STAGE16.アンタリア大地
T.
ゼノビアに続いてマラノが陥落したという時事は各地に変化をもたらした。
反乱軍の活躍を受け、最近では各地で小規模な反乱が多発している。
そして魔術に精通する者たちからは、ハイランドの方向から悪の気配を感じるようになったなどとも言われている。
また帝国内部でも、目端の利く貴族や商人は早くも逃げる準備をしているらしく、水面下ではゼテギネア帝国の命運は尽きたと噂されるまでになっていた。
反乱軍たちは歩みをやや遅め、兼ねてから問題視されていた資金を調達するべく、トリスタン皇子に協力を仰いだ。
「軍を維持するために必要な金は、ゼノビアの宝物庫から出せるだけ出すがいい。」
自分の乳母であるバーニャから託されたと言う栄光の鍵を眺め、トリスタンは鷹揚にうなづいた。
レティシアはその言葉に安堵してトリスタンに頭を下げる。
トリスタンはそれを咎めた。
「やめろ、レティシア。私はゼノビアが復興されるまで一介の戦士だ。君は反乱軍の兵士一人一人にこんな態度を取っているのではあるまい?」
「ですが…。」
「公の場ならばこの様な態度も仕方ないと諦めもしよう。だが出来るならばトリスタンと呼んでもらいたいものだ。…これは、命令ではなく同じものを志す仲間としてのお願いだ。」
レティシアはトリスタンをまじまじと見詰め、真意を探った。
しかし、彼が本心からそう言ったのを知って破願する。
「それならこれからはトリスタンと呼ばせてもらいますよ? 良いんですか?」
「もちろんだ。そうしてくれると嬉しい。 それと、君はこの軍ではレティシアではなく違うように呼ばれているが…あれは?」
「レッティと呼んでくれています。幼馴染みがそう呼んでいたのがきっかけで、そう呼ぶようになっていますが、まあお好きにどうぞ。」
「レッティ、か。 愛らしい響きだな。君によく似合っているよ。私もそう呼ばせて貰うとしよう。」
苦手だな、とレティシアは率直に思った。
誉められる事をあまり得手としていないので、彼と話す時はいつもこうした誉め言葉が気になって仕方がない。
これがなければ頭の回転も速いし、素直なので扱いやすいのだが。
…余談ではあるが、皇子に対してトリスタンと呼び捨てる事については大きな反対があって結局断念せざるを得なかった。
仮にも一国の皇子に対して無礼であると窘められたレティシアは、身分というものはそういうものと納得して、以後やはり『殿下』と呼ぶ事になっている。
レティシアはトリスタンに1部隊を預け、一旦ゼノビアの城へ戻ってもらう事にした。
ゼノビアまでの道程は、反乱軍が平定して来た土地ばかりであるから、そんなに長い旅になることはないだろう。
だが、もちろんランスロットはトリスタンと共に行動する訳だから、反乱軍として機能し始めてからはじめて長い時間をランスロットと離れる事になる。
それを考えるとつい眉間にしわが寄ってしまっていた。
U.
