STAGE23.ライの海
T.
「夢の中でくらい、手を差し伸べさせてくれたっていいだろうに…。神様ってのは意地悪なものだな。」
レティシアは涙の跡の残る頬を乱暴に手の甲で擦った。
理解りたくないが彼の立場も思いもレティシアはそれとなく理解っている。
だからこれは、心弱い自分が勝手に作った傷である。
「レッティ、起きてる?そろそろ行きましょう。」
ドアの向こうからのラウニィーの声で自身の思考を停止させ、レティシアは立ち上がった。
個人の思惑はどうであれ、今の自分は反乱軍のリーダーとしてあらなければ、との責務感が今のレティシアを支えていた。
あれから数日が経過していた。
反乱軍は再び進軍を開始し、ライの海を臨んで立っていた。
豊かな自然に恵まれたライの海は、大陸最後の楽園と呼ばれている。
だが反乱軍が到着して実際に見た風景は、『楽園』などとは似ても似つかぬものであった。
「まさか…これほどとはな。」
デボネアが民たちを思いやって低く唸った。
ノルンも、指が白くなるまで力を込めて自らの拳を握っている。
ザナドュに近いこともあって、2人は以前にここを訪れた事がある。
その時には4方を豊かな海に囲まれ、生きる民衆たちの顔には笑顔があった。
だがこの有様はどうだ。
大人も子供も、僅かな恐れを内包したどんよりとした瞳で、建物の影等からこちらを伺うばかりであった。
「ノルン、もう行こう。」
「不埒な…!ランドルス卿は神の御名をお借りして、こんな事を…!!」
沸々と身の内を焼く怒りに震えるノルンのその肩を抱いて、デボネアは進むように促した。
それに大人しく従ってノルンはデボネアにされるままにその街を後にする。
『楽園』はそこにはなかった。
民たちの生活水準と圧迫を目の当たりにして驚いたのは、ハイランドの人間ばかりではない。
以前のライの海を知らぬものたち全てが驚いていた。
「酷ぇ有様だな。」
「ランドルスは金の亡者だそうだ。神に祈りを捧げると言っては民から金を取り、神のために祭りを開くと言っては金を取る。だが彼が神に祈りを捧げている姿を見た者はいないらしいな。」
レティシアは答えながらアイーシャら聖職者たちの心痛を推し量った。
この地での教会の威信は地に落ちている。
教会は金を吸い上げるだけの存在であり、民たちの心の拠り所はこの地にはない。
敬虔な信者ほどその怒りの程が知れる。
「レッティ、ランドルスの野郎をブチ倒したら、俺にお前の時間をくれよ。いいか?」
「何だ、いきなり。何でだ?」
「それは後のお楽しみって事で。それじゃ俺は行くわ。」
カノープスはこつん、と拳でレティシアを小突いて、その場から離れていった。
何なんだ、一体?と思ってその後姿を見つめていると、こちらの姿を見つけたトリスタンがランスロットを伴ってやって来た。
レティシアはトリスタンを指揮官から降ろす事を良しとせず、前回の失態も皆には隠し通す事にした。
事実を知る者は僅かである。
それに反発したトリスタンをレティシアが一喝する、という緊迫した1場面もありはしたが、トリスタンは不承不承ながら承諾した。
行く行くは新しい国王になる身として、この戦争で名を売っておく必要はある。
トリスタンは複雑な思いであった。
レティシアは最終的な話合いの折に、ちらりとランスロットに視線を走らせる。
だがランスロットがほんの僅かな動揺すら見せなかった事に、切なさが飛来すると同時に、未練がましい自分の想いに軽蔑する。
やがてトリスタンの号令一下、ライの海を支配するランドルス枢機卿が居城・ソロン城へと向けて出撃した。
レティシアは戦況が揺ぎ無い状況を作ってしまってからうって出るつもりではいるが、当初の予定通り彼の傍に立って進軍指示の補佐をした。
