STAGE17.永久凍土

 

T.

翌朝、どうにもすっきりとしない感情にカノープスは部屋でじっとしている事が出来ず、出掛ける事にした。

「アラ、カノぷ〜どうしたノ?冴えない顔ネェ?」

昨日、ヘソを曲げた事などすっかり忘れた様に、デネブがカノープスを見つけて声を掛けてくる。

カノープスは広げた翼を一旦仕舞った。

「ン?ナァに?おねーさんに話してミナイ?」

デネブは誘惑する様にカノープスの腕に絡みついた。

フワリとオリエンタルな香りがカノープスの鼻腔をくすぐり、思考を痺れさせる。

つい誘惑に乗ってしまいそうになってカノープスは腕を振り解いた。

やはりこの魔女は苦手だ。

振り解かれたデネブは唇を尖らせたが、すぐに笑顔に戻る。

「まあ、いつでも待ってるワ。部屋の鍵は閉めないでおくから、いつでもドウゾ

「誰が行くかぁッ!!」

「わっ!?」

ドサドサと書類が落ちる音がして、カノープスは視線を巡らせた。

そこにはレティシアが困った顔で足元に散乱した書類を見つめている。

「カノープス、驚いて書類を落としてしまったじゃないか。責任取って、拾うのを手伝ってくれ。」

苦笑を交えて言ってから、レティシアは屈んで書類をかき集め始める。

カノープスもそれにならって拾い始める。

デネブは風で飛びかけた書類をヒールのつま先で捉まえた。

だが決して屈もうとはしない。

レティシアはデネブのヒールの下で風にはためいている、最後の1枚になったそれを拾い上げる。

「ありがとう、デネブ。」

「…もぉ。」

他の者なら、この行動に腹を立てるものだろうが、彼女はきちんとデネブなりの手伝いだと理解してくれる。

デネブから見れば、自分が1番気に入っているカノープスがレティシアを好いているのは一目瞭然で、意地悪の一つや二つしても文句は言わせないぞ、といったものだが、デネブはそれと同じ位レティシアが好きなのである。

デネブは困ったような微笑を浮かべてレティシアの頬にキスをした。

「???」

「やっぱり私、レッティが好きヨ。」

「…? それはどうも…。」

「じゃあネ。おーじサマたちが帰って来るの、もう少し先デショ?私はその間研究するから、呼んじゃ駄目ヨ☆」

デネブはもう一度レティシアの頬にキスをして去って行った。

「何だ?アレは。」

「俺に聞くな。あの魔女の考えている事はぜんッぜんわからん。」

でも仲が良いじゃないか、とレティシアは思ったが、言ったら小突かれそうなので止めた。

「何で大声出してたんだ?」

「何だったかな、忘れちまったよ。」

カノープスはデネブに誘惑されかけた事をレティシアに知られたくなくて視線を反らした。

ふぅん?とレティシアは鼻を鳴らして歩き出す。

カノープスはなんとなくその後ろについて歩いた。

「これからウォーレンの所へ行くんだが…カノープス、私の味方をしてくれ。」

「?何だそれは。」

「ユーシス様の姉であり、堕天使のミザールがバルハラ平原にいるんだ。全軍を動かすのはまずいけれど、デネブの言う通り、殿下たちが戻るまで多少の時間がある。ユーシス様と私と…ヒュースパイアとで行って来ようかと…。」

後半のくだりはカノープスの機嫌を伺う様に、上目遣いに彼を見ながらの台詞であった。

その心許無い顔に、カノープスはつい苦笑する。

「俺を連れて行くなら味方をしてやるよ。」

「カノープス、ここのところずっと前線だろう?疲れていないか?」

「俺はバルタンだぞ。人間よりももっと頑健に出来てる!」

「そうか?カノープスが来てくれるなら心強いな。」

「じゃあ決まりだ。」

カノープスは上機嫌になって破願する。

先程までの鬱めいた気分は綺麗に払拭されていた。

 

U.

