STAGE19.アンタンジル
T.
アッシュは『封印の地』と呼ばれた聖地アンタリア大地の封印についての情報をレティシアに告げた。
25年前の戦争で、その儀式に携わった者のほとんどが殺されており、確かなものが何も無かった為、アッシュは言い出せずにいたがこの度スルスト・フェンリル、そしてユーシスにオウガバトルの時代についての事を尋ね、ようやく確信が持てたのだ。
それにはオウガバトルの時代、悪魔やオウガどもを統べていた魔界の将軍の一人、暗黒のガルフが閉じ込められている。
スルスト・フェンリルがその封印の地へ赴いて眉根を寄せた。
天空の三騎士の手によってその魔力を奪われこの地に封印されていたが、あと数年もあればガルフはこの世に甦るだろう。
25年間放置してあった為に封印の効力はひどく弱まっていた。
かつてのガルフならば、とても人間の手に負えるものではないが、今ならば大した力を持たぬ。
レティシアはそれらを聞いて今のうちにガルフを倒す事に決めた。
自治都市シャーダドブルの西に見える島、そこにこの地が封印の地と呼ばれる所以のカオスゲートがあった。
カオスゲートの封印を解き放ち、アンタンジルへと足を踏み入れる。
湿っている様に空気自体が重く淀んでおり、気分を鬱々とさせる。
空(?)には太陽や月のような光源は無く、常に夜に似た闇が降り注いでいた。
「ああ、気分が滅入る…。」
カノープスのぼやきに、誰も咎める事なく黙ったまま苦笑する。
しんと静まり返った不気味な大地を西に向かって進軍すると、やがて小さな灯りをともす街に出会う。
こんな所に人が住んでいることにも驚くが、やはり日の光を浴びずに育った彼らの外見はやや我々と異なっていた。
何から身を隠すと言うのか、黒いローブを目深に被っており、瞳だけがギラギラと光っていた。
そこから僅かに覗く異常に白く痩せ細ったひ弱な四肢にも嫌悪感を感じる。
反乱軍の到着にクスクス、クスクスと笑い声が洩れ聞こえてくる。
後から知ったことであるが、この街、イノンゴに住むのはオウガバトルの時代に、魔界と契約を交わした者達の末裔たちなのだという。
暗黒のガルフをこの地に封印した時に、いっしょに閉じ込められたのだそうだ。
同情はするが、自分からこの地を出たいと思う意思がない者を地上に連れて行くつもりもない。
それにイノンゴの民はガルフを今だに信奉していた。
イノンゴ解放と共に、ガルフがラシュディから与えられた帝国軍が一斉に動き出した。
「トリスタン!」
レティシアはトリスタンの手から剣をもぎ取り、自分の腰の聖剣を抜き身で手渡した。
カラドボルグを持つランスロットが側にいるからとはいえ、この一斉攻撃には多少の不安があったし、もし皇子に大きな怪我でもされれば、横の生真面目な騎士が力量不足を嘆く結果になることが明白だったからだ。
「死ぬなよ。トリスタンが倒れれば、聖剣は奴等の手の中だ。」
「何を言う、この剣は君が持て。」
「あとでまた会おう!」
レティシアはトリスタンからひらりと身をかわして、戦場へ飛び出した。
それを追いかける様にトリスタンも後に続く。
トリスタンが振るう聖剣に触れた悪魔たちは、見る間に光に焼かれその場で消滅して行った。
改めて聖剣の威力を思い知っているその間にレティシアの姿は既に遠く、トリスタンは追いつける事なく彼女の後姿を見送る。
聖剣の威力を借りずともレティシアには戦場を駆ける事など造作もない事のようだ。
「…大した腕だ。」
トリスタンは彼女が聖剣の力を得てはじめてあの力を振るっていると思っていた。
それが間違いであった事を確信する。
やはり、ゼノビアを建国した暁には彼女が傍らにいることが国にとって、自分にとって最も良いと思えた。
激戦区となったのはイノンゴの町周辺であり、そこを越えると悪魔たちの姿はまばらになっている。
そのままずっと西へ移動して行くと、ガルフのいるアンタンジル城には多くの帝国軍と、ガルフに従う悪霊どもが群れをなしているのが見えた。
「帝国軍と魔界軍か、あんまり手を組んで欲しくないな。」
「何を当然の事を。」
ギルフォードが肩で息をしながらレティシアの言葉を咎める。
違いない、とレティシアは薄く笑った。
双子はより多くの酸素を得る為に全身を大きく揺らす様に呼吸を繰り返している。
彼女に、死に物狂いでも、ついて来る事が出来たのは幼馴染みの双子の2人だけであった。
その様子からは多少息を整える時間は必要と思えたので、レティシアはゆっくりと歩幅を緩めた。
そして額に付着した紫色の返り血を無骨に拭う。
その血の色の禍禍しさはレティシアに仇敵を思わせた。
ガレスは私の中に、暗黒が見える、と言った。
自分は、大切な人たちを守る為に力を欲した。
だがそれはいつからか、エンドラやガレス、ラシュディと同じ道に足を踏み入れる事となっていたのかもしれない。
守る為に必要なのは、本当に力か?
