STAGE27.ゼテギネア
T.
ああ。頭の中で鐘が鳴り響いている。鐘…?いや違う、これは…。
固く握っていた手のひらをゆっくり開き、レティシアは懸命に意識を集中させた。
ひどい眩暈に揺れ続ける視界の、ある一点を見つめなんとか焦点を合わせる。
しっかりしろ!と、もう一人の冷静な自分が叱咤するが、突然もたらされた『ガウェインの死』という報告は思ったよりもレティシアにとって衝撃的だった。
大切なものは、自分のもとに残らないのか、とただ天を恨む。
真っ青な顔のまま黙り込んだレティシアにアッシュは困惑した。
「…貴女は少し疲れているようだな。」
「いや、大丈夫だ。心配には及ばない。」
「いいから。」
「心配ないッ!」
レティシアは驚いたアッシュの顔を見て、彼の手を振り払った事を後悔した。
針のように突き刺さる皆の視線をどう対処したものか…。
レティシアはこの場を取り繕う言い訳を必至に考えた。
そんな中、ウォーレンだけがレティシアの前へ臆せず進み出る。
特に変わった様子もなく、いつも通りの平静さで。
「レティシア、こちらへ。」
結局助けられる形でレティシアは言われるがままウォーレンの後を歩いた。
二人の姿が視界から消えると、皆ざわざわとさざめき、口々に不安を訴えはじめた。
今ここで彼女を失う事を恐れるあまりに、悪い方向へばかり思考がめぐる。
「静まれ。」
そうたしなめるランスロットやデボネアたちの声にも戸惑いは隠しきれておらず、皆の不安を煽るだけになった。
アッシュのどっしりとした雰囲気だけが、唯一皆の不安を和らげる。
ランスロットやデボネアは、それを見てやはりアッシュの大きさを感じずにはいられなかった。
一方、レティシアを連れ出したウォーレンは、寒風吹き荒ぶバルコニーを開け放ち、北西に見える都を彼女に指し示した。
肌を刺す冷たさに身体が縮む。
「見なさい、あれが帝都ゼテギネア。…帝国の中心地であり、女帝エンドラと魔導師ラシュディがいる城です。」
舞う雪にその巨大な姿を隠すことなく、都は在る。
闇に浮かぶ為か、その城を包む空間が重苦しくどんよりとしているように見え、見る者の心の不安をかき立てた。
同時にズキン、と鈍い痛みがレティシアの頭蓋を締め付ける。
「もう最後の戦いが近い。皆に不安を与えるような振る舞いは極力避けるべきですぞ。」
「…そうだな、私の配慮が足りずに面倒をかけた。」
「時として、指導者は己を捨てなければなりません。そのゼテギネアの聖騎士が貴女とどんな関係があったとしても、既に我々は坂を転がり落ちていく石のように、もう止まる事は出来ません。衝撃で坂の途中で砕け散ってしまう事があったとしても、もう止まる事はないのです。砕けるかこのまま行けるかは、既に貴女一人にかかっているのですよ。」
ウォーレンの言葉は優しげに聞こえるが、その実ひどくレティシアを縛り付けていた。
もしその息苦しさに喘いでみても、ウォーレンは彼女を離さないだろう。
もちろんレティシアもそれは百も承知だった。
「…ウォーレン、私は生半な覚悟で反旗を翻したのではない。」
その言葉にウォーレンが目を細める。
「そう心が決まっているのであれば、大丈夫ですかな。」
「すまなかったな。」
正気に返ればきっとこの優しい娘は自らの罪に苦しむのだろうと、ウォーレンには容易く予測出来た。
だがそれでもまいた種が芽吹くまで、進むしかない。
その結果が彼女の心を壊してしまうとしても。
「……。」
「レティシア?どうかしましたか?」
「…この気配…まさか。…でも間違える訳ないッ。」
独り言のように呟くと、レティシアはバルコニーを飛び越えた。
「レ…!!?」
降り積もった雪が、レティシアの足腰に負担をかけずに優しく受け止める。
「全ての悪を打ち砕く鉄の輪車に乗りし勇者ロキよ。手にせし破壊の鉄槌をもって、今我が望みの為にその力を振るえ!汝、名をチャリオット!!」
レティシアは懐から一枚のタロットカードを取り出し、眼前に突き出して魔力を解放した。
屈強な肉体の闘士が姿を垣間見せ、手にした巨大な鉄の鎚でザナデュの強固な砦壁を粉々に砕く。
大きな音を立てて白い煙がもうもうと天へ上った。
その煙の向こうに人影を確認し、レティシアはウォーレンへ叫ぶ。
「ウォーレン、敵襲だ!」
「クククククク…。」
聞き覚えのある低い笑い声に、ウォーレンもレティシアも肌が泡立つ。
その黒い鎧は度重なる戦いの爪痕を残していたが、黒い兜の奥底でギラギラと光る赤い瞳は寸分とも変わっていない。
「ガレス!?」
ウォーレンの驚愕の声を皮切りに、レティシアは咆吼してガレスに斬り掛かった。
ズキズキと脈打つ度頭蓋に走る痛みも、怒りに染まったレティシアの妨げになる事はなかった。
いつもは自信たっぷりに口上を垂れるガレスが、今は無口である事にレティシアは気付いていた。
何故ここに突然ガレスが現れたのか、…いや、多分これはガレス本体ではない。
しかしガレスではなくとも、酷似したこの黒騎士を倒せば少しは気が晴れるのではないか?