反乱軍はマラノを越えてアンタリア大地を訪れていた。
アンタリア大地といえば、古来から『封印の地』と呼ばれた聖地である。
昔は年に一度、封印の儀式を行っていたそうだが、25年前の戦争以来行なわれていない。
もっとも封印そのものが伝説であるから、儀式が行われていなくても誰も困ってはいないが、いったい何を封印していたのだろうか。
そしてこの地に赴任したのは、屍術士オミクロン。
もとはホーライ王国神官長にまでなった僧侶である。
聖職者でありながら死者の秘法・ネクロマンシーに手を出して神官職を追われ、魔導師ラシュディに命を助けられてこの地で研究を完成させようとしている。
彼のつくり出した死者の軍団は帝国軍の侵攻に使用され、我々を何度も脅かしている。
レティシアは死を冒涜する事をなにより嫌う。
まだ見た事も無いオミクロンへの嫌悪がつのっていた。
既にこの地方の開放が始まっているが、今回はウォーレンの顔を立ててレティシアは前線に出ることはせずに本拠地であるバーミアンで情報系統を担当している。
今まで前線ばかりを考えていたが、この後方支援型に当たる情報収拾と言うのも大変なものだ。
「慣れないと大変でしょう?休憩なさって下さいな。」
リプリーの言葉に、レティシアは素直に従って気分転換の為にそこらをぷらぷらと歩く事にした。
作戦上待機している兵士たちと幾らか言葉を交わしていると、レティシアの両手を封じる様にしてスルストが突然背中から抱き着いて来る。
気配を消されていた為、レティシアはそれを避ける事が出来なかった。
喉まで出かかった悲鳴を辛うじて飲み込んで、スルストの膝へ思いきり靴の踵を叩き込むが、その踵はすんでの所でかわされる。
「そ、それは当たったら痛イデース、遠慮シマス〜!!」
「じゃあ離して下さい!」
「レティシア、話がアルのデース。ツイテ来て下サイ。」
「ついて行くも何も、私の意思とは別に連れて行っているじゃないですか!!!!」
レティシアはスルストに両手を固められたまま抱え上げられて運ばれて行く。
この姿をハタから見た場合を考えると情けなくてたまらない。
「降ろして下さい、自分で歩けます!」
「いいじゃアリマセンカ。」
「良くないから言っているのです!!」
「…そーデスカ?ああ、残念デース…。」
スルストは死亡宣告された病人の絶望した面持ちで、不承不承レティシアを降ろして解放した。
何もそんな顔をするまでの事ではなかろうに、と思うのだが。
「…あ、フェンリル様。戻っていらしたのですか?」
レティシアはスルストの向こうに氷の騎士を見つけた。
彼女は調べたい事があるとしてしばらく出掛けていたはずである。
「レティシア、アプローズと戦っている時に見た天使を…憶えているわね?」
フェンリルはスルストの隣まで歩み寄って口を開いた。
2人が並ぶと、炎と氷の対比が目に鮮烈な印象を焼き付ける。
「はい、もちろんです。何故ですか?」
「あの方の名はミザール…。天使を束ねる天使長だった方よ。彼女が天界を後にして地上に降りたのは知っていたけれど、その理由までは知らずにいたわ…。」
フェンリルはかつての友人を思い長い睫毛を震わせる。
「レティシア、ここから南に真直ぐ行った山岳の中に教会があるわ。そこへ行って頂戴。」
「わかりました、すぐに参ります。」
「ミーも一緒に行きマショーカ?」
「…絶対にお断り致します!」
2人きりではスルストのおふざけに対抗する術がない。
レティシアは言い切って踵を返した。
「すまないな、ビクター。」
「いや俺としては指名してもらって嬉しい限りだぜ。」
軍のグリフォンやワイバーンたちに空きがなかった為、レティシアはホークマンのビクターに教会まで運んでもらう事にした。
カノープスの飛行と比べるとやはり不安定で心許無いが、自分で地上を進むよりは遥かに効率的である。
