想い人の誠実で切なる願い。
レティシアはランスロットの胸に迎え入れられると、大泣きに泣いた。
ありのままに、隠すものもなく、隠すつもりもなく。
ランスロットは何も考えず、レティシアを抱きしめ続けた。
二度と自分の想いも、彼女の気持ちも裏切るまいとランスロットは思った。
レティシアは髪を撫で続けるランスロットの手が上下する度、そこに電流のような痺れを感じていた。
初めて恋を自覚した時にも走った、ある甘い痺れだ。
何度でも同じ人に、深く、更に深く恋をしてしまう。
「…ランスロット。」
「うん?」
「貴方を信頼して、私は全てを話す。それから…全てを知ってから、返事を貰えるか。」
ランスロットが頷くのを見届けてレティシアは話し始めた。
「5年…いや、もう6年前の事だ。私の住んでいた街は、ガレスの手で焼き滅ぼされたんだ。兄サイノスが必至に私を連れて逃げてくれたけど、あと一息というところで運悪くガレスと鉢合わせてしまった。」
レティシアは鎧を脱ぎ去り、白いアンダースーツを腰までおろした。
その大胆な行動にランスロットはたじろぐが、すぐに日に焼けていない白い肌に残る凄惨な傷痕に釘付けになる。
無数の傷痕が刻まれた彼女の裸体は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
その中で脇腹の傷が最も大きく醜く残っている。
「その時ガレスにつけられた戦斧の傷が、これだ。」
恥じらう様子もなく、ランスロットの目の前でレティシアは脇腹の傷に触れた。
その傷をランスロットが見た事を確認し、言葉を続けながら着衣を正す。
「痛みと寒さで私はすぐに気を失った。ガウェインの言葉によれば、サイノスは私を救う為にその場に通りかかった彼に助けを求めたのだそうだ。同情したガウェインは上に知られれば自分の身が危ないっていうのにそれに応じてくれた。それからの数日間、ガウェインは私を館に匿ってくれた。」
レティシアの瞳から透明な涙が零れるのを、ランスロットは美しいと感じた。
しかし同時にほんの少しの喪失感も感じた。
「……私はガウェインを好きになった。怪我が癒えると逃げるように私はガウェインのもとを去り、そしてサイノスの言葉を思い出していた。…『平和な世界をお前に見せてやりたい』ってよく言ってくれていた。目の前を歩く笑顔の子供たちを見ていたら、私もそれをこの子等に見せたいと思った。皆が心から笑いあえる日が来ればいい。…だけど『レティシア』じゃ駄目だから。『サイノス』じゃなきゃだめだから、サイノスになろうとした。だが結局私に出来たのはサイノスの真似事。ポルキュスを救えなかった事で痛いほどそれを思い知らされて、道に迷いかけもしたけれど、カノープスが耐えがたい苦しみや悲しみから私を救ってくれていた。」
ランスロットの片眉がはね上がったのを見てレティシアは微笑む。
「カノープスはどことなくサイノスに似ている。一緒に居て、とても落ち着く事が出来た。カノープスは私をリーダーとしてだけじゃなく、ただの女として扱ってくれた。弱い所も全て受け止めてくれた。私が声をあげて泣く場所を作ってくれた。それにどんなに救われた事か…。ランスロット、貴方でさえも私に求めていたのは『強さ』だった。」
「…そうだったな。」
「そうでなければゼテギネアを倒せないから当然の要求だ。私もそれを十分理解していたし、覚悟の上だった。」
どうしてカノープスが常に彼女に許されていたのかを知り、かつての自分の身勝手さに恥じ入る。
カノープスと自分が違うのは当然だ。
彼と違い、自分が彼女に求めたのは彼女自らが知っていた通り、『強さ』。 それだけだったから。
「でも不意に、私は大罪を犯していたのだと知らされたんだ。」
「え…?」
「サイノスが背負っていたのは万人を救う勇者たる運命。オウガバトルの再来を、地上でただ一人阻止する事の出来る運命だったのだそうだ。…ふふ。さもありなんと思うよ。我が兄ながら出来すぎていた。…嘘だと思うか?しかしフェルアーナ様が私に教えてくれたんだ。英雄を死にやった私の罪と、使命を捨てたサイノスの咎を雪げと。」