レティシアはそれに気付いていたが、今はただガウェインへの弔いだと言わんばかりに自らを支配する烈火の如き怒りに身を委ねた。
戦斧と聖剣が火花を散らしながらぶつかり合い、互いの身体に傷を作っていく。
斬り結ぶうちに、ブリュンヒルドがガレスの一瞬の隙をついて黒鎧を差し貫いた。
斬られた亀裂からは濁った白い煙が立ち上る。
「クククククククク…。」
壊れたおもちゃのようにガレスは笑い続けた。
レティシアはその耳障りな笑いを止めようと、鈍く光る瞳にブリュンヒルドを突き立てる。
断末魔もなく、ガレスの身体がサラサラと黒い塵に変わって行った。
レティシアはそれを最期まで見届けることなく砦の正面へと走る。
戦いの声が近づき、目視出来るようになって、レティシアは驚きに目を見開いた。
幾つかのグループに分かれ、戦闘を繰り広げている反乱軍たちの相手は、全て『ガレス』をリーダーとしていた。
だが、違う。
レティシアは直感的にそう感じた。
迷わずに戦場へ飛び込んで『ガレス』を数体切り倒す。
だが次々と『ガレス』がザナデュを攻め立て、その戦闘力の高さに反乱軍は徐々に疲弊していった。
数十人にも及ぶ『ガレス』の襲撃が止んだのは、太陽が白い光を大陸に投げる頃だった。
U.
ランスロットはレティシアに気をかけながら、彼女の下を訪れる余裕がない事を苦々しく思っていた。
昨夜の彼女は様子がおかしかった。
突然の『ガレス』たちの襲撃によってレティシアと会う時間が取れなかったのに加え、今日はまだ彼女の姿を一目とも見る事は出来ていない。
トリスタン皇子に呼ばれているのでなければ、ランスロットはレティシアに会いに行きたかった。
「…おや?」
皇子の部屋の手前でラウニィーとトリスタンの姿を見つけ、声をかけようと思ったが、何故かいつもとは違う雰囲気を感じて思い止まった。
この角を曲がれば自分の姿は相手に見えただろうに、自らの姿をさらすのも躊躇う感じがした。
互いとの距離が異様に近く、これではまるで…。
ランスロットが眉をひそめている間に、二人は微笑みあい、軽い口づけを交わした。
「…ッ!!?」
驚いて一歩後ろに下がったランスロットの鎧が壁に擦れて、耳障りな金属音をたてる。
その音に驚いたトリスタンとラウニィーは、ランスロットの姿を見つけてばつの悪そうな顔をした。
「ランスロット…!」
「し…失礼を…。」
トリスタンに名前を呼ばれ、ランスロットは反射的に謝罪した。
彼は今、混乱していた。
こんな場面に遭遇した場合のマニュアルがおよそ浮かばない。
そうとは知らないラウニィーが、ランスロットを見て、はにかむような笑顔を見せる。
いつものキリッとした理知的な顔とは全く違い、わずかに染めた頬の薔薇色は見る者の心の奥底を震わせた。
「…そうだな、ランスロットには話しておくか。」
それまで暫し考えを巡らせていたトリスタンはラウニィーの肩を抱くと
「ゼテギネア…いや、ラシュディを討ち、ゼノビアを復興した後、私はラウニィーを正妃に迎える事にしたんだ。」
その言葉にランスロットは裏切られた思いで愕然とする。
ランスロットの脳裏には突然雷鳴にうたれたようにレティシアが浮かんだ。
彼の脳裏では裏切りに愕然とし、しかしそれを寛容に許す哀しい女性の顔をしていた。
「殿下ッ!」
「うん?」
「殿下は、レティシア殿をお選びになったのではなかったですか!?」
当然祝ってくれるだろうと思っていたランスロットの尋常ならざる剣幕に驚きを見せたが、レティシアという名前にさっと顔色を変えた。
「ランスロット、控えろ。」
「何故彼女に腕輪を贈られたのですッ!?」
「控えろと言っている!!」
トリスタンの怒号に、ランスロットは出過ぎた事を今更ながら思い出した。
爛々と怒りに燃えるトリスタンに恐怖すら覚えた。
「彼女には、象徴として聖剣ブリュンヒルド、聖杯、腕輪を預けたに過ぎぬ。戦いが終われば再び私の手元に戻るだろう。他に何か言いたい事はあるか?」
トリスタンはラウニィーの肩を抱く右手に力を込め、眦を吊り上げたまま怒りを押し殺しながら淡々と答えた。
どちらかというと自分に怪訝な視線を送るラウニィーに聞かせたかったのかもしれない。
「いえ、出過ぎた事、お詫び申し上げます。申し訳ございません…。」
「良い。だがこれ以上は、私とラウニィーへの暴言とみなす。私は彼女を選んだのだ!」
ランスロットはぎり、と拳を握った。
「私では役不足かしら…?やはり貴方も私よりレッティのほうがゼノビア王妃に相応しいと思うの?」
哀しそうなラウニィーにランスロットは慌てて首を振った。
ラウニィーにもレティシアが新しい国を統治する事を望む気持ちがある。
そして彼女には敵わないと言う劣等感さえも。
だが自分はトリスタンを愛してしまった。 そして彼も自分を選んでくれたのだ。
どんな茨の道を行こうとも、彼の為に耐えるつもりがあった。
しかし責めるようなランスロットの言葉に確固としたはずの決意が鈍る。
この上なく彼女を傷つけた事を知って、ランスロットは冷や汗が止まらなかった。
「いいえ、そうは申しておりません。ご容赦を。」
ランスロットは怒りの矛先を失い、そして言葉をも失っていた。
自分がそれを望んでいるにもかかわらず、頑として彼女を受け入れずにいた事の意味を失い、彼女を突き放す度ひどく落ち込んだ事が次々ランスロットの心を駆けめぐる。
それはトリスタンがレティシアを愛していると知っているからこそ。
「ラウニィー、何も心配するな。」
「…ええ…。」
トリスタンは沈んだラウニィーに優しく触れ、元気付けるとそこで彼女とは別れた。
ランスロットにしてみればまるで、つまらない映画でも見ているような、そんな関心の向かない光景だった。
ラウニィーに文句があるわけではない。
彼女は『正義』の名の下に反乱軍に身を寄せ、先のザナデュ戦では実父と戦い抜く事で確固たる覚悟を見せつけた。
意志の強さ、身分、容姿、器量。
全てレティシアに勝るとも劣らない。
「ランスロット。」
トリスタンに呼ばれ意識を取り戻したランスロットは、自分の中に再び、ねじ伏せがたい狂おしい嵐が到来している事を自覚せずにはいられなかった。
V.