でも力がない正義は全くの無力なのに。
「…わからない。」
「何がだ?」
呟きを聞きつけてギルフォードが問うたが、レティシアは答えずに微笑むだけだった。
それに寂しさを憶えたが、それ以上の質問はただ彼女を不快にさせるか困らせるだけなので止めておく。
自分は彼女にとってただの幼馴染みだと言う事を痛いほど自覚していた。
「ギル、アル、そろそろ行けるか?」
「問題ない。」とギルフォード。
「平気、平気。行こう。」とはアルバートだ。
「…大変だな。」
今だ息の上がった姿で強がる2人に向かって呟くと、双子は同じ顔でもの言いたそうに睨み返して来た。
U.
トリスタンは託された聖剣にやや振り回されつつも乱戦を制し、アンタンジル城の手前まで来ていた。
聖剣が宿す膨大な神聖な力は、正直トリスタンの手には余るものだった。
だが、ここまですんなりと来れたのにはランスロットのサポートが大きく影響していた。
とにかく彼が側にいることで、一挙一動が流れるようにスムーズに行く。
レティシアやウォーレンたちが彼を自分に強く推挙した意味が、ここに来て完全に理解出来るまでに至った。
「殿下、お怪我は?」
控えめにアイーシャが進み出るのを片手を軽く挙げて制す。
その時だった。
城の内部から引きつった絶叫と共に目が眩む眩い光が溢れ、ここ地下世界の闇を一瞬にして切り裂いた。
手で光を遮ったとしても眩し過ぎて目を開けていられる者など1人もいなかった。
同時にその光がなんなのか、正しく理解出来た者などいない。
光がおさまってから暫らくしても、網膜に光が焼き付いており、目を開けるのは容易ではなかった。
「殿下…!」
「大丈夫だ、が、何だ今のは?」
「解りかねます。レティシア殿の安否が気にかかりますが…。」
「!!そうだ、レッティ!」
ランスロットの言葉で思い出した様にトリスタンはアンタンジル城へ駆け出した。
光の絶えたその黒大理石の城の大きなこしらえの扉をくぐる。
「殿下、あそこに!」
ケインが目聡く暗闇の中に薄ぼんやりと灯る2つの光を見つける。
初歩的な癒しの呪文が放つ光彩である。
それに照らされた赤毛に、トリスタンは安堵した。
「レッティ、無事だったか。」
「…来るな!!」
トリスタンの声に返るものは、怒気をはらむ激しい拒絶だった。
その声音に巧妙に隠された怯えを聞きとって、ランスロットは眉を寄せ、呆然としていたトリスタンの横を駆け抜ける。
「レティシア殿!」
「来るな、誰も側に来るな!」
ギルフォードとアルバートの短い驚愕の声、そして誰かが立ち上がり、ランスロットから逃れ様と踵を返す。
光が消えて、城間中は全くの無明となったが、闇に目が慣れ始めていたランスロットはそれに手を伸ばした。
それに無言でアルバートが立ちはだかる。
ランスロットの驚きをよそにレティシアと彼の片割れが城の奥へ消えた。
「何があった。…ここで、一体何があったのだ?」
トリスタンはいささか厳しい顔でアルバートを詰問した。
ケインがカンテラに火を起こし、頭上に掲げる。
うっと息を呑んだ。
アルバートから少し離れた床には、黒く変色し節くれだった「何か」がごろりと横になっていた。