バルハラ平原は、25年前の戦争で使用された魔法のおかげで、年中雪が降り積もり、永久に溶けることのない凍土と姿を変えてしまっていた。

天候まで変えてしまうほどの魔法とは、いったいどのようなものだったのだろうか。

あまり知りたくはないが、興味はあった。

「それにしても…寒いな。」

吹付ける雪飛礫の混じった風に顔をしかめる。

まともに目も開けていられなかった。

「すみません、私の身勝手なお願いを聞き届けてくださって…。」

「身勝手なら、レッティの方が何枚も何倍も上手なんだから、気にする必要は無いさ。」

ユーシスがうなだれると、カノープスが口を挟む。

レティシアは、カノープスを睨みつけてから、ついに自分も我慢出来ずに苦笑いを浮かべた。

「ま、そういう事だ。」

街によって何度か暖を取りながらレティシアたちはバルハラ城を目指している。

バルハラに住む者たちは、堕天使ミザールに同情的であった。

天界には、人間と感情で関わってはいけないという掟があり、干渉する場合は天使長が、僧侶との契約を結んだ場合によってのみである。

もちろん、その対象は神からの祝福を受けた者である必要がある。

どう考えてもラシュディにそんな資格はない。

しかし、前天使長であったミザールは、こともあろうに魔導師ラシュディという人間の男を愛し、彼の為だけに契約を結んでしまった。

それ故にミザールは天界を追われてしまった、と言うのが大半の見解であるが、実はもう一つ、彼女には拭いきれない大罪があった。

十二使徒の証しと並ぶほどの魔力を秘めた魔石・キャターズアイ、それをラシュディに与えたと言うのだ。

キャターズアイとは、遥か昔に白魔道を極め、黒魔道の神秘すらを我が物にした男・ドュルーダが封じ込められた宝石である。

彼の魔力と聡明さは、他の使徒の追随を一切許さないまでに素晴らしいものだった。

その彼が、力を求めた末に暗黒道へと転落する事を、誰が想像し得ただろうか。

だが、その彼も他の11人の使徒たちが総力を決した事により彼を宝石に封じ込められ、ようやく恐怖は終焉を迎えた。

その後キャターズアイは天界の置く深くに何重もの封印を施されて保管されて来た。

だが、ミザールはそれを再び世に放ってしまったのだ。

この石は、所有者にドュルーダが得た力だけではなく、その悪しき思考までも送り込む。

意志の弱い者ならすぐに精神から破壊し尽くされるだろう。

だが幸か不幸か、ラシュディはそれを我が物としてこの大陸に混乱を呼び込む結果となった。

ミザールが石の為ではない、ラシュディの豹変に目を疑ったのは、正にこの瞬間だったのである。

もともとラシュディにしてみれば、ミザールに近づいたのはこの石だけが目当てだった様だが、当のミザールはそれを見抜けずに優しい恋人の為に、天界の父を裏切り姉妹たちを裏切り、自らの心をも裏切った。

どんなにラシュディがそれを望んだとしてもしてはいけない事くらいはミザールにもよく判っていた。

だがそれでも、狂わんばかりの恋情が無垢な天使を突き動かしたのだ。

その一途な愛の罪故に、ミザールを哀れむ人は少なくない。

この大乱のきっかけをミザールがつくったのだとしても、愛する者を追いかけるその姿に感動しない者はいないのだ。

ラシュディに裏切られ、天界の掟を破った為に天界を追われた彼女は、ラシュディの庇護の下でこの地を治めるようになった。

この酷寒の地で1人、バルハラ城でラシュディの帰りを待っているらしい。

城が近づくにつれ、吹雪は勢いを増し、レティシアたちを白い石像に変えようとでもする様に横殴りに吹付ける。

レティシアはうっかり冷たい空気を胸一杯に吸い込んで咽た。

「大丈夫か?」

「平気だ。けど、カノープスは寒くないのか?」

「流石にこうまで吹雪けば俺だって寒いさ。」

レティシアには、あっさりと当然の様に言うカノープスへの疑惑が尽きない。

寒いのならもっと着込めばいいだろうに、彼は着衣を拒んで上半身は裸のままであった。

もともと有翼人は我々人間よりも色々な意味で強く出来ているのだから、カノープスの今の状態は、自分が2重に防寒着を着て震えている、そんな程度の寒さなのかも知れないが。