ノルンは一人、日の差さない雪道を歩いていた。
ゼテギネアの雪はこんなにも人を拒む冷たさであったろうか?
昔は違っていた気がする…。
ノルンはそんな事をぼんやりと考え、足下の雪を蹴った。
やがて目の当たりにするであろうデボネアの苦悩を思う度に心が痛み、雪の冷たさを感じる度に"それ"が間近に迫って来ている事を感じずにはいられなかった。
「ノルン?」
「…クァス。」
「どうした、こんなところで?」
「うん…、ちょっと気分転換にと思って。」
「そうか。」
最近、ノルンの笑顔に元気がないのをデボネアは気付いていた。
その原因が自分である事も、聡明な彼は気付いている。
「そうだ、ガレス王子が通っていた教会が本国にあると言われていたのだが、ノルンはそれが何処にあるのか知らないか?」
「え…?ええ、そうね…。」
帝国において彼女は教会最高位司祭、法皇と呼ばれた女性である。
かつてはゼテギネア領の教会に関する全てを把握していた。
ノ
ルンは昔の記憶を引っ張り出す為に頬に手をやる。
デボネアが見慣れた、彼女の癖の一つだった。
「北東の山岳の合間に古い教会があったわ。正確な位置は知らないけれど、そこじゃないかしら。ガレス王子が洗礼を受けた教会だと聞いた事があるわ。」
「そうか。レティシアに伝えて、調べてもらう事にしよう。行こう、ノルン。」
差し出された手をノルンは取った。
まだゼテギネアの録を食んでいた頃には言えた甘え事、『離さないでね』という言葉が今は言えなかった。
もしも彼に躊躇われてしまったら、自分の支えが無くなってしまう。
その証拠は欲しくなかった。
限りなく確信に近くてもまだ、不確かな予感のままでいたかった。
レティシアはノルンとデボネアの報告を受けて北東の山岳を調べさせ、確証を得るとそこへアッシュとサラディンを含む2部隊を派遣した。
夕暮れが近く、2部隊の移動速度の関係上今夜半に到着と見ている為、陽が落ちればまた大群の『ガレス』がザナデュに迫る事だろう。
レティシアは迎撃体制を整えながら、深呼吸を繰り返し、地平線を睨み付けていた。
「レッティ様。」
レティシアは個人的にある情報を集めさせた忍者マスターたちの姿を見つけ、砦へ戻った。
彼らにはゼテギネアの内部へ潜り込んで貰っており、その危険性からして彼らにしか頼めない作業であった。
「どうだった?」
「は、帝都ゼテギネアで聖騎士たちの処刑がガレス王子の手で行なわれたのは確かです。…いえ、無抵抗な聖騎士たちをガレス王子が一方的に殺したようなので、虐殺と言うべきですか。聖騎士たちは女帝エンドラに戦いをやめるように進言したそうですが、それが逆に怒りを買ったようです。」
「…そうか。」
レティシアは額を押さえた。
「ですが処刑前夜、反戦派の城塞都市マトルーの民が、囚われた聖騎士たちを救う為に救出部隊を編成して処刑前夜に城に忍び込み、何人かの聖騎士を助け出したそうです。名前までは確認出来ませんでしたが、マトルーの南の城塞都市、アズザウィアにその姿を潜めているそうです。」
「わかった、ご苦労だったな。」
「いえ。」
レティシアは忍者マスターを下げると、持ち場へと戻った。
陽が落ちる。
自分の考えが正しければ、アッシュとサラディンは自分の望む結果を持って帰って来てくれる事だろう。
暗黒魔法の一端に、『精神と肉体の分離』があるとデネブが教えてくれた。
以前に対峙したアルビレオが一見不可能にしか思えない『転生の秘術』というものを使っている事から、あながち不可能な事ではないのだろう。
その考えを肯定するように、刃を交えていたガレスが突然しゅうしゅうと煙を吐き、倒れた。
他の皆は何が起こったのかわからず、怪訝な顔のまま、ガレスが引き連れて来たスケルトンナイトたちを駆逐して行った。
後に戻ったアッシュとサラディンが、ガレスが教会の中で儀式を行っていた事を報告した。
推測するに今まで、我々が戦ってきたガレスは本人ではなく、そもそもガレスはラシュディの魔法によって精神と肉体を分離した故の、不死身の騎士だったのだろう。
アヴァロン島やシャングリラ、そしてこのゼテギネアで戦っていたガレスは、黒い鎧をまとった精神体だけの存在。
つまり我々は苦労を重ね、黒い鎧と戦っていただけなのだ。
「それで、ガレスは?」
「教会内に気配を察知し、包囲網を敷きましたが辛くも破られ、取り逃がしてしまいました。」
アッシュは深く頭を下げ詫びる。
「…それと…去り際に気になる事を言っておりました。」
「なんだ?」
「諦めぬ、と…。ラシュディと共にこの大陸を手にする為、我々と遊んでいる暇はないのだと、そう言い残して刃を交える事もせずに撤退致しました。」
「エンドラは…切り捨てられたか…。」
トリスタンは瞬間エンドラを哀れに思う。
レティシアはアッシュの言葉を苦く噛み締めた。
帝都でガレスの姿を見たと報告があったが、それも精神体なのだろう。
…では本体はエンドラを捨てて、ラシュディと何を成す為に何処へ行く?