よくよく耳を澄ますと、サラサラと微音がする。
つい先日、ガレスを倒した時に耳にした、身体が崩れ行くあの音である。
「ガルフ…か?」
「はい。」
話すことへ抵抗があるのか、アルバートは何度も口を開きかけては閉じた。
その様子に苛立ったトリスタンはもういいと吐き捨てて、アルバートを押し退ける。
「ギル!」
突然のアルバートの叫びは壁にいくつも反響した。
それだけで片割れには自分が何を伝えたかったかが解るだろう。
トリスタンを止める度胸がなかったアルバートのせめてもの抵抗だった。
屈辱に似た苦いものが更にトリスタンを浸食して行く。
寄るな、と言った彼女の側にはこの双子がいた。
レティシアは、彼らを選びそして自分は選ばれなかった…トリスタンにはそう思えた。
トリスタンはその疎外感を振り切る様にして歩を進める。
その後ろへランスロットがついて行った。
程無くして、レティシアとギルフォードは出て来た。
「レッティ。」
「すまない。見苦しい怪我だったから見せたくなかったんだ。」
と、レティシアははじめはバツの悪そうに、やがていつもの様に微笑んだ。
大抵の場合、皆この笑顔に騙されてしまうが、今の彼女の笑顔には覇気がなかった。
だからトリスタンは惑わされなかった。
彼女の嘘をトリスタンは問い詰めようとしたが、一瞬早くランスロットが口を出す。
「アルバート君もそうだが、殿下もレティシア殿を随分と心配なされていた。」
「ラ…」
余計な口を出すな、と諌めようとしたが、ランスロットが何かを訴える様に真面目な視線を向けてきたので、とりあえず黙り込む。
「そうか、すまなかった。ありがとう。」
「……無事で何よりだ。」
搾る様にそれだけを言った。
自分の内部で手一杯だったトリスタンは、身体を包む騎士のマントを押さえつけるレティシアの細い指先が、微かに震えていた事に気付けなかった。
V.
聖剣を持つレティシア、赤炎のスルスト、氷のフェンリル、天使長ユーシスの手でアンタンジルは再び封印された。
だが魔導師ラシュディがいる限り、ガルフのような、封印されし魔界の住人は現世へ出てこようとする筈である。
ラシュディを倒すまでは決して油断は許されない。
天界の騎士や天使にその可能性を知らされて、レティシアはぐっと聖剣を握る手に力を込めた。
長手袋で肌を隠したその両腕が、ビリビリと痛む。
痛みを全く顔に出さずにいたレティシアを、ユーシスが見破って耳打ちした。
「早く治しなさい。次に目指すアラムート城壁を越えれば、もうゼテギネア領ですよ。」
治癒の魔法が使えないのを残念に思いながら、天使長はしゃらしゃらと風に翼をたなびかせた。
天使の翼は有翼人種のそれとは違う。
飛ぶ為に創られたカノープスらバルタンたちの翼。
だが天使たちの翼は、飛ぶ為のものではなく『天に住まう者』としての象徴的意味合いが強く、その羽根は柔らかい。
もちろん翼をもがれれば飛ぶ事は叶わなくなるが、バルタンやホークマンの様に翼をはためかせる事は少ない。
レティシアはユーシスの気遣いに礼を述べると、キュアポーションを取りに簡易倉庫へ向かった。