ランスロットはその使命の壮大さに言葉を失った。
細くか弱い双肩になんと重いものを背負っていたものか。
だがレティシアは毅然とした態度で力強く言い切った。
その顔は始めてあった時と何ら変色のない、炎を連想させる峻烈な美貌だった。
「私はそれを必ずやり遂げなければならない。サイノスの為、世界の為、…あなたの為に。」
レティシアは最後の一言をランスロットからぱっと視線を下に落としてから囁いた。
その可憐さにはさしもの堅物も胸を突かれる。
「あの、…カノープスも、ガウェインも大切な人だけれどそれは恩人としてだ。男性としてではないから…。」
唇から出ていくのも恥じらうような小さな声で呟いている間に、ランスロットがレティシアの傍に立った。
くるくると変化する彼女の表情に、ランスロットは笑顔を隠しきれなかった。
今の彼女はいつもカノープスの隣で見ていた、感情をむき出したままの年相応の自然な表情をしている。
それを羨ましいと思うようになったのはいつの頃だったか…。
今まで彼の翼に隠れて一番安らいだ顔をしていたレティシアに、ランスロットは心焦がされて来た。
不意に真剣な顔になったランスロットにつられるように、レティシアの顔からも笑みが消えた。
「私はレティシア殿の運命を代わって背負う事は出来ない。だが、力及ばずとも私は貴女を護りたいと、支えたいと、願う。」
少し朱に染まる頬をランスロットは優しく撫でた。
「いつでも胸を貸そう。それで貴女が使命に向かう事が出来るなら、少しでも助けになるのなら、喜んで。どんな事でも良い、私は貴女が望む事を叶えよう。」
不思議にいつも彼の言葉だけはレティシアに深く深く染みこんでくる。
賢者の教えも、神の祝福も、ランスロットの言葉には遠く及ばない。
「いいや、貴方はいつだって私の支えだった。今までも、そしてこれからも。ランスロット、大好きだよ。」
レティシアは踵を伸ばしてランスロットの逞しい首をぎゅっと抱きしめる。
ランスロットもしっかりとレティシアを抱き返し、細い首筋に顔を埋めた。
今やっと2人の間に確かなものが生まれていた。
W.
残されていた魔獣おかげでいち早く前線に戻った2人はすぐに現状況を把握し、シャリーアの防衛の一端を崩し、宮中に進入していたトリスタンのもとへと戦場を駆ける。
ランスロットが護ればレティシアが十を斬り、レティシアが守ればランスロットが十を斬る。
その戦いぶりは2人で1つのようにぴったりとしていた。
「レッティ、ランスロット、戻ったか!」
トリスタンは2人を見つけると声をかけた。
「殿下の配慮のおかげで事もなく。」
「ご苦労だった、ランスロット。」
ランスロットは略式に頭を下げるとすぐさまトリスタンへと控える。
その時、轟音と共に大地が揺れた。
狭い神殿内では逃げ場がないと兵士たちが喚きあい、不安を煽るようにパラパラと外壁の一部が崩れ落ちる。
トリスタンたちは前進を止めなかった。
時折また大地を震わせるような振動が襲い来る。
嫌な予感を振り払うように突き進む内、一同は神殿中枢部と思われる小広い部屋に辿り着いた。
剣戟の音が響いている。 誰かが戦っていた。
割れ朽ちたステンドグラスが当たりに降り注ぎ、暗く澱んだ空を覗かせていた。
幾重にも捲かれた蔦が、瓦礫と化しゆく外壁を押し留めている。
零れるように降り注ぐ粉塵の向こうでは、暗い闇と怨嗟の声を纏った鎧騎士と、もとはその臣であるデボネアが刃を交えていた。
加勢するべく駆け寄るトリスタンたちの前に夥しい数のサタンやファントムたちが立ち塞がる。
デボネアは全身を朱に染め、果敢に打ちかかっていた。
「この裏切り者めがッ、まだオレの邪魔をする気か!」
「私が裏切り者だと…!?裏切りがあったとすれば、それは貴方の方だ、王子ッ! 民を欺き、己の欲望のまま争いを巻き起こす悪鬼…それが今の貴方の姿だッ!」