わからない。
わからないけれど何故かレティシアは冷たい汗が滲むのを止められなかった。
W.
処刑を免れたゼテギネアの聖騎士の話は、トリスタンも興味を抱いた。
レティシアは全軍をゼテギネアへと詰めつつアズサヴィアから、そこに潜伏する聖騎士たちを呼び寄せるように手配した。
もちろん、聖騎士たちの体力と怪我の有無からこちらから出向く事も考えたのだが、それには及ばなかったようだ。
仮眠を取っていたレティシアのもとに聖騎士到着の知らせが入ったのは半日を経過し、朝方の事だった。
すぐに支度を整え、レティシアは彼らの代表だという騎士に会いに行った。
その騎士の名前はガウェイン。
レティシアがその安否をひどく気にしていた人だった。
このドアの向こうに今まで会いたかった人がいるという現実は、風の強い日の水面のようにレティシアの心を波立たせていた。
サイノスの理想と彼への気持ちを支えに、5年という月日を生き永らえる事が出来た事を思えば、ガウェインはレティシアにとって大切な人だった。
だが会いたかった反面、こうしてゼテギネアを、彼を追いつめて行ってしまった事への罪悪感がある。
受け入れられないどころか罵られても仕方ない事をしてしまった自覚がある。
恐れはレティシアの指先を震わせた。
しかしぐずぐずしているとすぐにトリスタンがこの部屋を訪れ、二人で話す機会が失われてしまう。
ドアを叩いてガウェインに顔を晒す決心をつけるまでには暫くかかったが、レティシアは息を呑んでドアを軽く叩き、開いた。
整った目鼻立ちの黄金の鎧を身に纏った騎士がレティシアを戸惑いながら見つめた。
兜を脱いでいたので、以前には無かった傷跡が頬に刻まれている事、5年という月日が彼にとってどんな時間だったのかが伺える皺やなんかを、レティシアはまじまじと見つめた。
ガウェインは声を無くしていた。
鮮烈な紅い髪はかつてのままでも、自分の記憶とは比べものにならないくらい美しく成長していて、確認するまでは5年前の少女と同一人物だとは決めつけられない。
「…レティ…シア…なのか?」
「ガウェイン!」
レティシアは叫ぶなり、ガウェインに飛び込んだ。
驚くばかりでレティシアを支えきれなかったガウェインは、数歩後退してベッドに足を取られ、レティシアを抱えたまま真後ろに倒れ込む。
「ガウェイン?!」
まさか押し倒す事になるとは思わなかったレティシアは吃驚してガウェインの顔を覗き込んだ。
困っていたが、その顔は笑っていた。
「…やはりレティシアなんだな?反乱軍のリーダーの名前がレティシアと聞いて、まさかと思っていたんだが…また生きてお前に会えるとは思わなかった。嬉しいぞ!」
ガウェインはレティシアを抱き返した。
それまで抱えていたわだかまりが淡雪のように溶けていく。
「ガウェインこそ、良く無事で…!」
「あれからずっとお前の事は案じていた。本当に…、本当にこうして生きて会えて嬉しい。」
「私はあの時には言えなかったお礼を言いたかった。助けてくれてありがとう…。」
レティシアはガウェインが無事だった安堵と、ガウェインが自分の身を本当に案じてくれていた事を知って一筋の涙を零した。
ガウェインは苦笑を浮かべてその涙を拭う。
「私はレティシアの泣き顔ばかり見ているな。」
突然ガウェインは不意に苦痛に顔を歪めたので、慌ててレティシアはガウェインの上から飛び退いた。
「大丈夫だ…。」
「顔色が…!」
レティシアは遅まきながら気がついて、アイーシャを呼ぼうとベッドを飛び降りる。
その手が、ガウェインによって捕まれた。
「いいんだ。それよりも…レティシア、お前の今までを話してくれ。私と別れ、一人で何を見、何を決め、此処にいるのか。」
「ガウェイン…。ごめんなさい、あなたには恩を仇で返すような形になっ…」
ガウェインはレティシアの唇を優しく手の平で塞ぎ、遮った。
「そんな顔をするな。それに謝ってほしいわけでもない。」
「でも!」
と、突然ガウェインはレティシアの身体を引き離した。
いつから居たのか、振り返るとトリスタンが立っていたので、みっともない今の姿を見られていたのだろうと内心レティシアは慌てふためいた。
かあっと顔が赤くなるのを感じる。
その後ろにランスロットの姿があった事も、加えてショックだった。
とりわけ彼には無様な格好を見せたくないのに。
ガウェインは姿勢を正してトリスタンの前に跪いた。
「貴公がゼテギネアの聖騎士、ガウェインなのだろう?」
「はい、失礼致しました。私の名はガウェイン。聖騎士の生き残りです。」
レティシアは二人だけの時間は終わった事を理解し、トリスタンの隣からガウェインと向き合った。