もちろん、レティシアが初戦からうって出ても構いはしないのだろうが、もしもトリスタンの手におえない状況が訪れた場合には、レティシアが指揮官に立たねばならない。
そうなると司令塔が2つに分かれるばかりか、トリスタンの評価に関わる。
レティシアがトリスタンの側に控えるのは、皇子よりも自分が劣るのだ、という見た目への配慮、そして指揮ミスの予防策でもあった。
ランドルス率いる帝国軍を相手にトリスタンは以前の失敗を気負う風を一寸見せたものの、速やかにソロン城のランドルスを追い詰めた。
やはり彼自身の実戦の少なさ、経験不足による欠点が見え隠れするものの、なかなかどうして。大した物であった。
以前アラムート攻略をした時よりも鮮やかだったかもしれない。
その勝因の中に、我々と入れ違いになるようにして(ランドルスが無理やり呼び出したらしい)帝国の四天王の1人、ルバロンがここを離れていたのが関係が無いとは言えないが。
トリスタンはソロン城を包囲した後、1度だけ投降を呼び掛けたが応えはなかった。
彼は枢機卿という肩書きを持っているにもかかわらず、死霊術を駆使して我々を脅かした。
これに激怒する僧侶たちを宥めながら、反乱軍はソロン城へ一斉攻撃を仕掛け、これを討ち取る。
その後レティシアの一隊は一路反転し、ラモトレックの街に寄って、魔女タルトから賢者の石を受け取った。
正式な名を、明の秘石『ジェムオブドーン』、真の秘石『オールドオーブ』、知の秘石『賢者の石』と言う。
これら3つの秘石を手にした事で、レティシアは天空の神々の一人であり正義と慈愛を司る女神・フェルアーナに会う為の資格を得たのである。
帝国の首都が、戦いの終わりが、すぐそこまで迫っていた。
U.
ラモトレックからの帰還を果たしても、大軍となった反乱軍の準備はまだ整えられていなかった。
物資の供給、食糧の配給、怪我人の手当て、簡易の寝床の確保。
大勢になれば早いかといえば、そうでもない。
その人数分が必要になるなのだから。
レティシアはその中で自分に考える暇を与えない為にアイーシャやノルン、サラディン等に積極的にあらゆる手伝いを申し出た。
トリスタンと仕事を分担した事で、レティシアには時間の余裕が出来ている。
その時間の隙間が、今のレティシアが恐れるものであった。
あれ以来、ランスロットは個人的に自分を訪ねては来ない。
それを思い知ると、ちくり、ちくりと胸が痛んだ。
ソロン城の図書室に保管された文献を引っ張り出してサラディンに届けていると、6度目の往復の際にセルジオから呼び止められた。
「レッティ様、向こうで手伝って欲しい事があるそうで、カノープス様が探していましたよ。」
「カノープスが私に頼み事?珍しいな、何だろう。」
興味を引かれて、サラディンの用事をセルジオに引き渡すと、レティシアはカノープスを探してそこらを歩き回った。
「レッティ。」
「おや、殿下。もうウォーレンから解放されたのか?」
トリスタンは苦笑して肩をすくめた。
「何でも、ランドルスが集めた屍術に関する文書を焼き捨てようとする僧侶たちと争うらしい。あの老人は魔術に関する文献ならば、中に重要なものがあるかもしれないから、と目を通したいらしいよ。」
「…あまり薦められないな。」
レティシアは死者を冒涜する屍術には強い嫌悪感がある。
少し険しくなった彼女の顔にトリスタンは唇で触れた。
「!?」
非難が混ざったレティシアの視線を軽く流して、悪びれもせずに悪戯っぽく笑う。
「戦いの合間くらい、そんな顔をするものじゃあないだろう?レッティ。」
「…普通に声をかけてくれ、こちらの寿命が縮む。今のはかなり驚いた…。」
本当は驚きばかりではなく怒りもあるのだろうが、それについてはお首にも出さない。
唇に重なったのなら、まず間違いなく引っ叩いていただろうが。