「くだらぬ戯れ言を。 貴様こそ人民の愚かさを知らない馬鹿者だ。目先の利益だけを追うマヌケどもに平和などいらぬ。力だけが人間の価値を決めるのだ。愚かな人民に自由はいらぬ、大いなる力を持った者が人民を導くだけでよい。」
「それは断じて違うッ!」
魂魄の叫びと共に、デボネアのソニックブレイドがガレスの兜を捕らえた。
衝撃でガレスの兜はひび割れ、頬が露出する。
その攻撃とクロスしてガレスの震った斧が、デボネアの身体を抉り血飛沫があたりの床を濡らした。
辛くも身を捻ったおかげで致命傷にはなっていないが、彼はその場に片膝を付く。
「人は力のみにあらずッ!人は悩み、苦しむ動物だ。だからこそ慈しむ心がある。慈愛なくして人と言えようか。…私は貴方を憎んだりはしない。ただ哀れむのみ…。」
振り上げられた戦斧に、やむなしと目を閉じたデボネアの窮地を救ったのは、ノルンとアイーシャが放つ白い閃光だった。
神に仕える者たちが放つ聖なる光は、暗黒道に身を置くガレスの網膜ばかりか、その身を焦がした。
黒い鎧からしゅうしゅうと煙が昇り、肉と脂が焼ける悪臭がする。
「おのれ、小癪なッ!」
距離を取り大事を避けようとするガレスへ、サタンたちを退けていち早く斬り掛かったのはレティシアだった。
その剣戟を防ぎ、やがて視界を取り戻したガレスが吼える。
一人二人と混戦を制した者たちからレティシアの後に続き、ガレスに斬りかかった。
しかし視界を取り戻したガレスはその猛攻を防ぎ、退かぬ倒れぬの戦いぶりを見せつける。
「ガレスッ!今日こそ母の仇を取らせてもらうッ!!」
血気盛んに叫んだアイーシャをガレスは鼻でせせら笑った。
「アヴァロンの小娘か。懲りもせずにオレの前に現れるか。丁度良いわ。お前の血と肉をディアブロ復活の贄にしてやろうッ!」
「…私はあなたを許さない。神の名の下にあなたを倒す!」
「ディアブロの復活なんてさせないわ、ガレス王子!」
ラウニィーの放つ雷光の如きオズリックスピアが左肘部分の鎧の継ぎ目を刺し貫いた。
怯んだ隙をついてトリスタンの剣が強かに鎧を打つ。
漆黒の鎧にヒビが入り、ガレスが呻いた。
「父母の、兄の、ガウェインの、…貴様が今までに奪った全ての命の償いをせよ!」
レティシアは獅子の如き咆吼と共に、ガレスの額を真っ二つに切り下げた。
ランスロットもガレスのひび割れた鎧の隙間から心臓を差し貫く。
ガレスの絶叫が響いた。
「オオオ…不死身のガレスが…負ける…負けてしまう…ッ。む、無念だ…。あと少しで世界を手に入れられたものをッ…。」
倒れ伏したガレスは、滅びゆく身体になす術なく呪詛を吐いた。
ギロリと赤く光る瞳がレティシアに向けられる。
「あの時…ッ、貴様を確実に殺しておけばこんな事にはならなかった。我が不覚よ、おのれ…。」
「いいや。私が仮にあの場で死んでいたとしても、やがて貴様は滅ぼされただろう。人の道を外した者には破滅しか訪れはしない。貴様は自らの手で運命を決めたのだ。」
ズゥン、とひどく大きな地鳴りがした。
蔦で留められていた外壁も今の衝撃で次々に落ち、床で砕ける。
何事かと辺りを見回すレティシアたちにガレスは嘲笑みを浮かべた。
「クックック…。お前たちがどう足掻こうとももう遅い。暗黒神ディアブロの復活はもう始まっているのだ…。お前たちが死ぬところを見られないのは残念だが、一足先に地獄で待っているとしよう。ああ、聞こえるぞ…ヤツの息づかいが…なんと心地よいのだ……。」
ガレスは身体が見る間に朽ち、死に絶えるその瞬間まで笑っていた。
「!! 皆、私の後ろへお隠れあれ!」
突如サラディンが叫ぶ。
呪文を唱え、前方に防護魔法を織り上げたが、逃げ遅れた者たちは全て業火に舐め尽くされた。
断末魔の声も残らないほどの熱量に、サラディンの魔法の内にいても、顔を向ければ肺腑が溶けるような熱さだった。
収束していく炎の向こうで揺れる姿が確認された。
どうやってその場に現れたのか、知性的な瞳に野望を燃やした老賢者。 ラシュディその人であった。