「面を上げよ、ガウェイン卿。」
「早速なのですが聞いて頂きたい事があります。我々は魔導師ラシュディの真の狙いを突き止める事が出来ました。」
トリスタンたちが息を呑む音を聞いて、ガウェインは言葉を続けた。
「ラシュディの狙いはただ一つ、『神を超える力』を手にする事…。我らハイランドに協力したのも、帝国の力を使って『十二使徒の証』を探し出す為だったのです。我ら聖騎士はその真実を殿下にお知らせしましたが、殿下のお心は時既に遅く、暗黒道に…。」
「『神を越える力』…?」
「はい。」
それ以上の事はガウェインも知らないのだろう。
トリスタンはレティシアにもの言いたげな視線を送っただけで、ガウェインに視線を戻した。
「我々の力ではもう及ばないのです。筋が違う事は重々承知ですがどうか殿下を止めて下さい。」
「我々に協力するというのだな?」
「…我ら聖騎士はハイランドの法と正義を守るのが役目。」
ガウェインは精悍な目をトリスタンに向けた。
「トリスタン皇子、彼の思想は我々の目的と合致する。彼の協力を仰ごう。」
先程自分の胸に飛び込んできた時とは打って変わったレティシアの声と口調に、ガウェインは軽い驚きを覚える。
その表情もがらりと変わっていた。
「依存はない。ではゼテギネア城内部の事を教えて貰おうか。」
「ガウェイン、さあ立ってくれ。」
レティシアはガウェインの手を取って立ち上がらせる。
その様子を眺めながら、以前にレティシアが言っていた『心に決めた人』というのが彼なのだろうかと思うとトリスタンはちりちりと胸の奥が焦げ付く思いがした。
レティシアの心の動向に今でも揺れてしまう自分に驚き、そして腹立たしく思った。
「…レッティ。何故彼と面識がある?」
「聞いてどうする? 私と帝国が繋がっているとでも思っているのか?」
「そうは言っていない。」
「じゃあいいだろう?」
顔を曇らせる皇子にレティシアはにっこりと笑いかける。
話題を誤魔化す微笑みだと、誰の目にも明らかだった。
ガウェインはレティシアの顔をちらりと見やる。
自分と彼女との出会いのくだりを話す事は簡単だが、彼女が進んで話したがらない内容であるのは今のやりとりから間違いない。
しかし下手に秘密にして、反乱軍内で立場が微妙にでも変化するのは望まない。
ガウェインは言葉を選んでから答えた。
「誓って今の彼女と私とは何の関係もありません。彼女とは昔、数日間共に生活しただけです。その後はどちらからも連絡の取りようもありませんでした。」
「ガウェイン…!」
答えるつもりのなかったレティシアが驚いて黄金の聖騎士を見る。
助け船を出したのはランスロットだった。
「殿下、諸将らを集めて急ぎ軍議に入りましょう。今は速やかにゼテギネアを陥落させる事です。」
「…そうだな。」
トリスタンはレティシアにどうする?と視線を送った。
「ガウェインと共に後で行く。先に行っていてくれ。」
「わかった。」
トリスタンはランスロットを促して部屋を出ていった。
その後ろをついて歩くランスロットがドアを掴む手を止め、レティシアを見つめる。
「…ランスロット?」
レティシアがその視線に気付くと、彼は静かに頭を下げドアを閉じた。
ランスロットのその表情が気になって、閉められたドアから目を反らせないでいるとガウェインがレティシアの肩に手を置いた。
「彼が恋人?」
「まさか。」
「彼には話したらどうだ?」
「弱みを晒したくない。ランスロットに必要な私は、反乱軍のリーダーとしての私。」
「でも愛している。…違うか? 今の様子だと、多分誤解されたぞ。私の言葉が悪かったようだ。弁明はしておいた方が良いだろう。」
ガウェインの諭すような言葉にレティシアは振り返った。
「必要ない。もうとっくにフラレてる。」
ランスロットが自分を愛しているとまで行かなかったとしても、大切にしてくれている事は十二分に伝わっていた。
だけれどこの先自分が望むような展開が待っているとも思えない。
ランスロットが騎士である限り、きっと彼とは『心』以外結ばれないのだとレティシアは考えていた。
もちろん自分が本当の自分を彼に晒す事が出来ていないのだから、彼が一方的に悪いのではない。
むしろ非は自分の方にある。
レティシアの切なそうな顔を見て、ガウェインはその頭を軽く抱きしめた。
男から見て、今のランスロットの表情には明らかに嫉妬が伺えたと思うのだが…。
ガウェインはそう思ったがレティシアを思いやるあまり、言葉にはしなかった。
軽々しく踏み込んで傷を広げるのを恐れたのである。
X.