人が居ない事を確認してから素早く部屋に入り薬を探し当てる。
「何をしている?」
その声に、自分でも過剰だと思ったくらい反応してしまった。
手にしていたポーションが床に落ちて転がり、ランスロットのつま先に当たって止まった。
軽い溜息をついて、ランスロットが瓶を拾い上げた。
「…やはり怪我をしていたんだな。」
少しだけ怒っている様に見える。
「何故アイーシャ殿やノルン殿の所へ行かないのだ?」
「…戦いを終えた後の彼女らは忙しいから。それだけだ。」
ランスロットが一歩を踏み出すと、逃げる様に一歩後じさる。
ポーションの瓶はもとあった棚に返した。
「レティシア殿、ガルフと何があったかは言いたくないのなら聞かぬ。しかし傷は早急に治すべきだ。」
「……。」
返す言葉もない。
ランスロットの言っている事は最もだった。
だが傷を治すにはその傷痕を晒す事を必要とする。
そうすれば何故?と問われるだろう。
それを思うと誰にも見せたくはなかった。
「レティシア殿?」
ランスロットの眉が困惑にひそめられた。
よくよく見れば、彼女の華奢な身体はわずかながらに震えている。
ランスロットが動くより一瞬早く、
「傷はたいした事がない。薬で治る程度だと判断したからここに来た。」
いつもと全く変わらない声、表情であった。
凛々しくて、気丈で、どこか女らしくない態度。
それらは自分が今見ていたものが気のせいだと思わせたが、やはりいつもの覇気がない。
「レティシア殿。」
ランスロットはレティシアの肩を掴んだ。
長手袋に隠された部分のどこまでが怪我か解らないから、であろうが、レティシアはランスロットの細かい配慮に対し、好感を抱く。
「傷を見せてくれ。私にも治癒の魔法が使える。」
目が丸く見開かれた。
レティシアはこの事を知らなかった。
もちろんそれは、彼がそれをひけらかす事をしないからである。
「断わる!薬で十分治せる!!」
傷痕を見せてたまるものかとレティシアは、ランスロットの予想以上に彼から逃れようとして暴れた。
もちろんランスロットも、それで易々と逃がすような男ではないのだが内心どうしたものかと迷いがあった。
もしどんな事があっても隠しつづけていたいものだったとしたならば、余計な事で彼女の気持ちが自分から離れるのが嫌だったからだ。
だがそれはは別の所で、自分を頼って欲しいとも思う。
じり、と胸の奥が焼け付く様に痛んだ。
そして、やがて彼女への困惑だったものがゆっくりと自分への失望にすりかわって行く。
彼女が何故。 自分に、我々に、助けを求めないのか。
それの答えは十分過ぎるほど知っている。
「…そんなに頼りないのか。」
「え?」
す、とランスロットの手の力が、レティシアの肩の上で抜けた。
「無理強いをしてすまなかった。」
ランスロットのこの時の表情を、レティシアはこの先ずっと忘れないだろう。
頼られない事の全てを自分の力不足と背負いこむ、この生真面目な騎士を、前々から愛しいと思っていたが、今、更に愛しいと思った。
この不器用な優しさに、不思議と腹を据える気になって行くが…弱い自分を、彼は許してくれるだろうか?