(彼の飛行技術は群を抜いている訳であるから比較する方が間違えているとも言う)
移動中、至る所でアンデットや天使たちと遭遇する機会が非常に多く、レティシアとビクターは何度も身を隠したりして手間取る結果となった。
「…あった。」
有翼人の視力は人間よりもやや優れている。
ビクターは用心を重ね、古い教会の回りを探り、そこに自軍の旗を見つけて目を見開く。
「レッティ、教会にギルバルドさんがいる。」
「何?本当か。」
「ああ。直接教会に降ろすぞ。」
ギルバルドはレティシアたちを見て言った。
「丁度良かった。」
「?」
「教会の中に帝国兵に監禁されていた天使がいるのだが、魔術での封印も施されているようなのだ。俺にはさっぱりなんだが。」
「わかった。」
レティシアはやっとフェンリルが自分をここへやった意味を知った。
腰に履いているブリュンヒルドを抜き放ち、呼吸を整える。
教会の扉を開けると、魔法陣の中央に天使が繋がれていた。
「聖剣よ、悪しき封呪を打ち破れ!」
ブリュンヒルドの白光が魔法陣を容易く打ち砕く。
天使は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「貴方が…レティシア?」
「ああ。」
「私の名はユーシス。天使達の長です。」
「天使長?それはミザールの事では…?」
「姉をご存知なのですか!?」
「以前に見掛けた事がある…だけだが。」
「そうですか…、すみません大きな声を出してしまって。私は、姉のミザールを連れ戻そうと下界へやって来たのですが、ラシュディのワナに掛かり、この地で足止めをされておりました。本来ならば、私たち天使は下界と関わる事をかたく禁じられています。ただし、契約があった場合のみ、私たちは下界に降り立つことが出来るのです。」
「と言う事は、帝国とも契約を?」
レティシアの言葉にユーシスは怒りの混じる悲しみに眼差しを曇らせる。
「そうです…。あなた方反乱軍の方とも契約が成立していますが、その前に帝国の…魔術師ラシュディと契約を結んだ天使がいるのです。もちろん、ラシュディと契約を結ぶことは聖なる父の命によって禁じられていました。ところが、姉のミザールがこともあろうに…ラシュディを愛してしまったのです。二人の間で交わされた契約は今でも生きており、その為私たちは帝国の為にも戦わねばなりません。どうかこの私と契約し、姉を連れ戻すチャンスを下さい。」
「ミザールを連れ戻せば、帝国と天界の契約が破棄されるのか?」
「はい。姉が天界に帰りさえすれば…!」
「わかった、契約しよう。」
レティシアの言葉にユーシスが安堵の吐息をつく。
心の底では人間への不審が凝っていたのだろう。
「契約とは、どうすれば良いのだ?」
「貴方は何もする必要はありませんよ。」
ユーシスはレティシアに微笑むと、遥か天の彼方を見つめる。
そしてレティシアたちには理解出来ない、透き通った響きの言葉を紡ぎ出した。
ユーシスの身体から発せられた淡い光が天へ昇り、収束して消えて行く。
これが契約である様だ。
「ありがとうございます。反乱軍と共に命をかけて戦うことを誓います。」
その笑顔を見ながら、レティシアは天使を好きになることは出来ないかもしれない、と思う。
感情の酷薄な笑顔だった。
V.
レティシアはビクター、ユーシスと共にバーミアンへと引き帰した。
スルストが出迎えているのを見て、レティシアはつい引け腰になってしまう。
彼個人を嫌いな訳ではないのだが。
「無事で何よりデース!」
「スルスト様…ご無沙汰致しております。」
礼儀正しくユーシスは頭を下げた。
「レッティ、ビクターもご苦労様デス。」
「あ、ども。」
赤炎のスルストに声を掛けられたとあって、ビクターは緊張で身体を固くした。
スルストはレティシアをじっと見つめて優しく微笑む。
もと人間であるからだろうか?