ゼテギネアには既に主だった将はなく、人を贄に女帝エンドラと魔術師ラシュディによって大量の悪鬼たちが召還されているらしく、時間の経過と共にその数を増やしていた。
四天王に続いてヒカシュー大将軍を討ち取られた事で、如何にハイランドが軍事国家といえどもその敗北を認めざるを無い。
その上恐怖政治で人身の心を縛る帝国と、その解放を訴える反乱軍。
どちらに義があるかは明白であった。
ガウェインは政治犯として捕らえられる前までの軍事力などを包み隠さず話した。
その話をもとにトリスタンとレティシアは軍を配備し、ついにゼテギネア侵攻の時が来た―――。
情報通りゼテギネア軍には既に人の姿は少なく、悪鬼たちが主力となっていた為、天使たちや天空の三騎士の力を借りざるを得なくなっていたが、彼らの力は圧倒的で、ゼテギネアの陥落は目前に迫っていた。
カノープス・ギルバルドが率いる大空部隊は機を見てレティシアが合図を出せば、一斉に空を制圧する手筈になっており、レティシアはじっとその機会を待っていた。
そのかたわらには黄金の鎧の聖騎士が居る。
彼のたっての希望で帝都ゼテギネア陥落を見届ける為だったのだが、その彼の顔色が、時間が経つにつれて悪くなっていくのを見て、レティシアが気遣わしげに声をかけた。
「ガウェイン、大丈夫か?」
「ああ。」
レティシアはガウェインの身体の状態を把握させてはもらえていなかった。
処刑場からどんな状態で救出されたかとか、負った傷の具合など、ガウェインは知られる事を一切拒絶した為である。
「レッティ様。」
「殿下から連絡が入ったか?」
エンチャンターのエルモンドが頷く。
「只今入りました。ゼテギネアの包囲は順調に進み、程なくして完了との事です。」
「念の為、後続部隊を送れ。」
「はっ。」
「本当ならもう一つ、決め手が欲しい所なんだが…。」
呟くそばから、トリスタン指揮下の軍がそのきっかけを作った。
トリスタンの采配はここに来て開花していた。
レティシアは不適に微笑む。
その好機を見逃さずレティシアは全軍に合図を送った。
ゼテギネア城へと詰めるレティシアの傍から黙ってガウェインが姿を消したのは間もなくの事だった。
レティシアはゼテギネア城の中に突入すると、サタンたちを倒しながらエンドラを探した。
城の中はおびただしい血と鉄の臭いが充満しており、眩暈がする程だ。
血糊に足を取られないよう気を配りながら疾駆する。
「ええい、なんて広い城だッ!」
レティシアは苛立たしげに吐き捨てた。
後ろを走ってついてくる双子の騎士とアイーシャの息が上がり始める。
中庭では次々と空からゼテギネア、反乱軍を問わず、血の雨を降らせ時折重いものが落下する嫌な音が響いた。
無尽蔵に湧き出るサタンたちの召喚は、おそらくエンドラの技なのだろう。
このままでは被害が拡大していく。
焦り始めたレティシアは、血煙る廊下の向こうに長身の将軍の姿を見つけた。
デボネアもレティシアの姿を見つけて大きく招き寄せる身振りをした。
「エンドラの居場所に心当たりが!?」
「陛下ならおそらくは玉座から動かないだろう。」
それきりデボネアは無言になった。
長い廊下を抜け、細かい装飾が幾重にも施された大きな両開きの扉を開く。
漆黒の女帝は王座に座したままで居た。
「殿下…!」
デボネアは絶句した。
プラチナブロンドの長い髪に、サファイヤも彼女の前では色あせる程に煌めく蒼き双眸。
その眼差しは魂すら凍ってしまいそうに冷たく、身震いがした。
肌は陶器のように滑らかな乳白色で、血の色にも似た深紅が唇を彩っている。
その身にまとう衣装によってむき出しにされた両足がレティシアたちの前でゆったりと組み替えられた。
「ついに我が前に現れたか。その勇気を褒めてやるぞ。」
「エンドラ、帝国はもうお終いだ。」
「バカな。このエンドラが負けるものか。」
エンドラは喉の奥で妖艶な笑いを響かせた。
ここまで来てもまだ彼女は自らの勝利を疑っていなかった。
ゼテギネアの精鋭たち全てが倒れようと、自分が皆殺しにすればゼテギネアは続いていくのだと確信しているようだった。
エンドラはレティシアのすぐ後ろに見知った顔がある事にようやく気がつく。
「…デボネアか。恥ずかしげもなく我が前に現れるとは。」
エンドラの豹変ぶりに呆然としていたデボネアはエンドラの注意が自分に向いた事ではっとした。
「殿下!戦いをおやめ下さい。今ならまだ間に合います!」
「何を言うか、この恩義を知らぬ痴れ者め!」
エンドラは竜の如き激しい一喝をデボネアに浴びせる。
その美しい顔を憎悪に染め、王座を立ち上がった。
「よく聞けいッ!崇高なる我が理想を阻む愚かな者どもよッ!遙か北のローディス教国はこのゼテギネア大陸を奪うために既に動き出している。残念ながら我らハイランドの力だけで、奴等を止めることは出来ん。今、ゼテギネアの国々は我が帝国の一部となり、ローディス教国と立ち向かわねばならん!それなのに貴様らは何故邪魔をする?この大陸を奴等に売り渡すつもりかッ?大陸の未来を考えよッ!目先の利益など捨てよッ!」
「だからといって侵略行為が許されるわけではありません!」
アイーシャが反論する。
彼女は母である大神官フォーリスを殺された恨みを捨ててはおらず、口調は弾劾的なものだった。
「…それは違う。」
デボネアが呻く。
その消え入りそうな声をレティシアだけが聞き届けた。
「殿下!どうかお聞き届け下さい!最早帝国に勝ち目などございません。御身の安全はこの命に替えましても確保致します。どうか戦いをおやめ下さい!!」
「馬鹿な事を。我が帝国が負けると思うのかッ!!」
「しかし、ラシュディやガレス王子は既に逃げたではありませんか!」
この言葉にはエンドラは激怒した。
すっと手の平をデボネアに向けると、
「反乱軍の犬めッ!まずは、お前から殺してやろうッ!」
「エンドラ殿下ッ!!おやめ下さいッ!!! 」
デボネアの悲痛な叫びは打ち捨てられ、答えとなって返ってきたのは無数の風の刃だった。
個々の殺傷力が高く、その刃に触れた者は大きく切り裂かれ、血を吹いた。
続いて炎の壁が現れレティシアたちを大きく取り囲むようにして包む。
空気が燃やされ、ギルフォードたちが顔をしかめる。
「このエンドラが負けるものか。」
倒れ込んでいたデボネアが立ち上がる。
盾はおろか鍛え抜いた肉体が裂かれ、血がだらだらと滴っていた。
炎を真ん中に置いて、エンドラとレティシアは真っ向から睨み合った。
レティシアの左手が、胸元から一枚のタロットカードを取り出す。
「エンドラ。以前の貴女は花のように可憐で心優しい女王だったと聞いた。」
手にしていたのはエンプレス。
「…まるでこのカードが象徴するような女王だったと聞いた。それが今では民が苦しむのを見ても、笑みを浮かべる事が出来る…。」
レティシアの眼差しにエンドラは唇を噛んだ。
憐れみだ。
この女は妾を憐れんでいる!