『彼が必要としているのは、リーダーとして強くある自分。』
そう思うからこそ、本当の自分をさらけ出す事など絶対にしたくないと思っていた。
彼に必要とされていない事など、決して知りたくはないのだから。
手の平に汗が滲む。
真実を打ち明けた後のランスロットが怖かった。
「…わかった。」
顔を上げた騎士の顔を見つめながら、レティシアはついに覚悟を固め、震える指先で、傷を覆っていた長手袋の紐を解き始めた。
ランスロットは驚きの表情でそれを見詰めている。
「ランスロットを信じる。だから…。頼むから、私を見捨ててくれるな。」
「誰が見捨てるものか。何があったとしても、私は貴方の側にある。」
その言葉がわずかに決心を鈍らせる。
この信頼を裏切る証をこの身に持つ故に。
だが、レティシアは萎えそうになる決心を必死に奮い起こして先を続けた。
「私は…ガレスと同じ暗黒をこの身に持っている。ガルフと戦ってそれを思い知った。」
「……。」
「アンタンジル城の光を、見たな?」
「ああ。」
レティシアは一度目を伏せ、胸の奥を吐くような掠れた溜息をつく。
「あれは……サンのカードの魔力。太陽は、生きとし生ける者を慈しむ光だが、光を嫌う闇には無数の刃だ。その光は心まで照らすものだ…。」
レティシアは両腕を覆っていた長手袋を遂に暴く。
ランスロットはその凄惨さに息を止めた。
白かった肌は赤黒く醜く爛れ、幾筋もの切り傷が刻まれていた。
まるで両腕だけが部品を違えてはめられている様だ。
彼女についていてもそれは彼女の腕には見えなかった。
「…ッ。」
思わず息を呑んだのは、その傷跡の凄惨さによるものによってだけだった。
「…ランスロットは、私が怖いか?」
「何?」
突然の思いがけない問いを、ランスロットはつい聞き返してしまう。
「この傷は、紛れもなく私の闇を貫いた証し。…帝国と同じ道を行こうとしていた私の…。」
サンの魔力はガルフたちと根源の同じ闇を、レティシアの中の昏い感情までを暴き出し、無慈悲にも自分を襲った。
目を反らしていた疑惑が残酷なカタチで思い知らされた。
足元が脆く崩れたようなショックで、それきり真ッ暗闇の中でへたり込んだのだが…傍に双子しかいなかったのは不幸中の幸いだった。
本当は2人にさえも知られたくはなかったけれど。
遂にランスロットの顔を見られなくなって、レティシアはうつむいた。
「私は…私が怖い。」
ランスロットにとっては初めての頼りない姿だった。
自分の前で彼女がこんなにも心の奥まで開いてくれたのは初めてである。
無意識にそれに応えようとしたのかもしれない。
ランスロットは、レティシアにとってはとても意外な行動を取った。
レティシアの小さな頭を、自分の胸に引き寄せたのだ。
「…そう思ったことなど、ただの一度もない。」
ランスロットはそう、腕の中にいる彼女にだけ聞こえる様に小声で呟く。
レティシアの手がランスロットを抱き返す動きを見せたが、空を掴んだだけで力無く垂れ下がった。
青銀の鎧の胸を押す様にして身体を離す。
ランスロットはレティシアのなすがままにさせていた。
「…ガレスが憎いんだ。何度自分の心を殺そうとも、奴に向かい合う度、憎悪こそが私をこの戦いに駆り立てた事を思い知る…。そしてその為に力を求める自分がいる…!!」
帝国を打ち倒して平和と自由を求める気持ちとは別に、父や母、サイノス、そして友人たちの仇だと、それがいつも根底にあった。
護れなかった命たちの為に、それらを護る純然たる「力」を欲っした。
強くなれば護れると思っていた。
だが、自分はエンドラやガレスと同じ道へ、知らぬままにゆっくりと墜ちて行っているのだろうか。
そしてもうひとつの渇望。
仇を討つこと。
それは独り善がりな自己満足に過ぎないことを知っている。
だが理屈だけではあの日の絶望は埋められない。
「力を得て、やつを自分の手で殺したいと、無意識にしろずっと思っていた。だから、今は…ギルバルドやトリスタンにも嫉妬している。きっと、私が自身の手でガレスに止めを刺す日まで、この思いは止まらない!」
ガレスと戦っている時の高揚感、それこそが自分が汚れて行っている証しと思えた。
握り締めた拳から鮮やかな鮮血が滴る。
ガレスへの…そして何より自分への、激怒に身体が震える。
「レティシア殿。」