正直に言えば、見ているこっちが寒い。

レティシアはそっとフードの裾で自分の視界からカノープスを隠した。

吹雪に巧妙に隠されながらも、城の一部が見えはじめる。

「あれがバルハラ城…堕天使ミザールが居城…。」

レティシアが寒さで赤くなった鼻先を両手で覆って言った。

警備兵はおろか、衛兵などの駐屯兵は誰一人として置かれていなかった為、難なくバルハラ城の内部へ入る事が出来た。

吹き抜けの大きなエントランスを進んで、大きな半円を描く階段を上る。

ステンドグラスがはめこまれた大きな大聖堂の様な造りのホールに辿りつくと、カツン、と冷たく冷え切った城内に靴音が響いた。

レティシアたちははっとして顔を上げた。

ユーシスと同じ面差しの天使が、哀しそうに佇んでいた。

「ミザール…?」

めしいた女の様によろけながらこちらへ歩み寄って来る。

虚空を見つめる瞳は何も映してはいなかったが、やがてユーシスの光に目を奪われた。

 

「…そこにいるのはユーシス、ユーシスね!?」

「姉さん…。私がここに来た理由…わかっているよね。姉さん。お願いだから、…一緒に帰ろう。…ね?」

「駄目よ。そんな事出来るわけないじゃないッ!私は聖なる父の教えを破り、悪しきラシュディと契約を交わしてしまった…。それだけではないわ、あの忌まわしい石を…キャターズアイを渡してしまった。そんな私を許せると言うの?」

ユーシスは眉根を寄せて黙り込んだ。

ミザールはその様子にどこか満足そうな寂しさを憶えて目を伏せる。

「ミザール、今でもラシュディを愛しているのか…?」

「貴方…そう、貴方がレティシアね。」

ミザールは初めてレティシアに目を止めて微笑んだ。

胸を抉られるような悲壮な笑顔に、我慢出来ずに顔をしかめる。

「そうよ、裏切られたと知った今でも変わらず彼を愛しているわ。」

「どうして…どうしてなの?姉さん。私たちには、聖なる父である神と愛しい姉妹たちがいるのに…どうしてッ!私には判らないわ!どうしてなの…姉さんッ!?」

ユーシスが大きく頭を振って涙をこぼした。

天使であるユーシスの「愛」は言うなれば「博愛」であり、ミザールのただ一人を選んだ「愛」とは大きく異なる。

だが、無垢な天使故にユーシスはそれを理解出来ず、ミザールを言葉のナイフで切り刻んだ。

「ユーシス、ごめんね…。でも私は貴方がそれを理解する日が決して来ない事を祈っているわ。忘れないで、ユーシス。貴方には理解出来ないこの愛が、私に全てを捨てさせた事を。」