そう思った瞬間、エンドラは激昂しレティシアに向かって(その殺傷力から結果的に全員に、という事になるのだが)魔法を解放した。
「国の母たる者の手に触れ、新しい命を得よ。汝、名をエンプレス。」
レティシアは静かにその魔力を解放した。
エンドラが放った幾条もの雷がレティシアたちに届く直前にエンプレスの光に掻き消された。
レティシアたちの傷ついた身体が見る間に治癒して行き、新たな活力を得る。
「既に民の心は貴女から離れ始めている。民は新たな国家を、理想を、そして王を求めているのだ。認めるがいい。国は貴女を見限った。民を持たない貴女はもう女王ではない!」
「…新たな王だと?何を言うかッ!王はこの私一人ッ!この大陸を統治できるのは、全知全能なる女帝エンドラだけ。それを今証明してやるッ!!」
デボネアが剣を構えた。
レティシアがブリュンヒルドを一閃させ、燃えさかる炎の壁の一角を切り崩す。
その機会を見逃さず、デボネアが、双子の騎士たちが、アイーシャが戒めから抜け出した。
エンドラは死霊たちを喚び出してレティシアたちに放つが、次々と聖剣の前に倒れていく。
「エンドラ!!」
トリスタンたちも王座に辿り着き、レティシアたちに助勢した。
劣勢を覚らずにはおれなかったエンドラだが、それでもまだ暗黒道に墜ちる事によって得た魔力を信じていた。
レティシアがただ一人、魔法の連発の隙をぬって間を詰める。
「エンドラッ!!!」
レティシアのブリュンヒルドがエンドラの胸を真っ直ぐ貫いた。
「お…のれ…!」
なお呪文を唱えようとエンドラの唇が動くが、大量の血を吐いて詠唱が止まる。
レティシアはリュンヒルドを抜こうとしたがエンドラのしなやかな身体がそれを阻んだ。
聖剣はエンドラとレティシアを繋ぎ止める格好になった。
ぎらぎらと蒼い双眸がレティシアを憎々しげに貫く。
レティシアはその執念に感嘆すると共に危機を感じた。
もう何も出来ないとわかっているのに逃げなければ殺されると思う程、寒気がする。
開いた唇の端を伝って深紅が床にぴちゃんと音を立てて落ちた。
「貴様に…。」
エンドラの声はしわがれていた。
レティシアの全身の毛が逆立つ。
「貴様にこの国の行く末を託す……!」
エンドラの爪が捕らわれたままのレティシアの腕に食い込んで行った。
「この国を…ハイランドを……!」
レティシアは身を捩る事も出来ず、エンドラの両目から目を背ける事が出来なかった。
ゆっくりゆっくりえぐられ続ける両腕の痛みにも気が向かない程、レティシアはエンドラの双眸に縛られていた。
「どうか…護っ…て……!」
女帝の瞳から透明な雫が落ちるのと、細首が がくりと力無く垂れるのとは同時だった。
強張って身体の力の入らなかったレティシアは、エンドラを支えきれずに彼女を抱き留めるような格好で後ろに尻餅をついた。
「レッティ!」
なんとなく遠巻きにしてしまっていた仲間たちが慌てて駆け寄ってくる。
レティシアは皆が来る前にエンドラの瞼を閉じて出来る限り血糊を拭った。
そして誰にも見せない為に女帝の顔を胸に抱きしめる。
「エンドラは?」
「…もう事切れてる。」
トリスタンが息を確認したがっている事がわかっていたが、それだけを言ってエンドラに触れる事を拒否する。
レティシアは、ゼノビアの者たちに彼女の死に顔を晒したくはなかったのだ。
「これを。」
ギルフォードが留め金からマントを取り外しレティシアに差し出した。
彼も何故レティシアがそうするのかはわかっていなかったのだが、彼女に絶対の信頼をおいているため、彼女のする事に反論はない。
レティシアは礼を言ってエンドラをそれに包んだ。
満身創痍のデボネアは、ノルンの治療によって立ち上がる力を蓄えると、レティシアの腕から亡骸を受け取って涙した。
ノルンも、ラウニィーも、マントから垂れ下がったエンドラの白い手を見て抱き合って泣いた。
本当に死んだか確認したい気持ちがあったトリスタンも、ラウニィーたちの様子を見ていると哀れで言い出せなくなってしまう。
レティシアは一人エンドラから視線をはずしてブリュンヒルドを鞘に収めていた。
その耳に、微かな音が響く。
「これは…!?」
デボネアたちの驚愕の声がしても、レティシアは振り向かなかった。
悪魔に魂を売った者の死に様などわかっているからだ。
白かった腕が見る間にしわがれて赤茶色に萎びて塵に変わって行く。
やがて白い骨が露出され、乾いた音を立てて床の上に腕一本分の白骨が転がった。