やはり天使とは違う笑顔を見せる。
「レッティ、もう今日は休みナサイネ?リプリーたちにはミーの方から伝えてオキマス。」
「…わかりました。」
言われてレティシアは彼の洞察力に舌を巻く。
装備の上からは見える事はないが、この痛みからして腹部の傷が再び開いたのだろう。
フェンリルから受けた傷は、実はまだ完治していない。
ラシュディに操られていたとはいえ、天空の三騎士の一人・氷のフェンリルの剣だ。
そのダメージは想像を遥かに超えていた。
そしてその傷にビクターは、知らぬ事とはいえ無遠慮に触れてしまっていた。
レティシアは痛みを堪えるのに大変であったが黙って平静な顔を装っていた。
言わなかったのはビクター他、反乱軍の兵士の大半が、レティシアを無敵であると信じている節がある事にある。
レティシアは一礼をして、部屋へ戻った。
その夜方、月が天の中空を少し回った頃、バーミアンへ負傷兵が運び込まれて来た。
カーマインが隊長を務める小隊である。
「レッティ様…すみません。」
「謝らなくていい、…大丈夫か?」
「ええ、数日休めば前線に復帰出来るそうです。」
「そうか、良かった。」
「荒地に大量数出現するゴーストやスケルトンは、きっとオミクロンの研究の成果です。奴等、ルルを狙って攻撃を仕掛けているのには気付いたのですが…防ぎきれず…。」
ルルというのは、カーマインたちの隊に所属するプリーストである。
彼女の怪我は重く、もしもの為に教会へ運んで治療が続けられている。
カーマインが目を伏せるので、レティシアはその肩に手を置いた。
「責めるのなら、私を責めろ。私の采配の悪さが招いた事体だ、カーマインは何も悪くはない。」
「そんな…。」
カーマインは責められる訳がないと頭を振った。
「ありがとう、もうゆっくり休むといい。」
レティシアは負傷者全員に言葉を掛けてからその部屋を後にした。
夜風が身体を冷やそうとも、レティシアの中の激昂はおさまる事はない。
命への冒涜を、死者を汚す事を、たとえ天が許そうとも自分は許せない。
目を閉じれば浮かぶあの惨劇。
「サイノス…!」
レティシアはきつく自分を抱きしめた。
焔の髪が風になびいて燃え盛る。
―――レティシア殿。
びくっと身体を震わせて目を開けて辺りを見回した。
居る筈のない彼、聞こえる筈のない彼の声…。
レティシアはくしゃりと前髪をかき回して苦笑を浮かべる。
「…参ったな…。」
先程までの絶望的な復讐心が癒されていた。
そしてランスロットがいなくなっている事を再確認して溜息をつく。
「会いたいなぁ…。」
トリスタンが出発してからまだ3日と経っていない。
自分の独り言に自己嫌悪を抱いて一人百面相を延々と続けていると、その背に声が掛かった。
「眠れないのですか?」
「ユーシス様…いえ、負傷兵が運ばれたので顔を見に行った帰りですよ。」
レティシアの顔を見て、ユーシスが微苦笑を見せた。
「私は貴方に嫌われている様ですね。」
「そんな事は…」
指摘されて焦って否定するものの、ユーシスは、いいのですよと返した。
「私たち天使は、貴方たち人間とはどうしても異質なものです。私が嫌いなのではなくて、天使が苦手なのでしょう?」
「……。」
沈黙は肯定である。
ユーシスは胸の前で手を重ねて顔を上向きにした。
唇から唄が流れる。
静かな水面に雫が1滴落ちて奏でるような透き通った歌声は、レティシアの心を優しく癒した。
ここではじめてユーシスが自分を元気付ける為に来てくれた事を知る。
レティシアの笑顔を見て、ユーシスが満足そうに目を細めた。
「ユーシス様…ありがとうございます。」
「私は、貴方が笑う顔が好きです。姉の…ミザールを思い出します。」
レティシアはミザールの凍りついた表情を思い出す。
以前は笑顔を見せた事が信じられない程の冷たい表情であった。
なんと答えて良いか判らず、レティシアは兼ねてからの疑問を口に出した。
「その、前から気になっていましたが、天使にも姉妹があるのですか?」
「ふふ。天使として生を受けては皆が姉妹であるけれど、ミザール姉さんは特別です。私と同じ刻・同じ場所に生を受けたのですから。」
それでどうして姉・妹が決まったのだろうか、とレティシアは更なる疑問を抱いたが、つまりは思い入れが深いと言う事なのだろう。
ユーシスはやはり人間とは異なる笑顔を苦悩へと歪める。
「ミザール姉さんを連れ戻そうと、大勢の天使たちがバルハラ平原へ降りましたが、そのほとんどが…帝国兵によって捕らえられたり、その場で殺されたりしました。姉さんは何故、ラシュディなんかに…。」
深い哀しみの声音。
けして一片の怒りもそれには含まれていなかった。
「気高くて、美しくて…私は姉さんの妹である事を誇りにしておりました。今回の事だって、きっと…あの悪魔のような男に謀られただけなのです。早く…早くお救いしてあげたい…!」
だが本当にそうだろうか?