「…姉さん。お願い…。一緒に帰って…!でないと、私は姉さんを倒さなきゃいけなくなる…!!」

そんな事はしたくない。だからお願い、と哀願するユーシスの瞳から、ミザールは目を反らした。

「…それが正しい選択だわ。あなたの役割を思い出しなさい。私を殺しなさいッ。」

「姉さんッ!」

「そして、聖なる父の名誉を取り戻しなさい、ユーシスッ!」

ミザールの手にした大きな十字架から真白い爆光が放たれた。

我々目掛けて一直線に放射された光は多大なる破壊力を持って、壁を薙ぎ、柱を砕いて迫り来る。

レティシアたちは望まないながらも戦うしか道を残されてはいない事を知った。

「姉さん!」

ユーシスも振り上げた十字架からミザールのそれよりも格段に強い真白い爆光が放たれる。

そしてカノープスのサンダーアローとレティシアのソニックブームが、ミザールの胸を抉った。

勝負は、たったそれだけでついた。

もともとミザールには戦う意思などなく、ただ死を望んでいただけだったのだから。

カランと澄んだ音を立てて十字架が取り落とされ、ミザールは白い衣服を鮮血に染めてその場に崩れ落ちた。

「ミザール姉さん…。」

抱き起こしたミザールにはまだ細いながらも息があった。

「ユーシス、ラシュディを止めて…。彼は恐ろしい男よ…。今、止めなければ世界は再びオウガの手に渡ってしまう…。お願い…、彼を殺して…。」

「姉さん!しっかりしてッ。」

「…これで…父の元へ帰れ…る…のね…。…ありが…とう、ユーシス…。」

「姉さんッ!!ミザール姉さんッ!」

「ラシュディ…愛して…い…るわ……。」

「ああっ、…姉さん。」

ユーシスの腕の中で堕天使は息を引き取った。

死顔は安らかで戦いで命を落としたとは考えにくいものになっていた。

姉の死に打ちひしがれる天使は亡骸にいくつもの熱い雫を落とし、鮮血の赤さを和らげる。

ユーシスが触れていた部分から、淡い光の粒になって宙に溶けていく。

「姉さんに…聖なる父のお導きあれ…。」

その祈りに答えるかのように、ミザールだった最後の光の粒が切なげに震え、そして消えた。

ユーシスには最後まで理解出来なかったミザールの一途な愛は、レティシアには理解出来た。

ただ一人の為に世界が回るほどの情熱、それは今自分が感じている恋情そのものなのだから。

 

V.

カンダハルに戻ると、レティシアはユーシスと別れ、自室に戻った。

久しぶりに一息ついた気がする。

ベッドに身体を投げ出すと、自分が思っていたより疲労がたまっていた様ですぐに目蓋が重くなる。

ランスロットが側にいたなら、もう少し早くベッドに括りつけてでも休養を取らせてくれただろうか、と薄れ行く意識の中、ランスロットの精悍な顔が思い出された。

しかしすぐにその心安らかな静寂は、窓の外の異様な騒がしさに破られる。

「何事だ?」

レティシアは声高な騒ぎの元へと足を向ける。

そこには、歌姫ユーリア・ウォールフがカノープスに抱えられて移動する場面があった。

ちらりとユーリアの身体に目をやると、いくつもの傷が刻まれており、ここまでの旅が彼女を酷く痛めつけた事を知る。

「ユーリア!」

「レッティ、話しは後にしてくれ、手当てが先だ!」

「いいえ、兄さん。私はレッティ様にお話があるのです!聞いて下さい、私がここを訪れたのはトリスタン皇子の聞きをお知らせする為です。トリスタン皇子が、ゼノビアでレッティ様反乱軍の救援をお待ちしているのです、一刻も早くお向かい下さいませ!」

「救援だと?どういう事だ!?」

「帝国は、天宮シャングリラをゼノビアに落下させるべく、遥か上空からゼノビアを目指していたのです。そのシャングリラはもうゼノビア目前です、トリスタン皇子はゼノビアに留まり、出来る限りの抵抗を試みると仰いまして…。」

ユーリアはそこで一つ咽た。

カノープスが血相を変えて、施療院に詰めている筈のアイーシャかノルンの手を借りるべく翼を広げた。

「どうかゼノビアにお急ぎ下さいませ!」

ユーリアのただならぬ剣幕に、レティシアは事態の深刻さを察した。

ウォーレンの居室を訪れすぐさまにゼノビアへ向かう者たちを手配する。

全軍を動かす事は、アラムートの城塞の帝国軍への牽制の為にも是非避けたい事なので、軍を2分して迅速に動く者を中心に組む事にした。

「ではウォーレン、留守は任せる。アラムートから帝国軍が出てくるだろうが、防戦のみでかまわん、私が戻るまでは決して討って出るな。」

ウォーレンが頷いたのを見届けてレティシアは身を翻した。

「ゼノビアへ!」

 

移動中、シャングリラが雲を割って見え始めている事に驚いた。

決して地上から肉眼で確認する事の出来ない遥か上空に浮かんでいたはずの天空の島が、ゆっくりと高度を落としていた。

ゼノビア城から、ワイバーンが数匹天空の島に乗り込むべく上昇しているが、気流の激しさに何度も後退する。

向こう見ずな試みをしているのはセルジオだろうと予想したが、思いも寄らぬ人物であった。

「殿下!?」

レティシアはそのワイバーンの背にトリスタンの姿を見つけて大声を上げる。

トリスタンもレティシアが率いて来た援軍を見て、ゼノビア城に降り立った。

「早かったな、助かる。」

「いえ。それよりも殿下、先程のを見ておりますとワイバーンでも島に辿り着く為には高度が足りない様ですね。」

「ああ。だがあと2日もあれば、多分ワイバーンでも上陸出来るくらいに下降してくるだろう。」

トリスタンは落ちついて答えた。

なるほど、今のはただの様子見と言う事らしい。

「ところで、ランスロットは別行動なのですか?」

レティシアがさり気なく尋ねると、トリスタンは途端に顔を曇らせた。

「先日、シャングリラからの攻撃で、ランスロットの部隊がはぐれた。ランスロット以外の者は運良く発見出来たのだが、ランスロットだけ、行方が知れない。」

「…え?」

 

W.

