1月       2月のリビング         3月
2月22日(土) わたしだけ?

恐竜映画が話題になった頃のこと。

「なんとかザウルスとかなんとかドンとか恐竜の名前は長すぎて呼びにくいわ」と私。

「誰が恐竜に呼びかけるねん!人間がおるわけないやろ!」と息子にいわれた。

そうだったのか。

2月11日(火) 言語尊重の原則

EU(欧州連合)の通訳 大幅増員へ という新聞記事が目にとまった。

中東欧諸国など10カ国の新加盟によってEUの公用語が11から20になるからなのだそうだ。
EUが掲げる「民主主義と言語尊重主義」とある。

そういうことが掲げられていたのか。
知らなかった。感動した!?

「EUの政策は人びとの生活に影響するから、その内容はすべての市民に理解されねばならない」というのがその趣旨らしい。

「英語圏有利」排除には不可欠。とも。

実は私はパソコンをはじめるとやたらに登場するアルファベット語やその略語を苦々しく思っていた。

インターネットだから仕方がない、というより、むしろそれでなくてはインターネットが成立しないともいえる。

BUT

「最近 みんな日本語にする努力をせんようになった」
パソコンをさわらない夫の名言である。

確かに 「いい日本語」がつくられなくなっている。

IT(インフォーメーションテクノロジー 情報技術)を何度指摘されても(インターネット)と思ってしまう私なのです。


2月6日(木) 交流の家

Yさんの米作りが2年目を迎える。

「農業をやってみたい」
「じゃあ ウチで練習してみたら?」から出発して一年。
Yさんの夢がすこしづつ形になってくる。

私達は「交流の家」建設運動の仲間だった。ハンセン氏病「らい」の回復者が宿泊を拒否されたことをきっかけとしてその運動がはじまった。

学生を中心としたボランティア。療養所から参加した「らい回復者」もいた。
そして「だれでも泊まれる家」が奈良に完成した。

「交流の家」は今も奈良の地で「人びとをむすぶ家」として存在しつづけている。

「家」から遠く離れてしまった人。いつまでも「家」に通っている人。関わり方は様々だ。それぞれの「交流の家」があっていい。と 私は思う。

Yさんの夢 それは農業をしながら
Yさんの「交流の家」をつくることなのだと私は思っている。


2月1日(土) 涙そうそう

1月31日 朝日新聞のひととき欄を読んで驚いた。「涙そうそう」という歌のことがかかれている。一柳さんという筆者は1年程前にお父さんを亡くされ、夢のなかにいるような時を過ごされていた最中に車のラジオでこの曲をきかれたという。

森山良子さんが亡くなったお兄さんを思って作られたこの歌をきき、「陽気だった父を思って思いっきり泣きました。」とかいておられる。

1年程前そのラジオを私も車のなかで聞き、同じように父を思い、同じように泣いていた。人一倍わがままで陽気だった父。私を「目の中にいれてもいたくない」とかわいがってくれた父。

古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中
励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想いで遠くあせても
おもかげ 探して
よみがえる日は 涙そうそう

「その後幾度となくこの曲を耳にしましたが、いつでも涙が出てしまいます」と書いておられる一柳さんは 先日お父さんの一周忌を済まされたそうだ。
著名な方のようでくらぶべくもないが

わがまま放題ながら家族を守って一生懸命生きた父。
父の3回忌をすませた私は今でも涙なしでこの曲をきくことができない。
 1月