「一緒に風にでも当たらないか?そこまで行けば、ライの海が一望出来るぞ。」
レティシアはトリスタンが促すまま、一緒に歩いて行った。
階段を上り、やや広いバルコニーへ出る。
潮風が2人の長い髪を吹き散らした。
「わ…。」
レティシアが感嘆の声を飲み込むほどに、陽の光に煌くライの海は美しかった。
墜ちた楽園の中で、唯一残ったのはこの景色だけだと思うと物悲しくもあったが。
その海の青さに溶け込まぬ赤い翼を遠くに見て、突然レティシアはトリスタンを振り返った。
海、カノープス、そして人魚。 レティシアは今、まざまざとカストラート海の悲劇を思い出している。
だがレティシアが口を開くより早く、トリスタンが問う。
「そう言えば、誰か探していたのだったか?」
「ん、ああ。カノープスを探していたんです。何か用事があるとか言ってましたので。」
「カノープス…?」
またか、と物憂く思う。
トリスタンは男女の間に友情など存在しないと思っているから、2人が近づくのを良く思わなかった。
あと特に彼女が目をかけているのはランスロットだったが、こちらは年の差から恋愛に発展することはないだろうと気にしてもいなかった。
だがカノープスは違う。
彼は亜人種であるから、今が青年期だ。
レティシアが彼を対象に見てもおかしくないほど若々しい。
「レッティはカノープスが友人として以上に好きか?」
兼ねてからの疑問を口の端に乗せると、レティシアは目を丸くした。
そして数瞬してからショックから覚めたか、困ったように笑う。
「それは違う。カノープスは私が失った大切な人に似ていて、一緒に居ると気が休まる、それだけです。」
「そうか。」
大切な人、というのが酷く引っ掛ったが、反応を見る限りではこれは恋愛感情ではないと判じる。
「そんな事より、殿下。」
「トリスタンでいい。どうせ誰も見てやしないよ。 で、何だい、改まって?」
「ではトリスタン。貴方の御世になった暁には、人魚たちが安心して暮らせるように取り計らってもらえないだろうか。」
「人魚?」
「トリスタンの父、グラン王の御世では、彼女たちは冷遇されていた。だから、帝国の甘言に乗って我々を排そうとした。だが人魚たちは生き延びる術として選んだ道だ。我々に受け止める器量がなかったから、選んだ苦肉の手段だったはずなんだ。だから…」
「わかった。人魚たちとの共存する為の努力をしよう。」
なおも言い募ろうとするレティシアを皇子は止めた。
その言葉に、レティシアの表情が華が咲くようにぱぁっと明るくなる。
他人のために必死になれる彼女を愛しく思い出すと、もう歯止めはきかなかった。
トリスタンはレティシアの手を取って引き寄せ、そして抱きしめた。
「ト…トリスタン!?」
突然の事で咄嗟に抵抗出来なかったレティシアの身体が、初めは驚きで、次には拒絶で固くなる。
少しでも身体を離そうと力を込める彼女を易々と封じてトリスタンは囁いた。
「レティシア、君を愛している。」
レティシアの眼が見開かれ、苦渋に歪む。
抱き締めているトリスタンにそれは見えていなかった。
「我々はやがてゼテギネアを打ち倒し、新しい国を創りあげるだろう。その時も、そしてそれからも。傍で私を支えてくれないか…?」
触れ合う場所からいつもより早いリズムで、トリスタンの鼓動が伝わってくる。
ああ、本当だ。
レティシアは身体を預け、どこか醒めた場所から、まるで他人事のようにそれを感じていた。
トリスタンはこんなにも全身全霊で自分を求めてくれている。
確かにここで『はい』と言えば、彼は自分をこの上なく愛してくれるだろう。
でも。
レティシアはそれが自分を決して満たしてはくれない事も知っている。
…『彼』は、『愛される』だけで幸せになれると本当に思っているのだろうか?