その呼びかけにやっと彼女は今を取り戻す。
ランスロットは我が子を慈しむようなまなざしでレティシアを見つめていた。
それと、触れるだけの優しい手の平から温もりとともに感じる、与えるだけの愛情。
それは(彼女には全く不本意ながら)レティシアに今一番必要な種類の愛であっただろう。
「…誰かを憎む事を…私は悪い事とは思わない。」
「え…?」
その内容よりも、ランスロットの思いがけず優しい声に驚いていた。
「私が君と会ってすぐに、ウーサーと戦った事を憶えているか?」
レティシアはランスロットの言葉にうなづいた。
「ウーサーは私から沢山の大切な仲間たちを奪った。だからこそ憎んだ。だがその憎しみは私が生きる為に必要だった…。憎む事で生への執着を得ていたんだ。」
自嘲気味に口の端を曲げる。
「私を軽蔑するか?」
「そんな事は…!」
レティシアは首を振って、自分の発言を後悔した。
彼の傷口をこじ開けている事に気付いた。
ランスロットはレティシアの髪を撫でる。
「私がこんな事を言えた義理ではないのだが…憎む事を悪い事とは思わないよ。それで君の心が癒されるのなら、いくらでも憎んで良いと思う。私が…、レティシア殿がもしも道を間違えたとしても、皆が側にいる。だから一人悩んだりせずに頼ってくれ。レティシア殿の力になりたいと、誰もが望んでいるのだから。」
ランスロットはそっとレティシアの手を取って、治癒の呪文を唱えた。
レティシアの中に、神聖魔法とは違った暖かいものが全身にじんわりと広がる。
「…間に合わなくてすまなかった。」
ガルフと戦う際の事であろう。
レティシアはもう何も言えずに、ランスロットの鎧の肩に額を寄せた。
「ランスロットに出会えて良かった。」
「え?」
「何でもない。」
レティシアの呟きを聞き漏らしたランスロットに向かって微笑む。
ギルフォードとアルバートの2人がかりでも上手く直らなかった傷は、時間を要したが治癒して行った。
傷が薄らピンク色の薄いものに変わって、肌も彼女自身の白さが戻る。
「どうだ?」
軽く握ったり、手首を振ったりして様々な諸動作を試す。
痛みはほぼなかった。
「全く元通りだ、ありがとう。」
「そうか。しかし、出来れば専門の僧侶に看てもらって欲しい。」
「そうする。」
買ったばかりだったがもう長手袋は必要ない。
レティシアは自分の黒い部分すら治癒した騎士に、言葉にならない感謝を捧げた。
ランスロットの手を取って、その指(と言っても手袋をはめていたが)に軽く口付ける。
「…レティシア殿…?」
「ありがとう。」
狼狽して頬を染めたランスロットに微笑んだ。
ランスロットの手が再びぴくりと動く、それと同時に遠くからレティシアを呼ぶ声がした。
反応したその手は一体何をするつもりだったのか。
「…行こう。レティシア殿。」
「ああ。」
W.
その夜は、ささやかながら酒宴が行われる事となった。
「乾杯!」
至る所で杯が打合わされ、誰もが束の間の喜びに身を浸して笑っていた。
だがその場にレティシアの姿はない。
彼女は酒宴を丁寧に辞退し、自ら哨戒任務に当たっていた。
その休憩時間にも地図を眺めたりと自分を追い込む様に自らに課せられた作業をこなして行く。
それでも、何もかもをウォーレンと2人でこなしていた頃よりは遥かに楽であった。
「いいですよ、レッティ様。楽しんで来たらどうです?」
「私が祝杯をあげるのは、ゼテギネアの終焉の日だけでいいよ。カーマインこそ行っても良いぞ。ルルと約束してなかったか?」
「!」
同じく哨戒任務に当たっているカーマインは、あからさまに狼狽して顔を真っ赤にした。
「ルルとは…その。」
「ノロケられるくらいなら暇をくれてやるから行って来い。ここは私一人でも大丈夫だから。」
笑ってレティシアは冗談めかしながらカーマインに宴を勧めた。
しかしそれとこれとは別です、と赤くなったままの顔を無理矢理に引き締める。
口調はくだけながらも、厳しく周囲に気を配りながら哨戒任務を続けていたレティシアのもとに、騒ぎが転がり込む少し前の事であった。
豪快に杯を煽る者こそ少なかったが(いないわけではない)、誰もが先へ続いているはずの、まだ見ぬ世界への希望を肴に祝宴が続いていた。
ギルバルドと肩を並べて飲んでいたカノープスが、途中から酒宴に参加した魔女・デネブの誘惑を逃げる様に振りきって月明かりの中庭に逃げ出す。