デボネアが抱えていたエンドラだった亡骸も姿を変えている事は明らかで、ノルンが増してぽろぽろと涙を零す。
ラウニィーがその骨を拾い上げ、ノルンを抱えるようにしてデボネアと共に王座を後にした。
そのエンドラとすれ違いざま、レティシアが呟く。
「…おやすみなさい、エンドラ。」
レティシアはゼテギネア陥落と共に、姿を消した魔導士ラシュディとガレス王子の手がかりを掴んだ。
西の孤島にある、今は朽ち果てた宮殿、シャリーアへ向かう姿を数人の農夫が見かけていたのである。
その後を追うように生き延びた聖騎士たちが後を追い、それを統率していたのは黄金の鎧の騎士であったらしい。
彼には数人護衛をつけたので安心していたのだが、まさかその者たちを捲いて姿を消すとは思っていなかった。
レティシアは自らの迂闊さを悔いていた。
「シャリーアに何があるのか、知っている者はいるか?」
「魔宮と名高い神殿があるはずだ。…異教徒たちがその昔、暗黒神ディアブロを祭っていたと、師から教えを仰いだ事がある…。」
「ディアブロ?」
「オウガバトルの伝説の中で多数のオウガを従えた魔神の一人…でしたか?」
「No。伝説ではアリマセ〜ン!実在する魔神の一人デスヨ。」
「ディアブロが復活すれば地上世界は崩壊するでしょうね。」
「その前に倒さなくてはなるまいな。」
スルスト、フェンリル、フォーゲルが続く。
「…レティシア。ラシュディは私の姉、ミザールを騙して手に入れた、『裏切りの使徒の証』キャターズアイを持っているのです。あの石は神を裏切った13番目の使徒が持っていた石。魔界との契約に使われたその石には、他の12の石と比べ物にならない魔力が秘められています。その魔石の力を使えば、魔界から魔神をも呼び出す事が出来るでしょう。」
「しかし、そんなものを呼び起こせばラシュディたちもただではすまないだろう?」
「…使い方によっては魔界の王になる事も不可能ではないのです。」
「マジかよ。」
カノープスが天を仰ぐ。
トリスタンとレティシアは顔を見合わせるとすぐに立ち上がった。
「全軍、シャリーア神殿へ!ラシュディならびにガレスを討つぞ!!」
トリスタンの号令一下、全員が顔を引き締めて動き出す。
その様子を見ながらレティシアはエンドラを思い、唇を噛んだ。
Y.
誰も居ない玉座を前に彼は直立していた。
床に剣を立てて微動だにせず、今はもういない主君を前にしているような堂々とした風格だ。
女王を弔う気持ちで王座にやって来たレティシアは、少しだけ開いたドアの隙間からその様子を見て、彼の心中を慮り胸が痛んだ。
レティシアは静かに入室してデボネアの横を通り過ぎ、玉座に一輪の花を供える。
以前にフォーゲルから貰った鉢植えの花が新たな花をつけたので、一輪手折って来たのだ。
花びらが窓の外から吹き込んでくる冷気に晒されてたなびく。
「……君は、知っていたんだろう?」
レティシアは小さく頷いた。
「まだ年若いガレス王子や勝ち目のない戦いを前に民たちを思えば、殿下に選択の余地はなかった。…それだけなのだ。」
「そうだな。」
レティシアは両腕に刻まれた爪痕をあえて消そうとしなかった。
一度はあれだけ恨んだ女帝も、今のレティシアには一人の哀れな女性でしかなかった。
ハイランドの凶行の理由を知ったのは少し前の事。
エンドラが帝国を築くために戦争を起こしたのは、遙か北方の大陸に強大な軍事力を持った宗教国家、ローディス教国がこのゼテギネアを狙っていたからである。
慈愛で国を治め、民たちに圧倒的な支持を受けていたハイランドの女王エンドラは、それを知るやグラン王など他の王達に協力を要請したのだが、ローディスの存在を信じない王たちは協力を断るだけでなく、ハイランドに攻め入ろうとした。
そう、戦争をしかけたのはハイランドではないのである。
ハイランドをのぞく他の4王国だったのだ。
軍事国家と名高いハイランドでも、流石に4王国相手では勝つことは出来なかったであろう。
窮地に立ったエンドラの前に魔導師ラシュディが姿を現したのはその時だったという…。
「…………その傷…消すのか?」
デボネアと話す間、ずっと両腕を組むようにして爪痕を撫でていたレティシアは、そう聞かれて首を振った。
「今は消さない。だけどその先はわからない。」
「そうか。」
主を失ったハイランド城に静かに深く雪が降り続ける。
どうにもやるせない思いを抱え、レティシアは白い雪があたりを白く染めていくのをただ見つめていた。