瓦礫を押し退け、名を呼ぶ。

いてもたってもいられず、レティシアは不安や怒りややるせなさ、不甲斐無さで自分が砕けてしまうのでは無いかと言う懸念を抱えながらランスロットの捜索部隊に加わった。

ランスロットが心配だった。

もしもどこかで死んでしまっていたら、自分はどうなってしまうのだろう。

今まで通り反乱軍の要として機能出来るのだろうか?

その場所に見切りをつけて、まだ捜索が行われていない場所へ移動する。

そしてまた名前を呼ぶ。

世界を失う前日は、こんな気持ちがするのでは無いだろうか。

不安でひたすらに哀しくて、いっそ首を掻き切って死んでしまえたら、それはどんなに楽な事だろう。

レティシアはランスロットの生存を万感の想いを込めて祈っていた。

日が落ちて、帰還を命じられても、レティシアはその場から離れたくなかったが、規則を破る事を、反乱軍のリーダーとしての自覚が否定する。

やむなく戻ったレティシアは食事も取らずに部屋で剣を握り、いつでも立ち上がれる様にベッドに浅く腰掛けていた。

キイ、とドアの兆番の軋みの音でレティシアは顔を上げる。

そこには何故か憔悴した顔でサラディンが立っていた。

「サラディン?」

「レティシア、ランスロット殿の事ですが…」

手にしていた羊紙皮の地図を広げると赤いペンで丸が描かれていた。

赤丸の場所はエルランゲンの北、森の中である。

「細かく位置の特定は出来ませんでしたが、この地点付近だと思います。」

「!?」

驚いてサラディンの顔を見ると、彼はしわを寄せて苦った。

「若輩者の魔力では、ここまでが限界だった。すまぬ。」

「いえ…いいえ!サラディン、ありがとう!!」

地図を引っ手繰る様にしてレティシアは部屋を飛び出した。

あまりにも慌てていた為に、誰かを連れて行く事を考えもしなかった。

とにかく気持ちが前へ前へと向かうため、足がついていかずに何度か転び掛ける。

息を切らせて汗が噴出しかけた頃、やっとその場所に辿りつく。

瓦礫の破片が土から覗いている。

もとはここに街があったのかもしれない。

「ランスロット、返事をしろッ!」

レティシアは声を限りに叫んだ。

無常なる夜の闇は、自分の声を飲みこんで余韻すら残してくれなかったが、それならばランスロットに声が届くまで叫ぶだけだ。

「ランスロット!!ランスロット!!!生きているのだろう?ランスロット!」

レティシアは焦燥感に心臓をギリギリと掴まれた心地であった。

胸の動悸が激しさを増し、そのリズムに合わせて頭痛がする。

レティシアが強く握った手の平には爪が食い込み血が滲んでいた。

「ランスロット!」

何度目かの呼びかけに答える様に、不思議な短音がした。

ばっとレティシアはかすかな物音がした方へ顔を向ける。

この場所でするには不可思議な音だった。

まるで音色のような。

だが、それがランスロットに繋がるものだと信じて音のした方へ転がるように走った。

瓦礫の山の下に見える赤いもの。

レティシアは息を詰まらせてそれを凝視した。

「ランスロット…!!」

捜し求めた騎士は、瓦礫の下に埋もれる様にして血溜りに倒れていた。

レティシアは駆けよってまず首筋に手を当て、脈の有無を確かめる。

弱々しいがまだランスロットの命の火は消えていなかった。

レティシアは彼の上の瓦礫を除け始めた。

瓦礫には、魔獣の爪痕と、魔法の行使の後がまざまざと刻まれている。

きっとこの場まで逃れた末に、生き埋めになってしまったのだろう。

だが上手く彼の身体を潰さない様にして瓦礫は積み上がっていた。

全く、たいした強運である。

不意に空から誰かが下降する気配を感じ、レティシアは反射的に腰のブリュンヒルドに手をかけた。

それはグリフォンに乗って駆けつけたトリスタンである。

「レッティ、単独行動は止めろ、心配する!」

「丁度良かった、ランスロットがこの下にいるんだ!」