酒に酔って、身体が火照っていたので夜風は最高に気分が良かった。
気持ち良さそうにカノープスが目を閉じてその感触に酔う。
その後ろから、一人になるのを待っていたかの様なタイミングでランスロットも中庭に来た。
祝い酒にしてもまだ早いと言う気持ちがあったため、ランスロットはあまり飲んではいなかった。
正直なところでは夜襲を気にしているのだろうが。
闇夜に赤い翼を見つけて、ランスロットは近づいた。
「カノープス。ちょっと良いか?」
ランスロットには見えない様に影でバツの悪い顔をつくる。
カノープスは、シャングリラ攻略前のレティシアの告白を思い出してしまうので、しばらく自発的にランスロットを避けていた。
今はとても気分が良かったからランスロットと話すことにそんなに抵抗はなかったが、思っていたより真面目な声だったので、面倒を感じて内心鬱陶しく思う。
この声音はカノープスが苦手とするものだ。
「ん〜、辛気臭い話しなら遠慮してェな。今は気分がいい。」
「大切な話しだ、真面目に聞いて欲しい。レティシア殿の事だ。」
その瞬間にカノープスの四肢が固まった。
くだらない事なら容赦しないぞと言わんばかりの剣呑な光を含んだ目を一度閉じて、気持ちを押し静めてから、やっとランスロットに向き直る。
「…そんなツラする様な真面目な話しなら、酔う前に話し掛けて来いっつうの。まあいいけど…。」
カノープスはわざと笑ってから、広げていた翼を閉じる。
「それで?」
「レティシア殿の身体に触れる様な事は、今後極力遠慮してくれ。」
「何だ、ヤキモチでも焼いてたのか?」
レティシアの喜ぶ顔が一瞬よぎり、顔が緩む。
カノープスは彼女が幸せになるなら、切ないけれど俺のこの気持ちはいいや、と思った。
だが続く言葉はカノープスの気持ちを見事に裏切った。
「彼女は、ゼノビアの王妃となられるやもしれん。」
「…は?」
「殿下はレティシア殿を想われている様なのだ。もしもそうなら、こんなに喜ばしい話しはないし、彼女も必ず幸せになれる。」
カノープスには信じられない事であるが、当のランスロットはそれを心から祝っている様だった。
「…お前…、何を…」
トリスタン皇子がレティシアを好きだと、まあそれはいいとしてもだ。
何でそんなに他人事なんだ。
ランスロットの顔に苦渋の一滴すら見つけられない事に、カノープスは唖然としていた。
これが演技だと言うならば、大陸一の役者であろう。
カノープスは、レティシアの為にも、自分の為にも、ほんの一筋だけでいいからランスロットの中に嘘を見つけたくて、じっと目の前の騎士を食い入る様に見た。
だがやがて深い後悔と苦悩にその空色の瞳を閉じる。
「…殿下と結婚する事でレッティが幸せになれるだと…?レッティに触れるな、だと?」
カノープスはふつふつと湧き出した獰猛な怒りに、拳を振るわせた。
カノープスは完全に頭に血を昇らせていた。
「大きなお世話だッ!自分の事は自分で決めるッ、俺に指図するんじゃねェッ!」
それは敵を前にした虎の咆哮によく似ていて、自分でも獰猛な声だとカノープスは思った。
牙があるなら噛み殺しているところだ。
ぬけぬけとよくもそんな事が言えたものだ。
「カノープス、彼女はゼノビアの母となる女性なのだ!そして彼女には相応しい相手が…」
「それがトリシュトラム殿下と言う訳か?ハッ!ご立派だな!」
「口を慎め!」
ランスロットの非難の声に更に眦を吊り上げる。
気が付いた時には、カノープスの右拳が唸りを上げてランスロットを襲っていた。
鈍い音とともにランスロットの上体が傾ぐが、彼は倒れなかった。
ランスロットは自らの左頬を殴ったその右拳に怯む事なく、その手首を捕まえギリギリと締め上げる。
ランスロットは誇り高い男である。
自分が仕える主君・トリスタンの事を軽視されることは即ち、自分が見下される事と一緒であると考えていた。
先程のカノープスの物言いは、彼にとって許せるものではなかった。
「…お返しだ!」
ランスロットは言うなり掴まえていた手首をぐいっと引き付けると、左拳で強かにカノープスの腹を打つ。
息を数瞬詰まらせて、たたらを踏みながらも顔を上げて睨む。
どちらの言葉もレティシアを思えばこその言葉だったが、それは互いの気持ちを綺麗に上滑っていた。
X.