彼女が天使長としての地位をもかなぐり捨てて地上に墜ちたのは、一途な愛に殉じての事である。
ユーシスはその情熱が理解出来ていない様に見受けられる。
「謀られた」のではなく、彼女が「望んだ」のだ。
まだ確信はないが、彼女の望む救いとは…。
レティシアは眉根を寄せた。
「…ごめんなさいね。休養が必要な貴方を引き止めてしまって。」
レティシアは黙って首を振った。
これがサイノスなら、上手くユーシスを力付けてあげる事が出来ただろう。
チクリ、と胸に鋭い痛みが走る。
「おやすみなさい、レティシア。」
「おやすみなさい、ユーシス様…。」
W.
翌日、カンダハルに反乱軍の旗が高く掲げられた。
それはオミクロンを倒した事の証明でもある。
反乱軍は全軍をカンダハルへと進軍させた。
到着すると、満身創痍なラウニィーとノルンが出迎える。
オミクロンを討ち果たしたのは、彼女たちの隊であった。
「目の前で杖へし折ってやったわ!」
ラウニィーだけではなく、皆がそれを奨励するほどの怒りを覚えている事に、レティシアは首を捻った。
だがそれもノルンの説明を受けて納得する。
自由都市ケルーマンを訪れた際に、研究材料扱いをされたと言うのだ。
(彼らは知らないことではあるが、ラウニィーが怒りに任せて圧し折った杖は、死者の魔術を行う際に不可欠な『死者の杖』である)
「…ま、それはともかく。これで帝国の、死者の軍団増殖は防げた訳よね。」
「ああ。ありがとう、ラウニィー。」
ラウニィーはくしゃくしゃのブロンドに手櫛を通した。
途中で指先に絡まって顔をしかめる。
「ああ、嫌だわ。湯浴みさせてくれる時間くらいは取ってくれるわよね?」
「はいはい、皆もお疲れ様。」
レティシアはラウニィーたちを送って行く途中でデネブとカノープスに出会う。
どうやらデネブがカノープスをからかう為にまとわりついている様である。
カノープスはレティシアを見つけるなりデネブを腕から引き剥がした。
「もぉ、カノぷ〜ったらっ!」
「だから、誰がカノぷ〜だっ!?」
「カノぷ〜はカノぷ〜よゥ。」
「レッティ、この魔女どっか捨ててきていいかっ!?」
「良い訳ないだろう。捨てた場所に住む皆さんに迷惑じゃないか。」
「レッティったらひどぉい〜ッ!!」
カノープスはレティシアの冗談に腹を抱えて笑った。
デネブがふくれてどこかへ行ってしまう。
「…言いすぎたかな。」
心配そうに後姿を見送るレティシアにカノープスは手を振った。
「あの女に限って、そんな心配は無用だぜ?どーせすぐにまた寄って来らァ。」
「そうかな。」
「おう。で、留守番はどうだった?」
「ゆっくり休ませてもらったよ。」
「と言うワリには顔色があんまり…。お前、傷開いたりしてないか?」
「別に。」
レティシアの瞳が一瞬そっぽを向いたのをカノープスは見逃さなかった。
「テメー、また嘘付くか?地獄へ落ちて舌抜かれるぞ!」
「…私はコドモか…?」
その言葉を恐れて態度を改めるのは子供くらいなものだ。
レティシアはカノープスに子供扱いされているのに慣れつつあったものの、こうまであからさまだと溜息が出る。
「聞き分けの悪さはたいして変わらんよ。」
「言ってくれる。」
レティシアは苦笑するしかなかった。
「顔色の事なら多分昨日寝付けなかったからだ。傷の心配は要らない。」
「ならいいが…。」
カノープスは釈然としないながらもレティシアの言葉を尊重した。
全員の到着を知らせる法螺が鳴り響く。
2人はホールへと進んだ。
「レッティ殿。」
「アッシュ、ご苦労様。どうかしたか?」
「うむ、気になる話を聞いたのだ。スルスト様とフェンリル様は何処へ?」
「先に到着している筈だが…どうした?」
アッシュの表情が固いのが気になって、レティシアは老騎士を引きとめた。