愛を伝えられれば伝えられるほど心が冷たく冷え切っていく。
おそらくこの先ずっと…いや、もしかしたら永遠に自分は皇子を愛せないだろう。
だけど、ランスロットの為に私に出来る事は、もうこれしか残っていない。
何も考えずに、黙ってただトリスタンを受け入れればいい。
トリスタンが無言のままのレティシアの顎を軽くつまんで、上にむかせる。
「私は本気だ。君を愛している。」
近付いてくる唇を避けようともせずに、レティシアはじっと黙ったまま立っていた。
―――……ッ!
レティシアの全身が、ランスロット以外を頑なに否定する。
トリスタンの唇が離れた時にも、レティシアの双眸は何の感情も見せずに開かれたままだった。
口付けの間ずっと目を開かれていた事の羞恥心と、その理由への疑問に、トリスタンが狼狽する。
レティシアは静かに告げた。
「私は…胸に、永遠と決めた人がいます。」
「…私には応えられない、とそういう意味か?」
確認するように囁くトリスタンに向かって、ゆるゆると首を振る。
冷静にそれを受け止めるべく努力しているトリスタンは、その答に眉を寄せた。
「トリスタンさえ許してくれるなら、私は貴方の妃になりたい。」
「レッティ…?」
「だが、この先もずっと愛しているのはトリスタンじゃない他の人だ。心はあげられない。でも身体だけなら応えられる。」
やっと全てを理解したトリスタンの頬にかっと朱が走る。
そして次の瞬間レティシアの頬が甲高い音を立てて打ち鳴らされた。
傷ついた瞳でこちらを睨みつけるトリスタンをレティシアは恐れずに真っ向から見つめる。
「私が欲しいのは、身体だけではないっ!レティシア、君の心もだ!!」
ぶるぶると震え、怒りを力で押さえつけるトリスタンへ、レティシアはそれでも首を振った。
「それは出来ない。私の心は決まってしまっている。その人が望むから、私の身体はトリスタンにあげてもいい。でも、心はあげられない。」
「それでは意味がない。私は…!」
言いかけた口を噤んだ。
これ以上は平行線で、決して交わることはないただの言葉の羅列になって行くだろう。
彼には珍しく、髪をぐしゃりとかき混ぜて俯く。
トリスタンは詰めていた息を吐き出した。
「人の心は思うままにならないことを私は知っている。だから、レッティの答が如何なものであろうと、想いを告げた事への後悔はしない。それに『心だけ』などと奇麗事は言わないが…だがしかし、これは…! これは酷い侮辱だ!レッティ、君は私をそんな下劣な人間だと思っていたというのか。」
「違う。少しも気にとめていない相手だったなら、私はただ頷いたでしょう。 そしてこの先ずっと、偽りのみで接して行った。」
最近はよく女性らしい柔らかな表情を見せるようになっていた彼女は今、能面のように表情を固めている。
「でも、出来ない。」
自分への好意を見せてくれたレティシアを見ていると、滾った怒りが冷水を浴びたように急速に冷えていった。
彼女が本当に悲しむのは、自分が選んだ相手と添い遂げることが出来ない事だろうが、トリスタンはそれには気付かなかったのだと自らに深く言い聞かせた。
もちろん、他でもない自分を騙すことなど出来はしないのだが。
トリスタンはレティシアを軽く抱き締める。
「少しは私に好意があると自惚れてもいいか?…だが君は、私を愛する事は出来ないと、そう言うのだな?」
「すまない。」
「謝るな。謝られるような事ではないのだから。」
最後は顔を背けるようにして、踵を返してその場を去って行く。
レティシアはそれを見送って姿が完全に見えなくなると、やっと息をついた。
「…いるんだろう?」
「……気付いていたか。」
カノープスは気まずそうなしかめっ面で出て来た。
「この覗き魔。いつからいた?」
「自惚れてもいいか、の所から。だけどよ、あんな場面で出て行けるか?」
「もしも出て来ていたら今頃、羽根を毟られてから簀巻きで海に捨てられているな。で、いつからいた?」
ぎろりと目だけで睨んでくるレティシアに、カノープスは観念して肩をすくめた。
「…傍で支えてくれないか、の所から。…悪ィ、ほぼ一部始終聞いちまったよ。」
カノープスはレティシアの唇の端に滲む血を親指でぐいと拭った。
そして僅かな痛みに顔をしかめるレティシアの頭をくしゃくしゃと撫でつける。
「痛かっただろ。」
「仕方ない。…それよりカノープス、私に用があったんだろ?」
「おう。」
カノープスはレティシアを両手でひょいと抱えあげると、翼を広げる。
いきなり触れても文句がないのは、慣れてしまったからなのか、それとももう異性としての意識がないからなのか。
カノープスは恐ろしい答えを出しそうなので、それ以上考えるのをやめた。
「何処へ行くんだ?」
「当てたら教えてやるぜ。」
「…それは、教えない、と言っているのと同じだろう。」
そう言ってやっと僅かに笑った彼女と共に、カノープスは風を切った。
V.
