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2004年12月24日

暗雲がたちこめ、夜だというのに気温はまだまだ上昇し、歩けば肌に汗がべっとり滲むその日はクリスマス・イブでありました。

(写真1:シティ・ホールの前のクリスマスツリー)

夜の11時、私達は
The St. John's Cathedralという
ブリスベンで一番大きな教会の前に居た。

中に入るとかなり広く、建築的にもスバラしく美しいこの教会は観光地の一つにもなっているだけに、入っただけでかなり崇高な気分になれる。










「・・・よし・・殴り込むか・・・。」
キリスト教信者でも何でもない私達は
「せっかくだから聖歌でも聞きにいこう」
という極めてミーハーな理由のもとこの場違いな聖地へ足を踏み入れてしまった。








(セレモニーの始まる前にサンタのようなオッサンに案内してもらう)




大勢の人々が着席し静かになった頃、ド派手な純白と金の服を着た司教様(司祭様?)方々が大きな銀の十字架を掲げ、入場してきた。

行列の先頭を歩く人は何やらお香のようなものを紐につけてブンブン振り回している。

「おお」と以外にもエンターテイメント的な儀式行為に興奮を覚える私。
(その後に入ってきた聖歌隊は知り合いなどに手を振ったりなんかして、ママさんコーラス的な地域くさい空気が流れていたことは無視できないが。)

「そうか、私は今夜キリストの生誕を祝うのだ!'これぞ正当なクリスマス'を初めて過ごすのだ!」

そう思うと背筋がシャッキリと伸び、あつかましくも体全身が「ワタシ、イエスの仲間ヨ」と自己主張をはじめてしまった。(雰囲気に飲まれやすい人間の悪い例です。)

しかしここで私は賛美歌を歌わなければならないことに気付く。今まで歌った事も無ければ聞いたことも無い歌を「ワタシ、イエスの仲間ヨ」は当然歌いこなせないとダメなのだ。

「マズイ。」

あらかじめ渡されていたプログラムには何やら台詞と歌詞が載っている。
聖歌隊の歌をのほほんと聴くだけではイエスの仲間として失格なのであり(?)、おまけに私の横には真のイエスの仲間であろう髭オジサンが神々しく立っているので、清しこの夜ごまかしも禁物状態だ。

しかし決められたプログラムにより容赦なくパイプオルガンの伴奏がババーンと始まる。
〜♪〜♪♪
「歌ってやろうやんけ・・。」

長年ブラスバンド部所属であった意地もあり、横の髭オジサンが歌ったメロディを0.5秒差でパクり歌うという荒攻撃に出た。(この時、友人も似たようなことをしている)

「He came down to earth from ….
髭→「heaven~♪」
私→「・・ッブン〜♪」

どうせ大勢いるので少々ズレてもなんてことはないのだと腹をくくったが、
明らかに横にいた髭オジサンには「あ〜残念!=カーン♪」の喉自慢チャイムを鳴らされていたにちがいない。

そんな髭オジサンに「次また頑張りますわ〜。」とアホ笑いで舞台を去ることもとうてい出来ず、気まずい空気でしばし着席。

つづく

(うかうかしているうちに2005年7月になっていました。)
2004年12月の話のつづきです。

このクリスマス・イブに最も似つかわしくない人物が教会にいる。

それは汗にまみれた司教さんその人なのである。

首まわり、顔、メガネの下までハンカチで苦しそうに拭っている司教さん。あげくに万年筆の先っぽみたいな帽子でムレにムレた頭まで拭いている。

換気のかの字もなさそうな重い衣装をまとっているものだから見ているほうもたまらない。

彼はおそらく「今年も暑いのに大変よねえ・・。」などど毎年のようにささやかれているのだろう。

南半球だけ特別に夏服とか作ればええのになァ・・たぶんそんなんじゃ威厳が!伝統が!とかで討論になったんかな・・といつものごとくボーっと考えていると、

例の髭ジイが突然私に握手を求めている

「何じゃ!?」

モロにうろたえる私。

「みんな握手してるからとりあえず合わせとけ」

と油断していた私に気がついた友人が小声で助言してきた。(実はパンフレットには「皆さん、
PEACE平和のしるしを交換し合いましょう」と書いてあるのだ。)

とりあえず情けない笑みを浮かべながら握手したが、PEACEどころか髭ジイにまたも恥じをさらしただけであった。

時間も12時に近くなり、いよいよイエスが生誕したその瞬間を祝う時がやってきた。まわりの人々の緊張感も高まり、教会には何やらとても神聖な空気が流れ始めた。

これはなんというかあの大晦日のような、除夜の鐘が煩悩を取り除き、新しい年を迎える感じとよく似ている。

実際に12時を過ぎた後、あっさりと教会の人々が引き上げて行ったあたりが、テレビの前で新年を待ち構え「ハイ!明けましておめでと。朝、7時起きね。ほなおやすみ。」

という我が家のパターンと酷似している。

ついに12時、人々は立ち並び、正面の十字架を見据え、その時を沈黙で迎える。

まさに今ここにイエス様が降り立ったとでも言わんばかりである。

もちろん神聖度100%に達していた私達も完全に「まさに今ここにイエス様が」状態であり、十字架から後光が差していても何の不思議も感じなかったであろう。

なかなか味わうことのできない正当クリスマスを堪能し、すっかり満足して友人と共に家路に着く。まだ興奮の余韻を残しながら宗教の違いなんぞををしばし語り合ってみる。

余談ではありますが、カナダで生まれ宗教はヒンドゥーという複雑な背景を持つ知人(彼女は色んな宗教に関しても詳しい勉強をしていたらしい)は「私は〇〇教だ」と名乗るようではまだまだだ、と語る。

「教え」は習慣や生活に自然に身についてあるべきものであり、その「名前」で自分を語るようでは甘いらしいのだ。

よって彼女は、一応仏教徒でありながらも、その多くの日本人が「でも無宗教みたいなものだよ」と名乗ることがスゴイと賞賛する。

彼女には日本人の生活習慣のそこら中に仏教の教えが織り込まれているのが見える、らしい。

座禅を組まずとも「君よ真の仏教徒よ」と褒められるの私達。この場合お坊さんの立場はどうなってしまうのか。

「いやー深いねえ」などど話ながらふとついていたテレビを見ると、

さきほど私達が経験したセレモニーが生放送で放映されているではないか。

「え!?なんで!?わしらの前にイエス様が降臨したんは1時間前やで!?」

「あ・・これ、シドニーでやってる生放送・・・。」

そうなのだ。私の住むクイーンズランド州とシドニーのあるニューサウスウェールズ州では1時間の時差がある。

シドニーでは1時間遅れてイエス様が御降臨なさるのだ。

「さっき感じたあの神聖さは何だったのか・・。」

汗まみれの司教さんと時間差降臨のイエス様

オーストラリアのクリスマスはなんともユニークでございました。

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