「いや、杞憂であれば返ってレッティ殿を煩わすだけと思ってな。先にお二方と話しがしたい。」
アッシュはそう言って、レティシアの横を通りぬけ、門の方へと歩いて行った。
カノープスとなんとなく顔を見合わせて肩を竦める。
「ま、いいか?」
「俺に聞くなよ。お、ギルバルド!」
アッシュと入れ違いで入ってきたギルバルドは、カノープスに気付いてこちらに来た。
そしてレティシアに目で挨拶をする。続いてアイーシャもレティシアの姿を見つけてこちらへと来た。
「お疲れ様です、レッティ様。」
「ああ。アイーシャもお疲れ様。」
「レッティ様、帝国の手に落ちたシャングリラは、アラムートの城塞の手前まで移動させられているとの噂お聞きになられました?」
「ああ、聞いた。どこへ持って行くつもりなんだろうな?」
さあ、とアイーシャは首を傾げる。
「それにしても、シャングリラといえば伝説の中で天空に浮かぶ王宮として登場するまさに世界の秘宝…。それを戦争の道具に使うなんて!」
天空に浮かぶ島として、三騎士が住まう3つの島以外に、女神フェルアーナが住まう島、それがシャングリラである。
帝国の支配は既に天界の一部にまで届いてしまっているようだ。
「随分と酷い事をする…。」
ギルバルドが唸る。
「しかし、天空の島を移動させるのはいいが、それからどうするつもりだ?天空からと地上から挟み撃ちとしても、距離がありすぎて現実味がないだろう。」
「そうだな…俺たちの上に落とすつもりとか?」
レティシアの疑問にカノープスが冗談めかして答えた。
だがそれを否定するには十分な確証もなく、実現してもおかしくはない。
カノープスは自分を見つめる皆の真面目に目に気押されて後ずさる。
「な、なんだ、冗談だろう?真面目に取るなよ、いくら帝国だってそんな真似は…」
「しないとも限らないぞ。」
この言葉に、カノープスはごくりと喉を鳴らした。
レティシアはカンダハルの砦に先に来ている筈のウォーレンを探す事にした。
砦の奥まで足早に進んで、
「ランスロットは西棟を探…」
当然の様に後ろを振り返り、そこにいつもの聖銀の鎧に身を包んだ騎士が居ない事に戸惑う。
代わりにそこには不思議そうなカノープスとギルバルド、アイーシャがいた。
「はは、いつもランスロットが付いて来てくれているものだから癖になっている様だ。すまないが、カノープスとギルバルドは西棟を探してきてくれないか?アイーシャは、いいから施療に戻れ。」
「了解した。」
「はい、では失礼致しますね。」
ギルバルドとカノープスが進路を変えて西棟の方へ駆けて行き、アイーシャが一礼をして踵を返した。
レティシアは東棟に足を向けて、先程の不用意な発言に顔を赤くしたり青くしたりしていた。
「…なぁギルバルド…。」
「何だ?」
辺りに占星術師の姿を探しながら、ギルバルドが声だけで問い返す。
カノープスはウォーレンの姿など初めから探すゆとりなどなかった。
ただ前を行くギルバルドについて歩いているだけである。
「何か…何だろう…?」
どう言葉にすれば今の自分の気持ちが伝わるのか判らず、カノープスは裸の胸を押さえた。
焦りと苛立ちに似た感情である。
「変な奴だな…何か悪いものでも食ったか?」
ギルバルドはカノープスが言わんとしている事は見当もつかずに適当な答えを返した。
言われて昨日までの献立を思い出すが、問題は無い様に思う。
では何故だろう?
「わっかんねェ…。だけどなんかムカツク。」
それがランスロットへの羨望と嫉妬だとは、カノープスは微塵も思わなかった。
彼はレティシアを、自分の中では「ユーリアと同じ様に手のかかる妹として考えている」からである。
親友ギルバルドもそうした男女の機微には全く疎く、カノープスの変化には気付いてやれなかった。