カノープスがレティシアを連れて訪れたのは、都市スカウテンの南の浅瀬であった。
やはりバルコニーから見下ろすだけでは物足りなかったので、レティシアは内心とても喜んでいた。
冷たい水の感触に先程のやるせない気持ちが癒されて行く気がする。
「そうだ。用事って何なんだ?」
「"俺の"休息の手伝い。」
カノープスは優しい瞳で岩場に腰を下ろしたまま、レティシアを見下ろしていた。
レティシアはくすぐったい喜びに、笑う。
「私の気分転換の為だろ?ありがとう。」
「違―よ。俺の休息だっつったろ?レッティが、俺の為に付き合っているんだ。」
「ヒネクレ者!」
そう言いながら、レティシアの顔はほころぶばかりだった。
口の片端を引き上げて笑った後、カノープスはレティシアの顔をじっと見つめる。
笑顔だが、心から笑っているかと問われれば疑問だな、とカノープスが音のない舌打ちをした。
いつから本当の気持ちを隠して笑っていたのか、カノープスは気付くのが遅かった自分に恥じ入るばかりだ。
やがてカノープスはレティシアの側へと舞い降りた。
「…やっぱ駄目だな。どうした、何があった?」
カノープスはレティシアの中に潜んだ翳りに優しく問うた。
その言い回しが、きょとんとしていたレティシアの涙腺を刺激する。
自身の兄、サイノスにも隠し事は出来なかった事を思い出してしまった。
「カノープスは本当にサイノスに似てるな…。」
一瞬俯いた拍子にぽつりと言って、レティシアは満面の笑みを浮かべて長身の戦士を振り仰ぐ。
その晴れやかな笑顔の完璧さに、カノープスが複雑な顔をした。
「お前…。」
「駄目だよ、これ以上は聞いたら駄目だ。」
「じゃあ今は聞かねぇ。だけど、落ち着いたら話せよ。何年でも何十年でも待っててやるから。」
「何だ、それ。トリスタンに続いて、お前までプロポーズとか言い出すんじゃないだろうな?」
「お好きに。どうとでも取れよ。」
カノープスは肩をすくめた。
「ただし、俺にシタゴコロがあってお前に優しくしていると取るなら、俺たちの付き合いはこれまでだぜ。」
「ごめん。」
少し厳しくなったカノープスの口調に、レティシアは即座に謝る。
本当の自分を受け止める彼の存在を無くすのは嫌だった。
そしてレティシアは今の機会に、常々不思議だったことを聞いてみる。
「…そんなに私は、顔に出ているか?」
いつも辛い思いをしている時には、カノープスがそっと近くにいてくれた。
『本当の私』の思いには、カノープスだけが気付いてくれた。
感情を殺して振舞うことに慣れたつもりでいたが、そんなに自分は顔に出ているのだろうか?