レティシアが騒ぎを聞きつけて駆けつけた頃には、ランスロットの凛々しい顔も、カノープスの精悍な顔も、猛烈な殴り合いによってボロボロになっていた。
この珍しい取り合わせの乱闘を止めようとして何人かが2人を割っていたが、振り解かれて叶わずにとばっちりを食っている。
野次馬根性のギャラリーたちの中にはどちらが勝つかに金を賭けている者たちもいたが、その場に訪れたレティシアが底冷えのする目で睨みつけると、その場を離れて行った。
「何をしているッ!!」
空気を震わすような大喝に、2人の殴り合いの手がはじめて止まる。
「レティシア殿。」
「レッティ。」
「…お前たちには、弁解の余地は与えん。歯を食い縛れ。」
見るからに怒っているのがわかった。
2人は本能的に彼女を恐れ、数歩後ずさりたい欲求にかられたが、それは理性でもって踏み止まる。
レティシアは近づく間一言も喋らず、無言であった。
そしてがっとカノープスの首の後ろを引っつかんだと思うと、腹に膝を叩き込み、身体を半回転させ、続けてランスロットの腹部にも右拳をめり込ませる。
乱闘の途中でランスロットは、身に着けていた鎧を投げ捨てていた。
鎧の着用で生じるハンデが彼には耐えられなかった為であったが、この制裁の事を考えるとやや後悔した。
そして場違いながら、腕の完治を喜んでいる。
2人は声もなくたまらずうずくまり、激しい嘔吐感と痛みに耐えた。
「他の兵士の手本になるべき立場で馬鹿げた事を!」
レティシアは顔をしかめてそのまま踵を返す。
「誰も手を貸してやるなよ。」
ガツガツと踵を激しく打ち鳴らす様にして立ち去るレティシアを追おうと、ランスロットは慌てて立ちあがろうとして、痛みに態勢を崩して転んだ。
その情けない姿にカノープスが笑いかけたがぎゅっと顔を引き締める。
息をするだけのわずかな動きだけで、腹筋が痛みを訴える。
とてもじゃないが、軽口すらも叩けずにしばらくその場に声なくうずくまったままでいると、見かねた数人が手を貸してくれた。
その手を辞してギャラリーを解散させると、ずるずると身体を少しずつ起こし、壁に背中を預けて2人は顔を見合わせる。
「………悪かったな。」
「いや、私の方こそ。お前の気持ちを思いやらずに手前勝手だったと反省している。」
「俺は別に…そんなんじゃねーよ。」
「そうなのか?」
「聞くな、バーカ。」
カノープスはふいっと横を向いた。
その頬に、自分がやったとはいえ、見苦しく変色した痣を見つける。
「…男前が台無しだな。」
「良く言うぜ、その男前をここまでにしたのは誰だ?」
「違いない。」
痛みを伴うが、ランスロットは堪えきれずに笑った。
カノープスもそれにつられる。
「痛ぇ…全く、ガサツな女だ。」
「何の。元気があって良いではないか。」
「……マゾか、お前は。」
カノープスの呟きを黙殺して、ランスロットは星空を見上げた。
「レティシア殿には幸せになって欲しい。」
「…ああ。」
その気持ちに偽りはない。
だが、カノープスにとって業腹なのは、その権利をランスロットが文句なく手放してしまっている事だ。
彼女が選んだただ一人の男は、彼女を別の男に委ねる事に何の感慨もない。
宴の席の音楽が、風に乗ってかすかに聞こえた。