「何!?」

トリスタンの手を借りて、瓦礫は手早く脇に除けられた。

2人は意識のない騎士を細心の注意のもと運び出す。

身体を持ち上げた拍子にランスロットの手の中から小さな小箱が零れ落ちた。

それは端的なメロディを奏でて、大地に転がる。

「…オルゴール…。」

レティシアは彼の居場所を知る決定的だったものがこのオルゴールという事に気付いた。

それは、彼の亡き妻が彼の命を救う為に自分を呼んだ、そんな風に感じた。

死してなお、彼と彼の妻の間を繋ぐ絆が……。

「…どうした?早く戻ろう。」

トリスタンが動かないレティシアに呼び掛ける。

その声で思考にはまりかけていたレティシアははっとしてトリスタンを見た。

ランスロットを一刻も早く治療してやらねばならない。

レティシアはオルゴールを拾い上げると、トリスタンの後ろに乗りこんだ。

 

X.

鍛えぬかれた騎士の身体が幸いし、命に別状はないとアイーシャは言った。

だが、彼女ほどの僧侶が憔悴しきった顔だった。

見かねたレティシアはアイーシャの身体を抱き上げる。

「レッティ様ッ!?」

「お疲れ様、部屋まで送る。」

「いいですわ、歩けますから!」

アイーシャは顔を真っ赤にしてレティシアの腕から逃れようと足をばたつかせた。

その狼狽ぶりが可愛くて、レティシアは苦笑する。

「まあ、アイーシャが嫌ならやめるが…。」

「嫌と言う訳ではないのですが…レッティ様女性なんですから…。」

あんまり格好良くても困るとアイーシャは続けたかったがうつむいてやめた。

なんだか発言するには恥ずかしかった。

結局抱きかかえられたままアイーシャは部屋に送り届けられ、レティシアも自室に戻った。

しかし落ちつけなくて再びランスロットの部屋へ向かう。

「ルル、ご苦労様。」

ランスロットの看病に当たったらしい僧侶に声をかけると、彼女は少し驚いて挨拶を返した。

どうやら眠さに舟を漕いでいた様だ。

「ルル、私が代わろう。今夜はゆっくり休め。」

「で、でも…。」

レティシアの言葉にルルは、始めは断わっていたものの、やがて承諾した。

ルルが部屋を出ると、レティシアはそれまで彼女が座っていた椅子に腰掛け、タオルを片手で掴む。

額に浮いた汗を拭ってやるとランスロットの顔が少しだけ安らいだ気がする。

目を瞑っていると、レティシアの好きな澄んだ湖のような青い目が見られない。

そのせいかいつもよりも少し老けて見えた。

今、ランスロットの枕もとにはあのオルゴールがある。

ルルがしてくれたのだろうか、土がキレイに拭い去られていた。

レティシアは何げなくそれを手に取って裏返す。

書かれていた文字は擦れてしまって読めなくなっている。

「…奥さんの名前かな。」

レティシアは見た事もない女性の顔をアレコレと思い浮かべた。

若いランスロットに愛された女性はどんな人だったのだろう?

音を聞きたかったがランスロットが目を覚ますかもしれないと思い直してまたもとの場所に置く。

ランスロットの胸が上下している。

彼が生きている事、それがこんなにも嬉しい。

レティシアは自分よりもずっと年上で、自分が生まれるよりも早くこの世に立って様々な経験を積んだ彼を尊敬していた。

そしていつの間にか尊敬は恋に変わり、自分を支える力強い存在となっている。

レティシアは導かれる様にゆっくりと身体を乗り出す。

「…あまり心配をさせるな。」

その頬にゆっくりと唇で触れる直前、ランスロットの唇が音もなく動いた。

レティシアは反射的に身体を離す。

言葉になっていなかったが、音にならずともレティシアには判った。

彼は今、自分の知らない女性の名を呼んだ。

今、側にいる自分ではなく…多分―――彼の、妻の名を。

「…ランスロット……。」

傷だらけのランスロットの顔の、すぐ横に置いておいた手が、きつくシーツを握りこんで震えた。