対してカノープスは、その問いに、傾いた身体を立て直しながら心中の苦いものをあざ笑う。
とんでもない女だな、とカノープスは苦りきった。
ランスロット以外の男からの求愛は全て拒むつもりな癖に、俺にそれの理由を答えろというのか。
ずっとお前だけを見ているからだ、なんて、口が裂けても言わないぞ!と、カノープスは心の中でそう絶叫する。
「…他の奴らは気付いてないんじゃないか? 俺は…まぁ、妹がいるから…な?」
「フゥン。そうか。」
レティシアはその言葉に満足したのか、はたまたその逆か。
とりあえず、それ以上の興味は無くしたようだった。
空を見上げると中天にあった陽が傾きかけて、少しだけオレンジ掛かっていた。
「そろそろ帰らないとマズイな。」
「…だな。」
腕を広げると、当然の如くレティシアがそれに収まる。
カノープスはそれを抱え込み、翼を広げて大空へと舞い上がった。
これはまだ俺だけに許された役割だと、誇りに思いながら。
W.
翌日、レティシアは十数人を引き連れて、女神フェルアーナに会う為に天宮シャングリラを目指した。
数日してから、彼女からの伝言を預かって、同行した数人の兵士が戻ってくる。
彼女は当初の目的通りに女神との謁見を許され、そして認められた。
そして行く行く手にする平和を恒久のものとする為に『十二使徒の証』と呼ばれる宝石を集めることを言い渡され、帰還が遅れるらしい。
ウォーレンは戻って来た者たちを労ってから、もう少しだけ続く静かな日々を思い、苦笑した。
カノープスは今回、新兵訓練の任にあたり、それについて行く事が出来なかったのだが、彼女がいないだけで随分と反乱軍内の士気が下がるものだと、この場にいないレティシアに半ば畏怖の念を抱く。
だがそれを理由に訓練に手を抜く訳には行かない。
いつもと手応えの違う兵士らを鼓舞して、1日が終わった。
その後、調理場からくすねた酒を片手にギルバルドの所へ行く途中、不信な光に目を留めた。
もう誰もいない筈の訓練場からわずかにもれる灯り。
カノープスは酒瓶の代りに棍棒を握って近付いた。
そして
「………………何やってんだ。」
カノープスは心底呆れたような、気の抜けた声を出した。
室内では、薄暗い灯りの中で延々とランスロットがカラドボルグの素振りを繰り返していたからである。
ランスロットの額にはびっしりと汗が噴出していた。
一体いつからここでこうしていたのだろう。
「もうそろそろ切り上げた方がいいのじゃないのか?」
「いや、気遣いは無用だ。」
ランスロットは剣を振るいながら、振り返る事無く返した。
その態度が気に入らなくて、カノープスは再び質問を投げて邪魔をする。
「訓練するのが、そんなに好きなのか?」
「好き嫌いではないだろう。戦いにおいて、いざという時には、それまで自分が積み重ねたものが役に立つのだ。軽んじてはならない。」
「別に軽んじているつもりはないが、どう見てもお前のそれはやり過ぎだろうが。」
「…すまない、好きにさせてくれないか。」
カノープスは肩をすくめ、壁に身体をもたれて暫くそれを眺めていた。
よくもまあ面白味もないただの反復運動にそれだけ一生懸命になれるものだ。
「ランスロット。お前、レッティをどう思ってる。」
振り上げた剣がわずかに震えて止まる。
剣を床に立てて、振りかえったその顔は怒りを含んでいた。
「それを私がお前に言う必要ははない。」
「お前、アイツをフっただろう。」
「…レティシア殿がそう言ったのか?」
「アイツが言うわけネェだろ、ンな事。」
カノープスのため息がひどく訓練場に響いた。
「邪魔したな。」
カノープスはそれ以上喋ることはないとその場を後にした。
「……。」
取り残されたランスロットはどうにも鬱屈した気持ちに潰されそうで、再び剣を握った。
レティシアは、彼女が一番だと想ってくれる男性と一緒になるのが相応しい。
そう、トリスタン皇子こそが彼女には相応しいと思う。
その思いの裏には、彼女が王妃になればそれを護る事が自らの任務となり、ゼノビアと、彼女と共に歩んでいけるという下心が全くないとは言わない。
だが自分に許された、彼女と共に在る道はそれしかないだろう。
もし、もしも仮に、想いを通わせた所でその先はもう…―――。
「…愚かな…!」
自らを叱咤する静かな声音に、深い怒りが込められていた。
X.
更に数日後。
レティシアがついに十二使徒の証を手に入れて戻って来た。
全てを回収する間には紆余曲折もあったようだが、とにかく彼女は無事に戻った。
誇らしげにその戦果を報告するレティシアのその笑顔を見て、不審に思った者はわずか1人であった。
その夜、疲労が重なっているはずのレティシアの部屋の灯りは中々落ちなかった。
ランスロットの部屋から彼女の部屋の灯りを確認することは出来ないので、ある程度の間隔を空けてランスロットは給湯室と自室の間を何度も往復する。
だがついに我慢しきれなくなって、以前に良くそうしていたように果実酒を暖めてカップに注ぐ。
レティシアの部屋の前へ辿り付くまでに2度、冷めかけた果実酒を暖め直しに給湯室に戻った。
彼女の部屋が近付くにつれてあの時の彼女の悲壮な微笑が蘇る。
そうするとまた、自分が関わって彼女を更に傷つける事への恐怖感が生まれて足が止まるのだった。
「今日はまた、良く会うな。」
突然背後からかかった声にぎくりとして振り向くとカノープスが立っていた。
アルコールの匂いがするので、ギルバルドの所へ行って飲んで来た帰りなのだろう。
「どうした、レッティに用事なんだろ?」
「カノープス…申し訳ないがこれをレティシア殿に届けてくれないか。」
カップを半ば強引に手渡すとランスロットは踵を返した。
やはり、自分は彼女から離れていた方が良い。
トリスタン皇子の、目下の好敵手にそれを渡すのもどうかと思ったが、自分が行くよりは数段マシな筈だ。
「お、おい?!」
カノープスの狼狽した声に振り返らずにランスロットはそそくさと立ち去って行った。
「……もしかして…。」
ランスロットがいた位置からこの部屋まではわずか数メートルだった。
頑なにレティシアを避けるランスロットの様子がカノープスにその可能性を見出させた。
「まさかな。…だけど、もしかしたら。」
ぶつぶつと呟きながら、頼まれた通りにレティシアの部屋のドアを叩いた。
「入るぞ。」
ドアを開けると、入口を凄い勢いで振り返ったレティシアが、そこに立つカノープスを見て凍りついた。
思いがけない事態に愕然としたような、大きな目を更に大きく見開いて、傷ついた顔のまま固まっている。
この顔は間違いなくランスロットを期待していたな、と思うと自然と苛立つ。
手にした暖かい果実酒をレティシアにぶっきらぼうに突き出した。
その湯気を立てているカップを呆然と見詰め、レティシアは口の端を歪める。
「…何だ。」
ここに来たのがカノープスだった事もあって、だろう。
レティシアの中で張り詰めていた何かが途切れ、涙がレティシアの頬を伝う。
「どこかで期待してた。…今ここに来てくれるのがランスロットじゃないかって。自分から来るなって突き放しておいて…なんてザマだ!」
カノープスはその時初めて、気付いてしまった己の罪の可能性に、頭を強打されるような衝撃を受けた。
本当なら、自分が通りかかったりしなければランスロットはここに来たのだと、目の前で肩を震わせる彼女に言ってやりたい。
いや、来なかったかもしれない。
だが最後の望みを断ち切ったのが自分じゃないかという恐れは消えない。
そしてその真実に対して、レティシアが自分へ向ける感情を最も恐れた。
「レッティ…!」
カノープスは結局何も言えずにただ、レティシアをかき抱く。
ランスロットはただ1人、彼女の内面に気付いていた。
それも自分が気付けなかった様な極々微少な変化に。
ランスロットは見ていたのだ。
自分よりも、多分今までずっと彼女を。
カノープスは何度も腕の中の女の名前を呼んだ。
いつもは切ないばかりでも幸せに思えるその行為も、今は正直に告げようとしない自分への後ろめたさが針のような痛みで、彼を刺し貫いていた。